第37話:絶対の盾と、影の処刑人
王都の正門前に広がる平野は、阿鼻叫喚の地獄と化していた。
たった三人の侵入者を前に、五万を誇る王国軍の陣形は完全に崩壊していた。
空を覆うはずだった魔法と矢の雨は、絶対零度の氷壁に阻まれて粉々に砕け散り、最前列の重装歩兵団は、漆黒の【黒の仮面】を被った大男——クロウの大剣の一振りで、城壁ごと塵に等しい肉片へと変えられた。
さらに軍勢を混乱に陥れているのは、兵士たちの足元の影から無数に湧き出し、同士討ちを誘発させる紫光の双剣を持った『影の暗殺者』たちだった。
「ひぃぃっ!? 影が、影が斬りかかってくるぞ!」
「あっちへ行け! くるなァッ!」
パニックに陥った兵士たちがデタラメに剣を振り回し、味方を傷つける。軍隊としての機能は、開戦からわずか数分で完全に停止していた。
「ええい、狼狽えるな雑兵ども! たかが幻影の分身に何を手こずっている!」
阿鼻叫喚の最中、勇者パーティーの天幕から一人の巨漢が飛び出した。
王国最高峰の防御力を誇る特注の『ミスリル製の大盾』を構えた男。勇者パーティーの要であり、かつてセリアが所属していた底辺パーティーの元リーダーでもある『重騎士』だ。
「俺の【絶対城壁】の前では、いかなる刃も傷一つつけることはできん! あのチョコマカと逃げ回るネズミどもは、俺がまとめて叩き潰してやる!」
重騎士は地面を揺らしながら前線へと躍り出た。
彼が持つ大盾から強烈な土属性の魔力が放たれ、周囲数十メートルの兵士たちに強固な防御バリアを展開する。同時に、彼自身も岩のように巨大化し、圧倒的な質量を誇る歩く要塞と化した。
「さあ来い、暗殺者! 俺の盾を抜けるものなら——」
「——随分と、立派な盾になったものですね」
重騎士の真後ろ。
展開された防御バリアの内側、彼自身の巨大な身体が落とす『影』の中から、音もなく一人の少女が顕現した。
「なっ……!?」
驚愕して振り返る重騎士。
そこに立っていたのは、禍々しい紫色の燐光を放つ【幻影の双剣】をだらりと下げたセリアだった。
彼女は深く被っていたフードをゆっくりと外し、その素顔を晒す。
かつて泥と血にまみれ、怯えることしかできなかった斥候の少女はもういない。そこにあるのは、圧倒的な力と自信に満ち溢れ、絶対的な主への狂信を瞳に宿した『最強の暗殺者』の顔だった。
「お前、は……? 嘘だろ、お前はあの時の……」
重騎士の顔が、驚愕で引き攣る。
「役立たずの斥候。肉の盾。囮。……ええ、あの日、あなたが魔物の群れに放り投げたセリアです」
「な、ぜ生きている!? 貴様はあの嘆きの谷で、魔物に食われて死んだはずだろうが!」
「死にかけましたよ。ですが……私の『神』が、私を拾い上げ、絶対的な力を与えてくださった。……あの方の偉大な闇に比べれば、あなたの持つその分厚い盾など、紙切れよりも薄く、脆い」
セリアの冷酷な視線は、もはやかつてのリーダーを「人間」としてすら見ていなかった。路傍の石を見るような、純粋な見下し。
その視線が、驕り高ぶっていた重騎士のプライドを激しく逆撫でした。
「ふ、ふざけるなァッ! 勇者パーティーであるこの俺を愚弄するか、ゴミ屑がァッ!!」
重騎士が激昂し、持っていた巨大なメイスをセリアの脳天へと振り下ろす。
【絶対城壁】のバリア内にいる限り、彼の攻撃力と速度は倍増する。常人ならば反応すらできずに肉塊に変わる必殺の一撃。
だが、メイスがセリアの頭を粉砕した瞬間——彼女の体は陽炎のようにブレて、スッと霧散した。
「なっ……幻影!?」
「——遅すぎます。止まって見えますよ」
声は、重騎士の頭上から降ってきた。
いつの間にか空高く跳躍していたセリアが、重力に従って落下しながら、両手の【幻影の双剣】を交差させる。
「【幻惑魔法】——『死の残像』」
重騎士の視界が歪んだ。
空から降ってくるセリアの姿が、二人に、四人に、八人に分裂する。その全てが確かな殺気と質量を持って、彼の急所へと迫ってくる。
「舐めるな! 俺の盾は絶対だァァァッ!!」
重騎士は大盾を頭上に掲げ、魔力を限界まで注ぎ込んだ。
ミスリルの盾が眩い光を放ち、物理・魔法の両方を完全に弾き返す無敵の障壁が展開される。
ガギィィィィィンッ!!
鋭い金属音が響き渡り、八人のセリアの刃が盾に弾かれた……ように見えた。
「……ははっ! 見たか! 俺の盾を抜ける攻撃など、この世に存在しな——」
重騎士が勝利を確信して笑い声を上げた、その時。
「——誰が、盾を斬ると言いましたか?」
ぞわり、と。
重騎士の耳元で、甘く、冷酷な囁きが聞こえた。
「あ……?」
彼が掲げていた大盾。その裏側に張り付くように作られていた『分厚い持ち手』の部分から、音もなく這い出してきた影——『九人目』の本物のセリアが、逆手に持った短剣を彼の首筋にピタリと当てていたのだ。
どんなに分厚い盾を構えようが、盾と持ち主の間に『影』がある限り、今のセリアには何の障害にもならない。
物理的な絶対防御など、空間と影を支配する彼女の前では、無用の長物でしかなかったのだ。
「ヒッ……!!?」
「教えてあげます。あなたが私に味わわせた、あの日の絶望を」
セリアの短剣が、重騎士の首筋を……斬り裂くのではなく、魔力回路の急所(神経の束)に浅く、しかし正確に突き刺さった。
「ガ、アァァァァァァァッ!?」
重騎士がメイスと大盾を取り落とし、地面を転げ回る。
致命傷ではない。だが、【幻影の双剣】に宿る暗殺者たちの呪詛と、セリアの【幻惑魔法】が、彼の脳の奥底に直接『最悪の悪夢』を流し込んでいた。
重騎士の視界が完全にブラックアウトする。
そして次の瞬間、彼の目に映ったのは——何万匹もの巨大な魔物に四方八方を囲まれ、生きたまま肉を食いちぎられる『疑似体験(幻覚)』だった。
それはまさに、かつてセリアが嘆きの谷で直面した絶望そのもの。
『ギャアアアアアッ! 助けてくれ! 嫌だ、俺は勇者の盾だぞ! くるな、喰うなァァァッ!!』
現実世界では、重騎士は何もない虚空に向かって絶叫し、自分の顔を掻きむしりながら涙と鼻水と失禁にまみれて這いずり回っていた。
一切の傷を負っていないにもかかわらず、その精神は完全に破壊されていた。
「……私の絶望など、クロウ様への絶対的な忠誠心に比べれば容易く上書きできるものでした。ですが、あなたのような浅ましい精神では、数秒と持たないようですね」
セリアは、無様に這い回るかつてのリーダーを見下ろし、冷たく吐き捨てた。
五万の軍勢と勇者パーティーが呆然と見守る中、王国最強と謳われた絶対の盾は、たった一人の少女の手によって、傷一つつけられることなく『完全な廃人』へと変えられたのだ。
「素晴らしい暗殺術だ、セリア」
後方から、戦場を悠然と歩いてきたクロウが声をかけた。
漆黒の【黒の仮面】の奥で、彼の瞳が楽しげに細められているのがわかる。
「クロウ様……! お褒めに預かり、光栄の至りです」
セリアは双剣についた見えない汚れを払い、クロウに向かってその場で深く、美しく平伏した。彼女の顔は、先ほどまでの冷酷な暗殺者のそれから一転し、主からの賞賛に頬を染める熱烈な信徒の顔になっていた。
「さて……」
クロウはセリアの頭を軽く撫でると、大剣を肩に担ぎ直し、絶望で凍りついている勇者パーティーの天幕へと視線を向けた。
「お前らの『盾』は、ご覧の通り壊れたおもちゃになっちまったぞ。……次はどいつが俺たちを楽しませてくれるんだ?」
クロウの重圧を含んだ低い声が、戦場全体に響き渡る。
勇者パーティーの顔は、怒りよりも先に『未知の恐怖』で完全に青ざめていた。




