第66話:不当ノルマ(KPI)の解体と、窓口の監査(オーディット)
「……この違法労働の証拠データを、王都の労働監査局、およびマスコミ各社へ一斉送信します」
私の静かで、しかし絶対的な冷気を孕んだ宣言(最後通牒)が、王都冒険者ギルドの一階フロアに木霊した。
水を打ったように静まり返るフロア。冒険者たちは固唾を呑んで事の成り行きを見守り、当事者であるギルド本部のゲレルト人事統括官と、マスター・バーンズの顔からは完全に血の気が失せていた。
「な、内部告発……!? ま、待て、アイラ君!」
先に耐えきれなくなったのは、現場の責任者であるマスターだった。
彼は脂汗をダラダラと流しながら、必死の弁明を開始する。
「誤解だ! 私はセリア君を搾取しようなどと……ただ、本部からの『新人定着率を上げろ』という指示があまりにも厳しくて! 彼女の優秀さに甘えてしまっただけで、決して悪気は……!」
「悪意の有無など、システムの評価において何のパラメーターにもなりません」
私は極上の『営業用スマイル』を保ったまま、手元の羽ペンの先でマスターを指し示した。
「無能な管理者が引き起こす『善意の過重労働』は、悪意による搾取よりもタチが悪いバグです。貴方はセリア様の個人的な責任感と善意にタダ乗り(フリーライド)し、ギルドの管理者としての本来の職務……すなわち【適切な工数見積もり】と【本部への現実的なリスケジュール交渉】を放棄した。違いますか?」
「うっ……! そ、それは……」
「責任逃れは見苦しいぞ、バーンズ!!」
マスターが言葉に詰まった瞬間、ゲレルト統括官が突然、マスターを指差して声を荒らげた。
典型的な、トカゲの尻尾切り(責任転嫁プロセス)の起動である。
「私があくまで要求したのは『新人教育の徹底』だ! まさか現場のギルドマスターである君が、セリア一人にこれほどの過重労働を強いていたとは夢にも思わなかった! すべては君の管理怠慢と暴走だ! 私の推進するプロジェクトには何の問題もない!」
「なっ!? 統括官! 評価シートを毎日手書きで出せと命じたのは貴方じゃないですか!」
「現場の裁量で調整すればよかっただけの話だろうが! 私は知らない、本部は一切関知せんぞ!」
醜い責任の押し付け合い(無限ループ)を始めた上層部の二人。
私の目——【残響の波紋】には、ゲレルトから放たれる『保身の黄土色』と、マスターから放たれる『パニックの赤紫色』が、ひどく濁った色となって渦巻いているのが見えた。
(……本当に、どこの組織にも存在するわね。手柄はトップダウンで独占し、エラーはボトムアップで末端に押し付ける、腐りきった管理者たちが)
「お静かに(サイレンス)」
私の【威圧の低音(SVボイス)】が、二人の醜い口論を強制的にシャットダウン(遮断)した。
「ゲレルト統括官。貴方は『自分のプロジェクトには何の問題もない』と仰いましたね? では、この場で【事実】を確認しましょう。……ミア。こちらへ」
「はいッ! アイラ先生!」
私の呼びかけに応じ、十五人の新人たちを代表して、シーフの少女ミアが窓口の前に進み出た。
「な、なんだこの小娘は」と怪訝な顔をするゲレルトに対し、私はミアに証言(ログの開示)を促した。
「ミア。貴方がたがこの二日間、ダンジョンでの実地研修(OJT)で経験した『現場の真実』を、統括官殿に報告しなさい」
「了解しました!」
ミアは背筋をピンと伸ばし、堂々たる態度で告げた。
「この二日間、セリア先輩は私たちに『戦闘技術』を直接教えることはほぼありませんでした!」
「……何?」ゲレルトが眉をひそめる。
「セリア先輩の卓越した戦闘能力と速度は、Fランクの私たちには到底真似できるものではないからです。……その代わり、私たちはアイラ先生から叩き込まれた【ロジック(コスト管理と索敵)】を活用し、先輩の戦闘外の雑務をすべて巻き取ることで、パーティー全体の利益率を最大化することに成功しました!」
ミアは、自分たちが独自に作成した『収支報告書』をゲレルトに突きつけた。
「これがそのエビデンスです! つまり、この研修が黒字だったのは、セリア先輩の超人的な身体能力と、私たちの後方支援システムの【互換性】が偶然一致した結果に過ぎません。……本部の要求する『評価シートの手書き』や『情熱的なメンター指導』など、現場では一秒も行われておらず、何の役にも立っていません!」
「なっ……!?」
ゲレルトは、計算尽くされた完璧な収支報告書を見せつけられ、絶句した。
「ご理解いただけましたか、統括官殿」
私は、冷ややかな視線で初老の人事トップを射抜いた。
「貴方がたが机上の空論で策定した『新人定着率向上プロジェクト』の実態は、現場の実態と完全に乖離した【机上のポエム(バグ)】です。現場は、その矛盾を埋め合わせるために、セリア様という極めて優秀な一個人の睡眠時間を削って、帳尻を合わせていただけに過ぎない」
「くっ……! だが、結果として新人は育っているじゃないか! ならば私のKPI設定は間違って……」
「現実から目を背けないでください(エスケープ・不可)」
私は、トドメとなる論理の刃を振り下ろした。
「現場の優秀な人材を過労死の瀬戸際まで追い詰めなければ達成できない目標など、組織においては【欠陥品】と呼びます。……システム設計者(本部)の無知と、現場管理者の怠慢。このコンプライアンス違反の責任は、貴方がた『両方』にあります」
もはや、ゲレルトに反論の余地はなかった。
彼の顔は完全な敗北を示す青白色に染まり、ワナワナと震えながら一歩後ずさりした。
「……私の提示した『業務改善命令』を、もう一度繰り返しましょうか」
私は手元の砂時計の砂が落ちるのを確認しながら、極上の笑顔で宣告した。
「一、セリア様に対する不当な事務ノルマ(評価シート)の即時完全撤廃。
二、過去二日間の超過労働に対する、時給換算での適正な特別手当の満額支給。……出処は本部の予算、あるいはゲレルト統括官のポケットマネー(自腹)でも構いません。
三、これらの事実を隠蔽せず、ギルド本部の正規の議事録として残すこと」
「……っ!!」
「以上の三点が、本日十七時までに承認されない場合。……私は定時退勤と同時に、このデータを王都中のマスコミに持ち込みます。……さあ、どうしますか? 統括官殿」
沈黙が、ギルドを支配した。
数秒後、ゲレルトはギリッと奥歯を噛み砕くような音を立て、懐から本部の決裁印を取り出した。
「……わかった。君の……いや、貴様の要求を、すべて全面的に受け入れよう……」
震える手で、私が差し出した『業務改善同意書』にサインと印が押される。
マスターもまた、半泣きになりながらそれに署名した。
「……賢明な判断です。ご協力に感謝いたします」
私は同意書を素早く回収し、引き出しの中に厳重にロック(保存)した。
「クソッ……! 覚えていろ、たかが受付嬢が……本部に逆らってタダで済むと思うなよ……!」
ゲレルトは捨て台詞を吐き捨てると、逃げるようにギルドの扉から飛び出していった。
マスターもまた、「あ、ああ……私の本部からの評価が……」と頭を抱えながら、力なく二階の執務室へと消えていく。
二人の無能な管理者が去った後、フロアには安堵の空気が広がった。
「やりましたね、アイラ先生!! 私たちの勝利です!」
ミアたち新人インターンが、歓声を上げて喜び合う。
「勝利ではありません。本来の、正常なプロセス(日常)に戻っただけです」
私は窓口から一歩も動かず、手元の羽ペンを再び走らせ始めた。
「さあ、ミア。貴方がたは現場での実習を終えましたが、冒険者としてのタスクはまだ終わっていません。先ほどの収支報告書をベースに、本日の各自の報酬計算(経理処理)を行いなさい。……私の定時まで、残り一時間半。一切の遅滞は許しませんよ」
「「「はいッ! 了解いたしました、アイラ先生!!」」」
新人たちは見事な敬礼を見せ、フロアの隅のテーブルで、かつてないほどの凄まじい速度で事務処理を開始した。
(……これで、組織のバグは完全に除去された。セリア様の肉体と精神のリカバリには数日かかるでしょうが、ひとまずは問題ないでしょう)
ギルドに平穏な事務作業の音が響き渡る。
私の心はすでに、王都の喧騒から離れた『波音』の、熱々の出汁がかけられた『桜海老と春キャベツの出汁茶漬け』へと飛んでいた。
不当なノルマと無能な上司を論理で粉砕した後の、あのツンとくるワサビの刺激。
それは間違いなく、疲弊した私の心と胃袋を、この上なく完璧に満たしてくれるはずだ。




