第63話:トップダウンの無茶振りと、限界女性剣士の受難
うららかな春の陽気が過ぎ去り、王都を吹き抜ける風に、ほんのりと初夏の湿り気が混じり始めた五月の下旬。
私は、王都冒険者ギルドの一階窓口で、手元の羽ペンを極限の処理速度で走らせながら、本日の【定時退勤後の絶対目標】に向けて、脳内のスケジュールを完璧にコンパイルしていた。
本日の標的は、王都の裏路地にある隠れ家的な小料理屋『波音』の初夏限定メニュー。
――『殻付き大ハマグリの酒蒸し』と、『初鰹の叩き(薬味まみれ)』である。
手のひらほどもある立派な大ハマグリを、極上の純米酒で一気に蒸し上げる。パカッと開いた分厚い殻の中には、プリプリにはち切れんばかりに膨らんだ身と、海のエキスが凝縮された乳白色のスープがなみなみと満たされている。
それに合わせるのは、初夏の海を回遊してきたばかりの「初鰹」。表面をサッと炙って香ばしさを引き出し、中身は艶やかなルビー色の生肉。そこに、たっぷりの新玉ねぎ、大葉、ミョウガ、おろし生姜を山のように乗せ、ポン酢を豪快にかけていただく。
(……完璧ね。貝の旨味成分(コハク酸)と、鰹の濃厚な鉄分。この二つのリソースを、キリッと冷えた日本酒で胃袋へ流し込む。初夏の気配を感じる夜風の中で味わうその一瞬のために、私は今日のすべての業務を、一切の遅滞なく十七時ジャストに終了させる……!)
私が脳内で、大ハマグリの身を噛み締めたその時だった。
『……ハァ、ハァ……』
ギルドの扉が重々しく開き、一人の冒険者がふらふらとした足取りで入ってきた。
背中には、彼女の身の丈に合わないほど巨大な両手剣。無駄のないしなやかな体躯を包む黒銀の軽鎧。そして、腰まで届く鮮やかな真紅の長髪。
王都ギルドが誇るAランクの凄腕女性剣士であり、誰ともパーティーを組まない「一匹狼」として名を馳せる実力派、セリアだ。
普段なら、彼女がギルドに現れると、周囲の冒険者たちが「おお、氷の刃のセリアだ」と道を空けるほどの威圧感と美貌を放っているのだが。
今日の彼女は、どう見ても様子がおかしかった。
「……あ、アイラ。昨日の西の森での討伐報告……」
私の窓口に手をついたセリアは、まるで三日三晩ダンジョンに閉じ込められていたかのような、深い疲労感を纏っていた。
透き通るような白い肌には生気がなく、美しい切れ長の目の下には、ひどく濃いクマができている。今にもその場に崩れ落ちそうなほどの、完全な【処理落ち(フリーズ)状態】だ。
「セリア様。お疲れのようですね。昨日の討伐は、たしか単独でのワイバーン三体の処理だったはずですが。貴方の実力なら、そこまで疲弊する難易度ではないはずでは?」
私が極上の『営業用スマイル』を崩さずに尋ねると、セリアはギリッと奥歯を噛み締めた。
「……ええ。ワイバーン自体は、一時間で終わったわ。問題は……その後よ」
彼女が恨めしそうにギルドの入り口を振り返る。
セリアの背後から、ワラワラとギルド内に入ってきた集団があった。
それは、先日私が三日間にわたる地獄の適性審査によって鍛え上げ、ノイズから【正式な人的リソース】へと昇格させた、十五名の新人冒険者(元インターン)たちだった。
先頭には、小柄なシーフの少女、ミアの姿もある。彼らは一糸乱れぬ動きでセリアの後ろに整列し、私に向かって深々と一礼した。
「アイラ先生! おはようございます! 本日もセリア先輩のご指導のもと、ギルドの利益に貢献してまいります!」
ミアが、完全に私と同じ『事務職のトーン』で報告を行う。
「……おはようございます、ミア。……セリア様、これは一体どういう状況でしょうか?」
私が首を傾げた、その直後。
「おお、アイラ君! セリア君! 今日も朝から精が出るねぇ!」
二階の執務室から、ギルドマスターのバーンズが、なんとも胡散臭い笑顔を浮かべながら階段を降りてきた。手には、真新しいバインダー(評価シート)が握られている。
「マスター。……説明を求めます。なぜ、一匹狼であるAランクのセリア様が、Fランクの新人十五人を引き連れているのですか?」
「ふっふっふ。実はね、ギルド本部から来期の【重要業績評価指標(KPI)】として、『新人冒険者の定着率の大幅な向上』が厳命されたんだよ!」
マスターは、いかにも自分の一手柄だと言わんばかりに胸を張った。
「そこで私は考えた! 新人を定着させるには、優秀な先輩の背中を見せるのが一番だ。だから、我がギルドが誇る実力派のセリア君に、この十五人の【合同実地研修の引率】を任命したのさ!」
「……」
私の右眉が、ピクリと動いた。
セリアの顔を見ると、彼女は完全に虚無の表情(死んだ目)になり、ギリギリとカウンターの木枠を握り潰さんばかりの力で握りしめていた。
「マスター。貴方は正気ですか」
私は、一切の感情を排した【絶対零度のSVボイス】で、マスターを刺した。
「一匹狼として単独行動に最適化されている彼女に、いきなり十五人もの初心者の面倒を見させる? それは教育(OJT)ではありません。単なる現場への【無茶振り(丸投げ)】です。彼女の本来のパフォーマンス(Aランクの討伐効率)を著しく低下させる、致命的なシステム・バグですが」
「あ、アイラ君……言葉がキツいよ! だが、これは本部からの決定事項でね! すでに昨日の午後から、セリア君には引率をお願いしているんだ。ほら、セリア君。昨日の『新人十五名分の詳細な戦闘ログと改善点の評価シート』は提出してもらえるかな?」
マスターが、ニコニコとセリアに手を差し出す。
「……徹夜で、書いたわよ……。ガキどもの装備の直しから、歩くペースの配分、誰がどの魔物を殴ったかの記録まで……。私、いつ寝たのかしら……」
セリアは、血を吐くような声で、分厚い羊皮紙の束をカウンターに叩きつけた。
私の目——【残響の波紋】が、セリアの声から放たれる色を捉える。
それは、疲労とストレスで完全に淀みきった、真っ黒に近い「灰色」の波紋だった。彼女の精神的・肉体的なバイタル(魔力波長)は、すでに【バーンアウト(燃え尽き症候群)】の臨界点を突破しようとしている。
「マスター。この評価シートの手書き提出も、貴方の指示ですか?」
「あ、ああ! 本部に『うちはこれだけ細かく新人をケアしています』ってアピール(報告)するために必要でね! セリア君、今日も引率よろしく頼むよ! じゃあ、私は忙しいからこれで!」
マスターは、私の冷たい視線から逃げるように、評価シートを引ったくって二階へと逃亡してしまった。
「……セリア様。大丈夫ですか」
私は、珍しく同情の念を込めて、セリアに温かいお茶を差し出した。
「……最悪よ。なんで私が、こんなガキどものお守りを……。ワイバーン十体と同時に戦う方が、よっぽどマシだわ……」
セリアはお茶を一気に飲み干し、フラフラと立ち上がった。
「行くわよ、お前たち。……今日は東の洞窟よ。絶対に私の後ろから離れるんじゃないわよ。足手まといになったら、置いて帰るからね……」
「「「はい! セリア先輩、よろしくお願いいたします!!」」」
新人たちは、軍隊のような完璧な敬礼をして、死に体のセリアの後についてギルドを出て行った。
(……典型的な、中間管理職の悲鳴ね)
現場の現実を完全に無視してトップが決定した、見栄えだけの数値目標(KPI)。
それを達成するために、最も優秀な個人の『善意と責任感』にすべての負担(しわ寄せ)を押し付ける。企業が腐敗し、優秀な人材から順に壊れていく、最も醜悪な【組織のアンチパターン】だ。
「……ルーク」
私は窓口から一歩も動かず、カウンターの端で書類整理をしていた新人職員を呼び寄せた。
「は、はいッ! アイラさん!」
「ギルドの経理ファイルから、今月の【マスターへの特別報酬額】と、セリア様に対する【メンター引率手当の規定額】のデータを、すべて私の端末(手元)にコピーしてきなさい。……それから、通信魔導具を繋いでちょうだい。宛先は、新人パーティーの代表、ミアです」
「えっ? ミアちゃんにですか? わかりました!」
数秒後、私のインカムに、ダンジョンへ向かっているミアの回線が繋がった。
『はい、こちらミア! アイラ先生、いかがなさいましたか?』
「ミア。貴方がたに、一つ【裏タスク】を命じます」
私は、手元の羽ペンを静かに置き、モニター越しの彼女に指令を下した。
「本日一日。引率者であるセリア様の『戦闘参加時間』『消費魔力量』『指示を出した回数』、および『休憩時間』のデータを、正確に記録しなさい。……おそらく、今日の夕方には、あの美しい剣士は過労で倒れるでしょうから」
『えっ!? セリア先輩が!? わかりました、完璧に記録して持ち帰ります!』
通信を切り、私はフッと冷たい息を吐いた。
(……ギルド本部と無能なマスターが、私の大切な【未来の人的資産(新人たち)】と、優秀な前衛リソースであるセリア様を、このような不当なバグ(搾取)で使い潰そうとしている。……到底、看過できるものではありませんね)
手元の砂時計の砂が、さらさらと落ちていく。
定時の十七時まで、残り八時間。
私の『大ハマグリの酒蒸し』と『初鰹の叩き』を、誰にも邪魔させず、完璧な状態で味わうため。
窓口から一歩も動かずに、無能な経営層の『不当なKPI』を論理で解体する、新たな事務処理プロセスが、静かに起動した。




