第65話:隠蔽された過重労働と、窓口からの内部告発(エスカレーション)
胃が少し疲れている時こそ、出汁の旨味が真価を発揮する。
私は、冒険者ギルドの一階窓口で、手元の帳簿に美しい筆記体で数字を埋めながら、本日の【定時退勤後のリカバリ・プラン】を脳内で構築していた。
昨日のイレギュラー対応による精神的疲労を最適に浄化するための本日のターゲットは、王都の裏路地に佇む名店『波音』の裏メニュー。
――『桜海老と春キャベツの出汁茶漬け、ワサビを添えて』だ。
香ばしく素揚げされたサクサクの桜海老と、春キャベツの瑞々しい甘み。それらを、少し硬めに炊かれた熱々の白米の上に乗せ、極上の昆布と鰹の合わせ出汁をたっぷりと回しかける。
桜海老の香ばしさが出汁に溶け出し、キャベツがほんのりと熱を持って甘みを増す。そこに、ツンと鼻を抜ける新鮮なすりおろしワサビを少しだけ溶かし込み、サラサラと胃袋へ流し込む。
過労で疲弊した胃腸にも優しく、それでいて確かな満足感を与えてくれる、完璧なヒーリング・フード。
(……素晴らしい。この至高の出汁茶漬けを、出汁が冷めない完璧な温度で味わうためなら、どんな厄介な組織のバグも一瞬でデバッグしてみせるわ)
私が脳内でワサビを溶かしていた、その数十分前のことである。
カウンターに突っ伏して気絶してしまったAランク剣士・セリアを医務室へ運ばせた直後、私の窓口に、一人の小柄な影がスッと近づいてきた。
「……アイラ先生。緊急の報告です」
声を潜めて現れたのは、新人研修生のリーダー格であるシーフの少女、ミアだった。彼女は周囲の目を気にしながら、一枚の羊皮紙をカウンターの下からそっと差し出した。
「昨日、先生に命じられた【裏タスク】……セリア先輩の正確な活動記録です。それと、先輩が徹夜で書かされていた『評価シート』のコピーも」
「ご苦労様です、ミア。……ルーク、先ほどの経理データと照合を」
「は、はいッ!」
私は受け取ったデータを、ルークが極秘に持ち出したギルドの報酬台帳と突き合わせた。
そして、その数字の羅列を見た瞬間、私の右眉がピクリと跳ね上がった。
「……なるほど。完全なブラック労働(違法建築)ですね」
「ブ、ブラック? どういうことですか、アイラさん?」
ルークが身を乗り出してくる。私は羽ペンで、羊皮紙の上の『二つの数字』を丸で囲んだ。
「ミアが記録したログによれば、昨日のセリア様の実働時間は、ダンジョンでの引率が十時間。そしてギルド帰還後、マスターから押し付けられた『手書きの評価シート(十五人分)』の作成に七時間。……合計十七時間の連続稼働です。睡眠時間は三時間を切っています」
「じゅうなな時間!? そ、それは倒れますよ!」
「問題はそれだけではありません」
私は、冷ややかな目でギルドの報酬台帳を指差した。
「ギルド本部がセリア様に支給している『メンター引率手当』は、一日あたり銀貨五十枚。……これを、彼女の昨日の実働時間(十七時間)で割るとどうなりますか?」
「ええと……一時間あたり、銀貨三枚弱……」
「Fランクの初心者が受ける『王都周辺のドブさらい(単純作業)』の時給が、銀貨五枚です。つまり、王都トップクラスのAランク冒険者であるセリア様は現在、ドブさらい以下の【不当な低賃金】で、命がけの引率と徹夜の事務作業を強制されていることになります」
「な、なんだってェェッ!?」
ルークが素頓狂な声を上げ、ミアも信じられないというように口元を押さえた。
「これは教育(OJT)などではありません。現場の優秀な人材に過度な負担を強いて、無能な管理者が『新人定着率向上』という手柄だけを本部にアピールするための、【偽装請負】であり【過重労働の隠蔽】です。……私の大切な人的資源(セリア様と新人たち)を、このような『組織の腐敗』で使い潰させるわけにはいきませんね」
――そして、現在。
『……ギルド本部の人事統括官。ならびにマスター・バーンズ。……至急、一階窓口までお越しください。貴方がたの策定したKPIに、重大な【コンプライアンス違反(規約違反)】が発見されました』
私が窓口の増幅用魔導具を通じて放った【絶対零度のSVボイス】が、ギルド一階のフロアに静かに、しかし確かな威圧感を持って響き渡っていた。
ざわついていた冒険者たちが、蜘蛛の子を散らすように窓口の前から後ずさりする。
それから数分後。
二階の執務室から、血相を変えたギルドマスターのバーンズと、仕立ての良い豪奢なローブを着た神経質そうな初老の男が、階段を駆け下りてきた。
「ア、アイラ君! いきなりフロア中に響き渡る声で、何を馬鹿なことを……!」
「君がこのギルドの受付嬢か。コンプライアンス違反とは聞き捨てならんな」
初老の男――ギルド本部から派遣された人事統括官のゲレルトが、鷹のように鋭い目で私を睨みつけた。
「私が推進している『新人定着率向上プロジェクト』に、違反などあるはずがない。ベテランによる手厚い個別指導と、毎日提出される詳細な評価シート。完璧な教育体制だ。一介の受付嬢が、本部の決定にケチをつける気か?」
「ええ、つけさせていただきます」
私は窓口の椅子から一ミリも動かず、極上の『営業用スマイル』を浮かべたまま、ゲレルト統括官を真っ直ぐに見据えた。
「貴方がたの策定したその完璧な教育体制とやらのおかげで、つい先ほど、我がギルドが誇るAランク剣士・セリア様が、過労により窓口で意識を失い(クラッシュし)ました」
「なっ……! セリア君が!?」
マスターが青ざめる。
「倒れただと? ふん、自己管理ができていないだけだろう。Aランクともあろう者が情けない」
ゲレルト統括官は鼻で笑った。典型的な、現場の負担を個人の責任に転嫁するサイコパス管理職の反応だ。
「自己管理、ですか」
私の目——【残響の波紋】には、ゲレルトから放たれる『現場への無関心』と『自己保身』を示す、醜く淀んだ黄土色の波紋がハッキリと映し出されていた。
私は、手元に用意していた【セリアの真の活動記録】と【報酬台帳のコピー】を、窓口のカウンターにドンッと突きつけた。
「ゲレルト統括官。貴方が『自己管理不足』と切り捨てた彼女の昨日の実働時間は、連続十七時間です。さらに、貴方がたが要求した『十五人分の手書き評価シート』を作成するため、彼女の時給はFランクのドブさらい以下にまで低下しています」
「な、なんだその数字は! そんな報告は上がってきていないぞ!」
「当然です。無能な現場責任者が、自らの保身のために、都合の悪い稼働データ(エラーログ)を隠蔽して報告していたのですから」
「ヒィッ!?」
私に指を差されたマスターが、ビクゥッと肩を震わせた。
「貴方がたの言う『新人定着率向上(KPI)』は、現場の優秀な個人に対する【違法な搾取】によってのみ成立する、砂上の楼閣です。……指導側の労働コストに対する正当なインセンティブ(報酬)を用意せず、無意味な精神論の報告書を強要する。これは、冒険者ギルド基本労働規約・第三十八条『不当な無償労働の禁止』に完全に抵触しています」
「き、貴様……たかが受付嬢の分際で、本部の統括官である私に説教をする気か!」
ゲレルトが顔を真っ赤にして怒鳴り声を上げた。
「説教ではありません。事実に基づく、業務改善命令です」
私は一切の感情を排した目で、彼らを見下ろした。
「今すぐ、セリア様に対する不当な事務ノルマを完全撤廃すること。そして、これまでの超過労働分に対する適正な特別手当を、本部の予算から即日支給すること。……これが実行されない場合、私はこの『違法労働の証拠データ』を、王都の労働監査局、およびマスコミ各社へ一斉送信します」
ギルドのフロアに、水を打ったような静寂が落ちた。
「なっ……! 内部告発だと……!?」
ゲレルト統括官の顔から、さぁっと血の気が引いていく。
「お選びください(セレクト)。現場の現実を受け入れてシステムを修正するか、あるいは……ご自身の輝かしいキャリア(管理者権限)ごと、社会的にシャットダウンされるか」
定時の十七時まで、残り六時間。
私の至高の『出汁茶漬け』を阻害する不当な組織のバグは、もはや完全に私の掌の上(論理の檻の中)に囚われていた。




