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第34話 夢の国の地下迷宮

第34話 夢の国の地下迷宮

巡回艇《オリオン》は、音もなく空間を滑っていた。

窓の外に見えるのは、空ではない。

雲でもない。

青白い光が幾重にも折り重なり、細長い筒状の通路を形成している。

時折、その光の向こう側へ見知らぬ景色が映った。

赤い砂に覆われた大地。

空へ向かって逆さまに落ちていく滝。

巨大な樹木の上に築かれた都市。

夜空を泳ぐ、翼のない生物。

どれも一瞬で通り過ぎる。

まるで車窓から別世界を覗いているようだった。

朝比奈栞はブリッジの座席へ深く腰掛け、手すりを強く握っていた。

巡回艇の内部はほとんど揺れていない。

それでも手を離す気にはなれなかった。

「これ、本当に地球の中を移動してるんですか?」

返事をしたのは、操縦席の前に立つアリアだった。

銀髪の少女の姿をした管理支援端末は、何事もないように空中の表示を操作している。

「正確には、地球に隣接する低位転送層を航行しています」

「分かるようにお願いします」

「世界の裏側です」

「急に怖くなりました」

栞はさらに手すりを握り締めた。

隣に座る神代悠人は、窓の外から目を離せずにいる。

恐怖よりも好奇心が勝っているらしい。

膝の上には、例の古い手記が開かれていた。

「曾祖父の記録にあります」

神代は光の通路を眺めながら言った。

「通常空間を折り畳まず、二点の間へ一時的な中継路を構築する。これによって距離を短縮する、と」

栞は神代を見た。

「それ、理解して言ってます?」

「全く理解していません」

「ですよね」

「ただし、記述と現象は一致しています」

神代の声はわずかに震えていた。

大好きな物語の設定が現実になった、などという単純な興奮ではない。

一族が受け継いできた記録が、嘘でも妄想でもなかった。

それを一つずつ目撃しているのだ。

無理もなかった。

カイルは二人の会話へ加わらず、中央に浮かぶ地図を見つめていた。

オリオンの現在位置。

目的地までの距離。

解放派先行部隊の反応。

テーマパークの地上構造。

地下埋設物。

避難経路。

複数の情報が絶えず切り替わっている。

その中でも、カイルが最も長く見ているのは来園者の分布だった。

「今日は営業中なのか」

栞が頷く。

「平日ですけど、普通に営業してます。家族連れもいるでしょうし、遠足や旅行で来ている人もいると思います」

「人数は」

アリアが答える。

「園内に推定四千八百七十一名」

カイルの眉がわずかに動いた。

「多いな」

「現在も入場者数は増加中です」

「解放派の狙いは認証鍵だけか」

「断定できません」

アリアが地図の一部を拡大する。

赤い点が二十七個。

解放派先行部隊を示す反応だった。

その多くは、既にテーマパークの地下へ侵入している。

問題は地上にも数名いることだった。

来園者や従業員へ紛れ込んでいるらしい。

「敵が鍵を奪うだけなら、客へ危害を加える必要はない」

神代が言った。

「彼らの目的は物流網の復旧阻止だ。無関係な人を巻き込む理由はないはずです」

「理由がないことと、巻き込まないことは別だ」

カイルは視線を上げなかった。

「施設を破壊すれば地盤沈下が起きる可能性がある。電力系統へ干渉すれば乗り物が停止する。混乱を起こせば避難路が詰まる」

地図へ指を滑らせる。

いくつもの経路が黄色く変わった。

「戦闘そのものより、二次被害の方が危険だ」

神代は口を閉じた。

討論ではない。

カイルは既に現場の危険予測を始めている。

敵をどう倒すかではなく、何が起きれば誰が危険にさらされるかを考えている。

それが彼の戦い方だった。

「アリア」

「はい」

「認証鍵の保管庫が破損した場合、地上への影響を計算しろ」

空中に文字が走る。

わずか数秒後、複数の予測図が表示された。

「損傷規模により異なります」

「最悪の場合、地下空洞の連鎖崩落が発生します」

赤い範囲が地図に広がった。

テーマパークの中央エリア。

大型遊具。

広場。

飲食施設。

来園者の密集区域。

ほぼすべてが範囲内だった。

栞の顔から血の気が引く。

「崩れるんですか?」

「可能性があります」

「何人くらい巻き込まれるんです?」

「現時点で正確な算定は困難です」

カイルが地図へ手を置いた。

「崩落させない」

強い声ではなかった。

大声でもない。

だが、その一言だけでブリッジの空気が変わった。

「鍵を取られても取り返せる。施設が壊れても修理できる」

カイルは密集した光点を見つめる。

「人の命は戻らない」

栞は黙って頷いた。

神代も同じだった。

アリアだけが、カイルの言葉を記録するように目を光らせている。

「任務優先順位を更新しますか」

「更新する」

カイルは即答した。

「第一、民間人の安全確保。第二、地下施設の崩落防止。第三、第一認証鍵の確保。敵の撃破は最後だ」

「敵の排除を第四優先へ設定」

「排除でなく無力化だ」

アリアが一度瞬いた。

「差異を確認します」

「殺すなという意味だ」

数秒の沈黙。

「了解しました」

その返答に、栞は小さく息を吐いた。

敵だとしても殺さない。

綺麗事なのかもしれない。

相手は世界の崩壊を止めようとする彼らを妨害している。

さきほども施設へ武装集団を送り込んできた。

それでもカイルは、最初から殺すという選択肢を外している。

甘いのではない。

彼の中で人命は敵味方より上位に置かれているのだ。

それを守るためなら、きっと誰よりも容赦なく動く。

栞はそう感じていた。

その時、アリアが顔を上げた。

「目的地へ到達します」

ブリッジ前方の空間が明るくなる。

光の通路が狭まり、正面に円形の出口が形成された。

「通常空間への復帰を開始」

「待て」

カイルがアリアを止めた。

「問題がありますか」

「どこへ出る」

地図に出口予定地が表示される。

テーマパーク西側。

関係者用駐車場の上空。

高度八十メートル。

カイルは無言でアリアを見た。

「この大きさの巡回艇が出れば目立つな」

「はい」

「目立つどころじゃありませんよ!」

栞が思わず立ち上がった。

「大騒ぎになります! 動画を撮られて、すぐに投稿されます! 未確認飛行物体とか古代文明とか、説明できないでしょう!」

アリアは首を傾げた。

「当艇は保守巡回艇です」

「肩書の問題ではありません!」

神代が口元を押さえている。

笑いをこらえているらしい。

カイルは地図を確認してから尋ねた。

「別の出口は」

「地下搬入口が存在します」

「そこへ入れるか」

「可能です。ただし搬入口は封鎖されています」

「何で封鎖されている」

「近代建築物の基礎構造が上部に追加されています」

地上の建物が拡大表示された。

栞はその形を見て顔を引きつらせた。

「これ……お化け屋敷です」

地上には西洋風の古城を模した大型アトラクションが建っている。

地下搬入口の真上に、その基礎部分が重なっていた。

「破壊して進むことは可能です」

アリアが淡々と言った。

「却下だ」

「駄目です」

カイルと栞の声が重なった。

アリアが二人を交互に見る。

「既存構造物を傷付けず、地下へ移動する経路を探せ」

カイルが地図を操作する。

「保守巡回艇なら、小規模転送装置があるはずだ」

「あります」

「全員を任意の地点へ移動できるか」

「座標が確定しており、転送先の安全性を確認できれば可能です」

「なら俺たちだけを地下へ降ろせ。オリオンは転送層で待機しろ」

アリアはすぐに計算を始めた。

いくつかの地下区画が緑色に変わる。

「候補地点を三か所検出」

第一候補。

テーマパーク地下二階。

旧従業員通路。

第二候補。

地下三階。

排水設備室。

第三候補。

地下四階。

アルカディア外周保守路。

「第三候補だ」

カイルは即座に選んだ。

「理由を確認」

「一般人と接触しにくい。目的地に近い。地下施設の状態を直接確認できる」

「適切です」

神代が立ち上がり、資料を鞄へ収め始める。

栞も慌ててノートと地図をまとめた。

そこでふと手が止まる。

「ちょっと待ってください」

二人が振り返る。

「現地へ行った後、どうやって認証鍵まで行くんですか?」

カイルが地下図を示す。

「保守路を進む」

「途中に敵がいますよね?」

「ああ」

「二十人以上いますよね?」

「ああ」

「カイルさんは強いですけど、私と神代さんは普通の人ですよ?」

「そうだな」

「作戦が足りなくないですか?」

カイルは少し考えた。

「栞は敵と戦わない」

「それは分かりますけど」

「神代も戦わない」

「でしょうね」

「俺も可能な限り戦わない」

栞は目を瞬いた。

「じゃあ、どうするんです?」

カイルは地下図を拡大した。

迷路のような通路。

認証鍵保管区画。

解放派の位置。

そのすべてを重ね合わせる。

「敵がいる場所を通らない」

あまりにも単純な答えだった。

神代が苦笑する。

「それができるなら苦労しないと思いますが」

「できる」

カイルは地下構造へ複数の線を引いた。

現在使われている通路ではない。

施設間に残された空間。

配管用の隙間。

排水経路。

崩れた旧搬送路。

「解放派はアルカディアの図面を持っている。だから正規通路を押さえている」

「なら正規通路を使わない?」

神代の言葉にカイルが頷く。

「地図とは、道が描かれている紙じゃない」

指先が地図の余白をなぞる。

「通れる場所と通れない場所を判断するための情報だ」

栞には、地図の上に道など見えなかった。

だがカイルには見えているらしい。

壁の厚さ。

地盤の状態。

配管の位置。

荷重。

人が通れる幅。

それらから、存在しないはずの道を組み立てている。

伝説の魔法斥候。

その肩書が、初めて本当の意味を持った気がした。

「転送地点へ到達します」

アリアの声と同時に、床へ円形の光が広がった。

三人の足元を包み込む。

栞は反射的にカイルの袖を掴んだ。

「何だ」

「念のためです」

「何の念だ」

「分かりません!」

カイルは少しだけ笑った。

次の瞬間、世界が青白い光に包まれた。


---


身体が落ちる感覚はなかった。

揺れもない。

ただ、瞬きを一度しただけだった。

それなのに景色が変わっている。

先ほどまでいたオリオンのブリッジではない。

狭い通路。

灰色の壁。

床には薄く埃が積もり、天井の一部が剥がれている。

照明は消えていた。

カイルが手を上げる。

掌の上へ小さな光球が浮かんだ。

魔法の光が周囲を照らす。

栞は思わず息を呑んだ。

現代建築のコンクリート壁と、古代文明らしい黒い金属壁が接合している。

片側は配管やケーブルが露出した現代の施設。

もう片側は淡い青色の線が走る未知の構造体。

地球と異世界。

二つの文明が、無理やり同じ場所へ押し込まれていた。

「転送成功です」

神代が小声で言う。

声が反響する。

カイルは人差し指を口元へ当てた。

「静かに」

その一言で二人は黙った。

カイルが地面へ片膝をつく。

床へ指先を触れる。

しばらく目を閉じていたが、やがて立ち上がった。

「誰か通った」

栞には何も見えない。

埃の上に靴跡らしきものもない。

「いつですか?」

「十分から十五分前」

「どうして分かるんです?」

「空気が動いている」

天井を指す。

「向こうの扉が一度開いた。温度が違う」

さらに壁へ触れる。

「振動も残っている。四人だ」

神代が驚いた顔で周囲を見回す。

「足跡もないのに?」

「足跡だけが痕跡じゃない」

カイルは光を消した。

代わりに、目へ薄い青色の魔力が宿る。

《千変万化》が三人の衣服を変化させた。

灰色の作業着。

反射材。

安全帽。

手袋。

現代の施設管理員に見える服装だった。

栞は自分の袖を引っ張る。

質感まで本物にしか思えない。

「いつの間にこんな服を覚えたんです?」

「工事現場で見た」

「見るだけで再現できるんですか?」

「構造が分かればな」

神代が自分の作業着を確認する。

「これ、売ったらかなり稼げそうですね」

「神代さん、今考えることですか?」

「作家は常に生活費を意識するものです」

カイルが二人を見る。

「話は歩きながらだ」


---


三人は通路を進んだ。

カイルが先頭。

中央に栞。

最後尾に神代。

アリアは小さな光像となってカイルの肩付近を浮遊している。

「現在位置、外周保守路Bの三十二」

「保管庫までの最短距離は」

「直線距離八百二十一メートル」

「通路距離は」

「二千七百五十メートル」

「遠回りだな」

「施設設計上、複数の安全区画を経由します」

「設計思想は正しい」

栞は少し驚いた。

遠回りを否定しない。

効率より安全を優先した経路だからだろう。

「だが今は使えない。短縮路を作る」

「壁面破壊を提案しますか」

「壊さない」

アリアがわずかに首を傾げる。

カイルは壁の一部を指した。

そこだけ黒い金属ではなく、現代の灰色の板材で塞がれている。

「後世の改修部分だ。取り外せる」

神代と協力し、壁際の金具を外す。

カイルは現代の工具を持っていない。

だが指先へ魔力を集中させると、薄い金属製の工具が形成された。

以前読んだ工具カタログ。

工事現場で見たレンチ。

構造を記憶していたらしい。

数分で固定金具が外れた。

壁板の向こうへ狭い空間が現れる。

人ひとりが屈んで進める程度。

配管用の点検空間だった。

「ここを通るんですか?」

栞が尋ねる。

「嫌なら正規通路でもいい」

カイルは地図を見る。

「ただし七百メートル先で敵と接触する」

「こちらでお願いします」

即答だった。


---


点検空間は狭かった。

暗く、埃っぽい。

栞は這うように進みながら、なぜ休日でもないのにテーマパークの地下を移動しているのだろうと考えていた。

答えは分かっている。

世界を救うためだ。

文字にすると壮大だが、実際にやっているのは埃だらけの狭い通路を這うことだった。

「物語と違いますね」

前を進む神代が小声で言った。

「何がです?」

「世界を救う冒険なら、もう少し華やかだと思っていました」

「書いた本人が言います?」

「小説では、こういう移動場面は数行で終わります」

先頭のカイルが振り返らずに言った。

「現場は数行では終わらない」

「勉強になります」

「次の作品で狭い点検通路を十ページくらい書いてください」

栞の提案に、神代は黙った。

やがて前方でカイルが止まる。

栞も動きを止めた。

「どうしました?」

返事はない。

代わりに、カイルが照明を消した。

完全な暗闇。

栞の心臓が跳ねる。

遠くから音が聞こえた。

金属を叩く音。

短い指示。

複数の足音。

敵だ。

すぐ近くにいる。

点検空間の外側。

薄い壁一枚を隔てた通路を、解放派の部隊が移動している。

「第三班は下層制御室へ」

男の声が聞こえる。

「第四班は認証鍵保管区画の隔壁を解除しろ」

「修復者は?」

「オリオンを起動した。こちらへ来る可能性が高い」

「接触した場合は?」

一瞬の間。

そして、冷たい声が答えた。

「生け捕りにしろ。他の二人は任務の妨げになるなら処分して構わない」

栞の身体が固まった。

処分。

意味を考えるまでもない。

神代も息を止めている。

カイルだけが動かなかった。

足音が遠ざかるまで、じっと待っている。

一分ほど経ってから、わずかな光を灯した。

栞を見る。

「大丈夫か」

「だ、大丈夫です」

声が震えた。

全然大丈夫ではない。

だが、ここで戻るとは言えなかった。

「怖いならオリオンへ戻せる」

「戻りません」

即答した。

自分でも驚くほど早かった。

「私、補佐官候補なんですよね」

「システムが勝手に決めただけだ」

「でも選ばれたんでしょう」

「危険な仕事だ」

「知ってます」

栞は震える手を握り締めた。

「それでも、カイルさんだけを行かせるのは違うと思います」

戦えない。

魔法も使えない。

古代文明の知識もない。

それでも、できることはあるはずだ。

少なくとも記録はできる。

情報を整理できる。

現代社会の常識を補える。

「それに」

栞は小さく息を吸った。

「私たちを処分すると言った人たちに、少し腹が立ちました」

カイルは数秒、栞を見つめた。

やがて頷く。

「分かった」

それだけだった。

止めもしない。

褒めもしない。

だが仲間として認められた気がした。


---


点検空間を抜けた先は、地下の小さな設備室だった。

壁には古い配電盤。

床には現代の工具箱。

天井では換気扇が回っている。

その振動の向こうから、微かに音楽が聞こえた。

テーマパークの陽気な音楽。

すぐ上では、何も知らない人々が遊んでいる。

子どもたちが笑っている。

巨大な遊具が動いている。

その数十メートル下で、世界の命運を懸けた争いが始まっている。

あまりにも現実感がなかった。

アリアが地図を更新する。

「解放派部隊が移動しました」

赤い点が分散している。

一部は保管庫前。

一部は制御室。

そして数名が地上へ向かっていた。

カイルが地図を拡大する。

「地上班の目的は」

「不明です」

神代が嫌な顔をした。

「来園者を人質にするつもりでは?」

「可能性はある」

カイルは別の情報を表示させた。

地上の電力系統。

避難路。

アトラクションの制御装置。

火災報知設備。

その一部に、赤い警告が現れていた。

「外部からの干渉を確認」

「どこだ」

「中央制御系統」

栞の顔色が変わる。

「そこを止められたら、園内の乗り物や設備に影響が出ます」

「目的は陽動だな」

カイルは即座に判断した。

「地上で事故を起こし、俺たちを分断する」

神代が地図を見つめる。

「どうする?」

カイルはしばらく答えなかった。

第一認証鍵を優先すれば、地上で事故が起きる。

地上へ向かえば、その間に鍵を奪われる。

解放派はそれを狙っている。

二者択一。

普通ならそう見える。

だがカイルは、すぐに別の答えを探し始めた。

「アリア。オリオンから地上設備へ干渉できるか」

「古代施設を介せば可能です」

「現代の制御系統にも接続できるか」

「規格が異なります」

「翻訳しろ」

「森羅翻訳の権限共有が必要です」

「使え」

アリアの姿が光へ変わり、カイルの胸へ流れ込んだ。

一瞬後、壁面へ巨大な術式が広がる。

古代文字。

現代の電気回路図。

魔法術式。

三つの異なる体系が重なっていく。

神代が息を呑んだ。

「何をしている?」

「接続する」

カイルは配電盤へ手を置いた。

「地球の設備と、アルカディアの管理系統を」

「そんなことができるんですか?」

栞が聞く。

「今から確かめる」

「できる前提じゃないんですか!」

「初めてやる」

カイルの指先から魔力が流れ込む。

配電盤のランプが一斉に点灯した。

壁の青い発光線も強く輝く。

火花。

低い振動。

栞と神代が後退する。

しかしカイルは手を離さない。

脳内に膨大な情報が流れ込んでいた。

電圧。

信号。

制御命令。

安全装置。

非常停止。

現代のシステムと古代のシステム。

本来なら絶対に繋がらない。

だが《森羅翻訳》が両者の命令体系を翻訳し、《空想具現》が不足する接続構造を魔法として埋めていく。

数秒。

十秒。

二十秒。

やがて、空中へ地上設備の状態が表示された。

「接続成功」

アリアの声に、わずかな驚きが混ざる。

カイルはすぐに命令を出した。

「地上の中央制御をオリオンから保護しろ。外部命令を遮断。来園者が乗っている設備は最寄りの安全位置で停止させる」

「実行します」

「園内放送へ接続できるか」

「可能です」

「施設点検を理由に、中央区域から順次避難誘導。危険を煽るな。一斉に動かせば出口が詰まる」

「誘導計画を作成します」

「段階的に退避させろ。子ども、高齢者、移動に支援が必要な者を優先。従業員へは火災訓練用の案内を送れ」

栞はカイルを見つめた。

敵の陽動を防ぐだけではない。

一般人がパニックにならない方法まで考えている。

「栞」

突然名前を呼ばれた。

「はい!」

「地上の避難計画を確認してくれ。地球側の案内は俺より詳しい」

目の前に地図が表示された。

来園者の分布。

避難経路。

各出口の幅。

従業員の配置。

栞は一瞬戸惑った。

だがすぐに地図を見る。

図書館で避難訓練を経験したことがある。

大規模施設の誘導をしたことはない。

それでも、何もしないわけにはいかなかった。

「この出口は駄目です」

指を差す。

「駐車場へ近いですけど、ベビーカーや車椅子の人が集中すると詰まります」

別の経路を見る。

「こっちの通路を一方通行にしてください。飲食エリアの人は東側へ。中央広場を横切らせると、移動方向が交差します」

アリアが即座に反映する。

青い矢印が地図上へ広がった。

「経路を更新」

「従業員には何と伝えますか?」

「設備点検と、小規模な電気系統の異常でいい」

「では園内放送は私が考えます」

栞はマイク表示へ触れた。

自分の声が流れるわけではない。

アリアが自然な案内音声へ変換する。

それでも緊張した。

「ご来園中のお客様へご案内いたします。設備点検のため、一部エリアの運営を一時的に休止します。係員の案内に従い、慌てずに順路をお進みください」

アリアが復唱する。

穏やかな女性の声。

テーマパークの雰囲気を壊さない案内。

「放送を開始します」

地上のスピーカーから放送が流れた。

人々が動き始める。

最初は不思議そうに。

だが混乱はない。

従業員が誘導する。

家族連れが歩く。

中央区域が少しずつ空いていく。

カイルが地図を確認する。

「これで地上の被害は抑えられる」

神代が息を吐いた。

「普通なら鍵を取るか人を助けるか、という場面でしょう」

「両方やる」

カイルは配電盤から手を離した。

「選ばなくて済む方法を探すのが技術だ」

その言葉に、神代は目を見開いた。

何かを記憶するように、小さく繰り返す。

「選ばなくて済む方法……」

作家として心へ刻んだのかもしれない。


---


三人は再び移動を始めた。

認証鍵保管庫まで、残り四百メートル。

だが解放派も動いている。

敵は制御系統への干渉が失敗したことに気付いたらしい。

赤い点が保管庫へ集中し始めた。

「急ぐぞ」

カイルの歩調が速くなる。

通路を曲がる。

階段を下りる。

途中で崩れた区画へ出た。

床が大きく陥没し、向こう側まで六メートルほど空いている。

下は暗闇。

深さは分からない。

「迂回路は?」

神代が尋ねる。

「二百八十メートル戻る必要があります」

「時間がない」

カイルが周囲を見る。

崩れた梁。

露出した鉄筋。

古代文明の黒い骨組み。

そして配管。

頭の中で構造が組み上がる。

《空想具現》。

青い光が伸び、崩れた梁の間を繋いだ。

最初は細い線。

それが幾重にも重なり、三角形を作る。

トラス構造。

地球で学んだ橋梁技術。

魔力によって形成された仮設橋が、わずか数秒で完成した。

栞が唖然とする。

「橋を作った……」

「仮設だ。走るな。一人ずつ渡れ」

カイルは自ら最初に渡り、揺れと荷重を確認する。

向こう側へ到着すると、神代へ合図を送った。

神代が慎重に渡る。

続いて栞。

足元には青い光の橋。

その下は底の見えない暗闇だった。

「下を見ない方がいいですか?」

「見ない方がいい」

「先に言ってください!」

既に見てしまった。

足が震える。

それでも一歩ずつ進む。

中央まで来た時だった。

遠くで何かが光った。

カイルが叫ぶ。

「伏せろ!」

反射的に身体を低くする。

直後、赤い光線が仮設橋の上を通過した。

背後の壁が焼ける。

敵だ。

向こう側の通路。

解放派の男が三人。

武器らしき装置を構えている。

「修復者を確認!」

「補佐官と継承者もいる!」

「橋を落とせ!」

二射目。

カイルが手を上げる。

透明な障壁が展開し、赤い光線を斜め上へ逸らした。

だが仮設橋が揺れる。

栞の足が滑った。

「きゃっ!」

身体が傾く。

暗闇へ落ちる。

その直前。

カイルが腕を掴んだ。

片手で栞を支え、もう片方の手で障壁を維持している。

「足を戻せ」

「む、無理です!」

「できる。橋は壊れていない」

敵の三射目が障壁へ当たる。

重い衝撃。

カイルの足元がずれる。

「急げ!」

栞は必死に足を上げた。

仮設橋の縁へ靴が触れる。

カイルが引き上げる。

二人とも向こう側の床へ転がり込んだ。

「無事か」

「はい……たぶん……」

「怪我は」

「ないです」

「なら立て」

カイルはすぐに起き上がった。

敵は橋を渡ろうとしている。

だがカイルが指を鳴らすと、仮設橋は青い粒子となって消えた。

先頭の男が踏み出す直前だった。

三人は陥没の向こう側へ取り残される。

「卑怯だぞ!」

敵の叫びが響いた。

カイルは真顔で答えた。

「敵の用意した橋を疑わず渡る方が悪い」

伝説の斥候らしい正論だった。

神代が笑いそうになりながら次の通路を指す。

「急ぎましょう」


---


保管庫前へ到着した時。

既に十二人の解放派が集まっていた。

巨大な円形扉。

その中央には三つの鍵穴を模した紋章。

第一認証鍵保管区画。

敵は扉へ複数の機材を取り付けている。

強制解除を試みているらしい。

「隊長、反応増大!」

「あと二分で隔壁を突破できます!」

その中央に立つ男が振り返った。

短髪。

鋭い目。

首元に解放派の徽章。

オリオンの発進時、地上で指揮を執っていた男とは別人だった。

先行部隊の指揮官だろう。

男はカイルを見ると、薄く笑った。

「来たか、修復者」

カイルは三人を観察するように敵全体を見渡した。

武器。

配置。

退路。

機材。

足元。

扉の状態。

すべてを一息で把握する。

「その装置を止めろ」

カイルが言った。

指揮官は笑みを深める。

「断る」

「隔壁を無理に開けば地盤へ影響が出る」

「だから何だ」

「上に人がいる」

「ああ。地球の住人がな」

その言い方に、栞は違和感を覚えた。

まるで自分たちが地球人ではないような。

指揮官は続ける。

「我々は長い間待っていた。世界間物流網が完全に死ぬ日を」

神代が前へ出る。

「物流網が死ねば、接続世界も崩壊する」

「管理局の記録を信じるのか」

男の表情が歪む。

怒り。

憎しみ。

それも深い。

「奴らは同じ言葉で世界を脅した。接続を維持しなければ滅びる。だから管理を受け入れろ。資源を差し出せ。命令に従えとな」

「今は実際に世界が消えている」

「そう見せているだけかもしれない」

栞は耳を疑った。

「そんな」

「管理局は情報を支配していた」

指揮官が栞を見る。

「何が真実か、誰にも分からない」

「だから他の世界を壊していいんですか?」

栞は思わず声を上げた。

「もし本当に崩壊していたらどうするんです!」

「自由には代償が必要だ」

その返答に、栞の中で何かが切れた。

「代償を払うのはあなたじゃないでしょう!」

地下空間に声が響く。

解放派の何人かがわずかに動揺した。

栞自身も驚いていた。

それでも言葉を止められない。

「上にいる人たちは何も知りません。子どももいます。家族もいます。あなたたちの事情と関係のない人たちです!」

指揮官の表情は変わらない。

「大義には犠牲が伴う」

「その犠牲になる人へ、説明したんですか?」

「必要ない」

「なら、それは自由じゃありません」

栞は指揮官を睨んだ。

「あなたたちが勝手に選んだ結果を、他の人へ押し付けているだけです」

沈黙。

誰もすぐには反応しなかった。

神代が驚いたように栞を見ている。

カイルだけは静かに敵の動きを見続けていた。

やがて指揮官がため息を吐く。

「やはり管理局側の人間とは分かり合えない」

男が片手を上げた。

解放派全員が武器を構える。

「修復者は生け捕りだ。他の二人は拘束しろ。抵抗すれば構わん」

カイルが一歩前へ出た。

栞と神代を背後へかばう。

「交渉は終わりか」

「最初から交渉する気などない」

「そうか」

カイルは淡々と答えた。

「なら作業を中断させる」

「できると思うか?」

「もう止めた」

指揮官の表情が固まる。

背後の作業員が叫んだ。

「隊長!」

隔壁解除装置の光が消えている。

一つではない。

扉へ接続されていたすべての機材が停止していた。

「何をした!」

指揮官が振り返る。

カイルは足元を指した。

解放派が使用していた装置から伸びる線。

電源。

制御信号。

それらが床下の古代設備へ接続されている。

そしてカイルは、配電室で既に管理系統へ干渉していた。

「不正な接続を切っただけだ」

アリアの声が通路へ響く。

「保守施設の制御権限を回復しました」

床の発光ラインが青から白へ変わる。

隔壁周辺に防護壁が出現した。

解放派の機材が床から切り離され、弾き飛ばされる。

指揮官の顔が歪む。

「撃て!」

赤い光が一斉に放たれた。

カイルは右手を上げる。

その前方へ巨大な魔法陣が展開する。

三角形を組み合わせた多層構造。

《荷重分散結界》。

十二方向から飛来した攻撃が結界へ衝突する。

激しい光。

衝撃。

だが結界は砕けない。

一か所へ集まった力を全体へ分散し、床と壁へ逃がしていく。

橋梁技術と構造力学を応用した防御術式。

爆煙が晴れる。

カイルは無傷だった。

栞も神代も。

そして周囲の施設も壊れていない。

解放派の一人が呆然と呟く。

「何だ、その結界は……」

「安全設計だ」

カイルは答えた。

次の瞬間、姿が消えた。

解放派の視界から完全に。

《千変万化》。

光学迷彩。

周囲の色と光を再現し、姿を隠す。

「どこだ!」

指揮官が叫ぶ。

部隊が背中合わせになる。

だが遅い。

一人目の武器が分解された。

留め具だけが外れ、部品となって床へ落ちる。

二人目。

腕の装置が停止する。

三人目。

足元の固定具が光の縄へ変わり、両脚を拘束する。

カイルは敵を攻撃していなかった。

武器だけを壊している。

戦闘能力だけを奪っている。

「右だ!」

解放派が一斉に振り向く。

そこにはカイルの姿を模した幻影。

攻撃が集中する。

幻影は青い光となって消えた。

その間に、背後の三人が拘束される。

「幻術か!」

「違う」

声が天井から聞こえる。

全員が見上げる。

カイルは配管へ片手でぶら下がっていた。

そのまま身を翻し、指揮官の目前へ着地する。

拳を振るわない。

短剣も抜かない。

手のひらで男の胸部装置へ触れる。

「停止」

青い光が走った。

指揮官の装備が一斉に消える。

装甲も。

武器も。

通信装置も。

制御系統を《森羅翻訳》で読み取り、管理命令を上書きしたのだ。

指揮官が反射的に殴りかかる。

カイルは半歩だけ横へ動く。

拳を避ける。

腕を取り、重心を崩す。

男の身体が床へ倒れた。

叩き付けない。

怪我をしない角度で転がす。

次の瞬間には背中を押さえ、腕を固定していた。

「ぐっ!」

「終わりだ」

カイルの声は静かだった。

周囲を見れば、他の解放派もすべて拘束されている。

動ける者はいない。

重傷者もいない。

一人の命も奪わず。

施設も壊さず。

戦闘は終わっていた。

「生かしておくつもりか」

指揮官が苦しげに言う。

「当然だ」

「甘いな」

「違う」

カイルは男の背中を押さえたまま答えた。

「安全基準だ」

指揮官は何か言おうとした。

だが言葉は出なかった。


---


アリアが隔壁の前へ浮かぶ。

「認証鍵保管区画を解放します」

巨大な円形扉へ光が走る。

三つの紋章のうち、一つが青く点灯した。

低い音と共に扉が左右へ開いていく。

その先にあったのは、広い部屋ではなかった。

小さな保管室。

中央に一本の柱。

そして柱の上へ浮かぶ、青い結晶。

手のひらほどの大きさ。

内部には無数の光が流れている。

第一認証鍵。

世界間物流ゲートを起動するための一つ目の鍵。

カイルたちはゆっくり近付いた。

栞は呼吸を整える。

神代は古い手記を開き、記述と目の前の物体を見比べている。

「一致している」

神代の声が震える。

「アストレアの記録と完全に同じだ」

カイルが柱の前へ立つ。

アリアが告げた。

「第一認証鍵へ接触してください」

「危険は」

「認証失敗時、対象者の権限が一時的に封鎖されます」

「身体への影響は」

「軽度の眩暈が予測されます」

「周囲への影響は」

「ありません」

カイルは頷いた。

安全確認を終えてから、青い結晶へ手を伸ばす。

指先が触れた瞬間。

世界が白く染まった。


---


声が聞こえた。

女の声。

アリアではない。

もっと人間らしい。

疲れた声。

遠い昔から届く声。

『もし、この記録を聞く者がいるなら』

景色が現れる。

白い都市。

空を行き交う無数の船。

世界門。

物流拠点。

人々。

栄華を極めたアルカディア。

だが次の瞬間。

すべてが炎へ包まれた。

『私たちは間違えた』

都市が崩れる。

管理者たちが争っている。

世界門が兵器として使用される。

物流路から軍隊が送り込まれる。

資源が奪われる。

拒絶した世界が隔離される。

『道は、誰かを支配するためのものではなかった』

カイルは黙って映像を見続けた。

『それでも私たちは、道を所有できると思った』

『門を持つ者が、世界を選べると思った』

『その傲慢が、すべてを壊した』

映像の中に一人の女性が現れる。

白い衣服。

金色の髪。

疲れ切った顔。

胸元には中央管理局の紋章。

しかし名前は表示されない。

『新たな修復者へ』

女性は真っ直ぐこちらを見る。

三千年前の記録。

それでも視線が合っているように感じた。

『管理局を復活させてはならない』

カイルの目が細くなる。

『けれど物流網を見捨ててもならない』

『私たちと同じ制度を作らず』

『私たちと同じ失敗を繰り返さず』

『世界を繋いでほしい』

女性の姿が薄れていく。

最後に。

一言だけ残した。

『最後の管理者を信じないで』

映像が消えた。


---


カイルは現実へ戻った。

手の中には青い結晶。

第一認証鍵。

だが彼の表情は険しい。

「カイルさん?」

栞が近付く。

「何を見たんです?」

カイルはしばらく答えなかった。

やがて手の中の結晶を見つめながら言う。

「警告だ」

「誰から?」

「昔の管理者」

神代が息を呑む。

「内容は」

カイルは静かに顔を上げた。

「最後の管理者を信じるな」

保管庫の空気が重くなる。

黄金の瞳を持つ存在。

中央管理局で目覚めた、最後の生存者。

世界崩壊を加速させているという人物。

その正体を、まだ誰も知らない。

その時だった。

カイルの手の中で認証鍵が赤く点滅した。

アリアが振り返る。

「警告」

「地下施設へ異常負荷を検知」

地面が揺れた。

最初は小さい。

だが急激に強くなっていく。

天井から埃が落ちる。

壁に亀裂が走る。

拘束された解放派たちが動揺する。

「何が起きた!」

「隔壁は停止したはずだ!」

アリアが地図を展開する。

地下施設の最深部。

第一認証鍵の保管区画より、さらに下。

地図に記載されていない場所。

そこから巨大な反応が上昇している。

「封印区画が開放されます」

「誰が開けた」

カイルが問う。

アリアの顔が強張る。

「外部権限」

「最上位管理コードを確認」

神代の顔色が変わる。

「最後の管理者か」

次の瞬間。

床の一部が盛り上がった。

轟音。

黒い亀裂。

そして亀裂の奥から、巨大な何かが這い上がろうとしている。

アリアの声が地下全体へ響く。

「全員退避してください」

「第一認証鍵の取得により、封印防衛機構が起動しました」

栞が言葉を失う。

「防衛機構?」

アリアは青ざめたまま答えた。

「第一認証鍵を持ち出す者を破壊するための設備です」

地下から咆哮が響いた。

人の声ではない。

魔物でもない。

世界そのものを揺らすような音。

床が砕ける。

黒い装甲。

巨大な爪。

赤い瞳。

三千年前から認証鍵を守り続けてきた怪物が、その姿を現す。

カイルは認証鍵を握り、栞と神代の前へ立った。

さらに床へ拘束されている解放派へ視線を向ける。

敵だった者たち。

自分たちを殺そうとした者たち。

それでも。

置いていくという選択肢はなかった。

「全員を連れて退避する」

カイルが告げる。

指揮官が顔を上げた。

「我々もか」

「当然だ」

「敵だぞ」

「今は避難対象だ」

カイルは巨大な影を見上げる。

第一認証鍵を巡る戦いは終わっていなかった。

むしろ。

本当の試練は。

ここから始まろうとしていた。

第35話へ続く

ここまでお読みいただきありがとうございます!少しでも面白いと感じたら、画面下から【ブックマーク】と【☆☆☆☆☆】の評価をいただけると、執筆の大きなモチベーションになります!

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