第59話:アイラ流・フィルタリング(適性審査)と、冒険の損益分岐点
王都冒険者ギルドの一階フロアは、かつてないほどの異様な静寂と、苦悶の呻き声に包まれていた。
普段なら血の気の多い冒険者たちの怒号や、酒盛りをする笑い声が響く場所である。しかし現在、フロアを埋め尽くしている百人超の新人(志望者)たちは、床に這いつくばるか、あるいは壁に背を預けながら、私が配布した『白紙の羊皮紙』と格闘していた。
「くっ……ポーション一本の原価が銀貨一枚で、ゴブリンの討伐報酬が銅貨五枚……? いや、待てよ、王都から西の森までの馬車代が……」
「なんだこれ、数字が合わねぇ! 食費を入れたら赤字になるぞ!?」
「ううっ、頭が痛い……俺は魔法を撃ちに来たのに、なんで算術のテストを……」
私が窓口から一歩も動かずに発動した【マス・スクリーニング(大量適性審査)】。
それは、彼らに「冒険者としての事業計画書(コスト計算)」を提出させるという、夢とロマン(幻想)を根底から打ち砕く極めて現実的で冷酷なテストだった。
私は窓口の椅子に深く腰掛け、淹れたての紅茶を優雅に啜りながら手元の砂時計を一瞥した。
時刻は午前十時ちょうど。
テスト開始から、きっちり一時間が経過した。
「そこまで(タイムアップ)。……ルーク、回収を」
「は、はいッ!」
私の静かな、しかしフロア全体に通る声に、新人たちがビクッと肩を震わせる。ルークが素早い動きでフロアを駆け回り、百枚以上の羊皮紙を回収して私のデスクの上に積み上げた。
「あ、あの! あと五分、いや一分だけ待ってくれ! 最後の計算が……!」
「却下です。実際の戦闘において、魔物は貴方が詠唱を思い出すのを一分待ってはくれません。納期を守れない者は、その時点で致命的な【システム・エラー】です」
私は泣きつく新人を冷徹に切り捨て、積み上げられた羊皮紙の束に素早く目を通し始めた。
パラパラとページをめくるだけで、九割方の回答がゴミ(構文エラー)であることがわかる。
「……移動費の項目に『気合いで歩く』と記載。消費カロリーと疲労による戦闘力低下のパラメーターを無視していますね、不採用」
「……武器のメンテナンス費用が計上されていない(エラー)。三日目で剣が刃こぼれして死ぬでしょう。不採用」
「……こちらに至っては、白紙の裏に私の似顔絵とポエムが書かれている(論外)。重度のコンプライアンス違反として、ギルドへの出入りを永久に禁じます(アカウントBAN)」
「な、なんだとォォッ!?」
私が次々と不採用通知を突きつけると、フロアの空気が一気に険悪になった。
とある巨漢の男が、耐えきれなくなったように立ち上がり、私の窓口へとズカズカと歩み寄ってきた。彼は真新しい、分厚い鋼の鎧に身を包み、背中には身の丈ほどもある大剣を背負っている。
「ふざけるなよ、受付嬢! さっきから聞いてりゃ、金だの原価だの計算だの……冒険ってのはな、そんなケチ臭いもんじゃねぇだろうが! 腕力と勇気! それさえあれば、魔物なんて一刀両断だ!」
男がカウンターをバンッと叩き、周囲の不合格者たちも「そうだそうだ!」「机上の空論で俺たちを判断するな!」と同調し始めた。
二階の執務室の影から見守っていたマスターが、「ヒィッ、暴動が起きる!」と頭を抱えている。
だが、私は紅茶のカップをソーサーに静かに置き、極上の『営業用スマイル・タイプB(論破用)』を顔面に展開した。
「腕力と勇気、ですか。……素晴らしいパッションですね。では、貴方のその『勇気』の【損益分岐点】について、少しお話ししましょうか」
「そんえき、なんだって?」
男が怪訝な顔をする。私は彼から一歩も距離を取らず、彼の装備を上から下まで値踏みするように見つめた。
「貴方のその大剣と全身鎧。総重量は推定で四十キロといったところでしょう。それを着込んで西の森まで二時間歩き、さらに全力で剣を振り回した場合の消費カロリーは、一日あたり最低でも四千キロカロリーを下りません」
「……あ? だからなんだよ」
「それを補うためには、宿屋で提供される一番安い『麦粥と塩漬け肉のセット(銅貨三枚)』を、一日に五食は摂取する必要があります。一日あたりの【食費】は銅貨十五枚。さらに、その鋼の鎧と大剣を維持するための研ぎ粉や油などの【保守費用】が、一日平均で銅貨五枚かかります」
私は手元の端末(計算機)をパチパチと叩き、冷酷な数字を突きつけた。
「つまり、貴方が『ただ生きているだけ』で、一日に銅貨二十枚が消費される計算です。……対して、Fランクの初心者が最初に受けるゴブリン討伐の報酬は、一匹につき銅貨五枚。貴方は毎日、最低でもゴブリンを四匹倒し続けなければ、その日の宿代すら払えず、野垂れ死ぬことになります」
「うっ……! そ、それくらい、俺の腕力なら……」
「魔物は都合よく毎日四匹も現れてはくれません。天候不良で討伐に出られない日もあれば、怪我をして休む日(リカバリー期間)もある。……事前計画を持たずに勇気だけで突っ込めば、一週間以内に資金がショートし、貴方は飢え死にするか、武器を質に入れて借金取りに追われることになります。違いますか?」
「…………ッ」
巨漢の男は、圧倒的な『現実』の前に言葉を失い、顔面を蒼白にさせた。
私の目——【残響の波紋】には、彼から噴き出していた根拠のない自信の「黄色」が、恐怖と理解を示す「青色」へと急速に塗り替わっていくのが見えていた。
理解できたのなら、まだ救いようはある。
「冒険とは、夢やロマンではありません。己の命とリソースを投資し、利益を得るための【極めてシビアな個人事業】です。……それが理解できないなら、大人しく田舎に帰って畑を耕しなさい。その方が、はるかに安全で健全なライフスタイル(キャリアパス)ですよ」
フロアは、水を打ったように静まり返っていた。
暴動を起こしかけていた新人たちは、私の突きつけた『冒険の現実』に打ちのめされ、一人、また一人と、無言でギルドの扉へと向かい始めた。
「……帰ろう」「俺、宿代すら計算してなかった……」「母ちゃんの畑、手伝お……」
雑誌の記事に踊らされてやってきただけの【ノイズ】たちが、次々とシステムから自発的にログアウトしていく。
数十分後。
あれほど喧騒に包まれていたギルドの一階フロアには、爽やかな春の風が吹き抜けていた。
「ア、アイラ君……すごい。あんなにいた志望者が、あっという間に……」
マスターが二階から降りてきて、呆然とフロアを見渡した。
「当然です。無駄なトラフィック(通信量)を捌くには、強力なフィルタリング(現実)をかけるのが一番ですから」
私は羽ペンをインク瓶に戻し、残った羊皮紙の束をトントンと揃えた。
……だが。
フロアには、まだ「残っている者たち」がいた。
百人以上いた志望者の中から、ドロップアウトせずに踏みとどまった、およそ十五名の男女。彼らの装備は決して高価なものではないが、その瞳には、恐怖ではなく、私の言葉に対する『強い納得』と『知的好奇心』が宿っていた。
「……受付嬢、さん」
残った者たちの中から、小柄な少女が一歩前に出た。
使い込まれた革鎧を着た、真面目そうな短剣使い(シーフ)の少女だ。
「さっきの計算……あの、ポーションの原価は銀貨一枚でしたけど、それを『まとめ買い10本』で銀貨八枚に抑え、さらに討伐時の移動ルートを最適化して一日のクエスト受注件数を増やせば、損益分岐点はもっと下げられますよね……?」
彼女の言葉に、私は思わず口角を微かに上げた。
(……あら。ただのノイズかと思いきや、きちんと【ロジック】を理解できる個体が混ざっていたようね)
私の【残響の波紋】が捉えた彼女の声の色は、純粋な探求心と生存への意志を示す、美しい透明な「水色」だった。
「その通りです。リスクヘッジとコスト削減の概念を理解できているようですね。……貴女の事業計画書も、粗削りですが、最低限の【生存確率(コンパイル可能)】は満たしていました」
私は、十六人の『生存者たち』をぐるりと見渡した。
「おめでとうございます。貴方がたは、過酷な一次審査を通過し、ただのノイズから【ギルドの研修生】へと昇格しました」
十五人の顔に、パッと安堵と喜びの色が広がる。
「ですが、喜ぶのはまだ早いです」
私は手元の砂時計をひっくり返した。
「理論で計算が合っても、実務(本番環境)で動かなければ意味がありません。……午後からは、実際のフィールドに出ての【リソース管理(魔力と体力の最適化)】の実技講習に入ります」
「じ、実技! いよいよ魔物と戦うんですね!」
新人たちが意気込む。
「ええ。ただし、言っておきますが……」
私は、極上の『営業用スマイル・タイプS(絶対服従)』を浮かべた。
「私はこの窓口(聖域)から、一歩たりとも動きません。貴方がたの行動は、すべてこのカウンターの上にある遠隔投影水晶で監視・評価します。……もし私の指示を無視し、非効率な行動で私の『定時退勤』を脅かした場合は……その場でギルドから永久追放しますので、そのつもりで」
「「「ひぃぃッ!! わ、わかりましたぁぁッ!!」」」
悲鳴を上げて背筋を伸ばす新人たち。
彼らの調教は、思いのほかスムーズに進みそうだ。
時刻は午前十一時。
十七時の定時退勤。そして、名店『山海』のサクサクに揚がった『山菜と稚鮎の天ぷら』の予約時間まで、残り六時間。
私の至高の春の味覚(報酬)に向けたプロジェクトは、完璧なタイムスケジュールで進行されていた。




