第5話 安全な寝床
第5話 安全な寝床
図書館を出た瞬間、冷たい夜風がカイルの頬を撫でた。
見上げれば、無数の光が夜空の下で輝いている。
街中に設置された照明。
高層建築の窓明かり。
道路を流れる車列の光。
異世界の都市は、深夜になっても眠らなかった。
「不夜城、か……」
エルドバルトの王都ですら、夜になれば松明の火だけが頼りだった。
だがこの世界は違う。
夜そのものを克服している。
カイルは警戒を緩めず、人通りの多い歩道を進んでいく。
斥候として染み付いた習慣だった。
まず観察。
次に分析。
最後に行動。
知らない土地では、それ以外のやり方は死を招く。
「さて」
彼は立ち止まった。
「今夜の優先事項を整理するか」
頭の中で状況を整理する。
現在地、不明。
所持金、なし。
身分証、なし。
知人、なし。
住居、なし。
帰還方法、不明。
普通の冒険者なら泣き出してもおかしくない。
だがカイルは冷静だった。
なぜなら、彼はさらに悪い状況から何度も生還してきたからである。
「食料は一日分ある」
腰のポーチを確認する。
携帯用の干し肉。
保存パン。
水筒。
幸い転移時に失われていない。
「今日中に餓死することはない」
次。
寝床。
これが重要だった。
どれほど優秀な斥候でも、睡眠不足では判断力が落ちる。
安全な拠点確保は最優先事項だ。
そこで彼は周囲を見回した。
広い歩道。
綺麗な公園。
ベンチ。
屋根付きのスペース。
雨風を凌げる場所はいくらでもある。
しかし。
「危険だな」
却下した。
理由は単純。
人通りが多すぎる。
この世界の治安は良さそうだが、だからといって無警戒で寝ていい理由にはならない。
安全とは、希望的観測ではなく根拠によって成立する。
カイルはさらに歩き続けた。
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二十分後。
彼は大きな駅の近くへたどり着いていた。
あまりの人の多さに圧倒される。
「なんだこの人数は……」
夜だぞ。
夜なのである。
それなのに広場には数百人。
いや、千人近い人間がいる。
誰も武器を持っていない。
鎧すら着ていない。
それなのに平然としている。
異常な光景だった。
エルドバルトでこれだけの人数が集まれば、必ず警備隊が出動する。
暴動や盗賊への警戒が必要だからだ。
しかし、この世界では誰も気にしていない。
それだけ社会秩序が確立しているのだろう。
そこでカイルは別のことに気付いた。
駅前の建物。
明るく照らされた店。
二十四時間営業。
森羅翻訳がそう教えてくれる。
「二十四時間……?」
理解できなかった。
一日中営業する店など聞いたことがない。
従業員は寝ないのか。
どれだけ働くのか。
奴隷制度でも存在するのだろうか。
興味は尽きない。
だが今は調査より生存が優先だ。
---
しばらく歩いていると、公園の一角で段ボールを敷いて寝ている人々を発見した。
カイルは遠くから観察する。
汚れた服。
疲れた表情。
荷物を抱えて眠る者たち。
一目で理解した。
住居を持たない人々だ。
「なるほど」
つまり、この世界でも金がなければ寝床に困るらしい。
そこだけは異世界と共通していた。
安心したような、残念なような気分だった。
その時だった。
「兄ちゃん」
低い声が聞こえた。
反射的に振り向く。
いつの間にか。
初老の男が立っていた。
気配を消していたわけではない。
自分が考え事に集中しすぎていたのだ。
カイルは内心反省する。
男は缶コーヒーを片手にこちらを見ていた。
「寝る場所探してんのか?」
「……そう見えるか」
「見えるな」
男は笑った。
「俺も昔そうだった」
敵意はない。
直感的にそう判断できた。
カイルは警戒しながらも話を聞く。
「この辺じゃ公園はやめとけ」
「理由は?」
「警察が来る」
なるほど。
管理されているらしい。
男は続ける。
「だったらネットカフェでも行け」
「ねっとかふぇ?」
また知らない単語だった。
男は少し不思議そうな顔をしたが、近くの建物を指差した。
煌々と明かりが灯っている。
そこには看板があった。
【インターネット・コミック・24時間】
意味は分からない。
だが営業施設らしい。
「金がいるが、ベッドみたいな所で寝られるぞ」
「……そうか」
礼を言う。
男は去っていった。
たったそれだけだった。
見返りも要求しない。
「変わった世界だな」
カイルは呟く。
エルドバルトなら、こういう親切は稀だった。
もちろん善人はいる。
だが見知らぬ相手にここまで無償で協力する人間は少ない。
文明が発達すると、人間も余裕を持つのだろうか。
そんなことを考えながら、教えられた建物へ向かう。
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入口付近で立ち止まった。
まず観察。
これも斥候の基本だ。
出入口二か所。
窓少数。
人の出入り頻繁。
危険度低。
避難経路良好。
火災時脱出可能。
よし。
「合格だな」
自分で頷いてから中へ入る。
店員がいる。
若い女性だった。
「いらっしゃいませ」
森羅翻訳のおかげで問題なく理解できる。
しかし。
今度は別問題があった。
金である。
財布がない。
この世界の貨幣もない。
宿泊施設らしいのだから当然支払いが必要だろう。
「……」
沈黙するカイル。
「お客様?」
「すまない」
正直に言うしかない。
「金がない」
店員は困った顔になった。
当然である。
しばらく説明を試みるが、やはり無理だった。
異世界転移など説明できるはずもない。
結局、カイルは店を出ることになる。
だが収穫はあった。
情報だ。
こうした施設が存在すること。
一定の金を得れば利用可能なこと。
そして何より。
この世界には本があること。
大量の本が。
図書館ほどではないにせよ、店内には漫画や雑誌が山ほどあった。
「知識に困らない世界、か」
思わず苦笑する。
帰還できるかどうかも分からない。
だが不思議と絶望はなかった。
むしろ心の奥で好奇心が膨らんでいる。
未知の文明。
未知の技術。
未知の知識。
斥候にとって、それは宝の山に等しかった。
ふと空を見上げる。
高層ビルの隙間から月が見えた。
月だけは同じだった。
異世界でも。
地球でも。
静かに夜空へ浮かんでいる。
「明日から本格的に調査を始めるか」
その時。
彼の腹が盛大に鳴った。
ぐうぅぅぅぅ。
「……」
沈黙。
「まずは食事だな」
伝説の魔法斥候は真顔で方向転換した。
どれだけ優秀な戦略も、空腹には勝てない。
こうしてカイルの地球生活一日目は、更けていくのだった。
そして翌朝。
彼はこの世界最大の驚異と遭遇する。
その名も――コンビニエンスストア。
後に彼が「二十四時間稼働する補給拠点」と呼ぶ伝説の施設との出会いが、すぐそこまで迫っていた。
――第5話 了――
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