第35話:過去の幻影と、狂信による簒奪
紫色の禍々しいオーラに包まれ、セリアは冷たい石の床に膝をついていた。
【幻影の双剣】から溢れ出す数百年にわたる呪詛が、彼女の魔力回路を逆流し、脳髄へと直接流れ込んでくる。
(……ここは?)
気がつけば、セリアの意識は肉体を離れ、底なしの暗闇の中——自身の精神世界へと引きずり込まれていた。
足元には、生ぬるい血の池が広がっている。そして、その赤黒い水面から、セリアにとって『最も思い出したくない過去の亡霊』たちが次々と這い出してきた。
『おい、役立たずの斥候。罠があるかもしれないから、お前が先に行け』
『魔物の群れだ! チィッ……おいセリア、お前が囮になれ! 俺たちが逃げる時間を稼ぐんだよ!』
それは、かつて彼女が所属していた底辺の冒険者パーティーのリーダーと、仲間たちの姿だった。
彼らの顔は嘲笑に歪み、セリアをただの『消耗品の肉の盾』としてしか見ていない、あの日の冷酷な目がそこにあった。
「……幻影、ですね。双剣の呪いが私の記憶を覗き見し、一番のトラウマを実体化させたというわけですか」
セリアは暗闇の中で、静かに呟いた。
呪いは彼女の精神を折り、絶望させ、自我を乗っ取ろうとしているのだ。幻影の背後からは、あの日セリアを食い殺そうと迫ってきた無数の魔物たちの影が、咆哮を上げながら押し寄せてくる。
『誰もお前なんか必要としてないんだよ!』
『ここで魔物に食われて、惨めに死ね!』
かつての仲間たちの幻影が、呪詛の言葉と共にセリアに襲いかかる。
もしもクロウと出会う前の彼女であったなら、この圧倒的な絶望と孤独の記憶に耐えきれず、精神を破壊されて双剣の操り人形と化していただろう。
だが——今のセリアは違った。
「くだらない」
セリアは冷たく言い放つと、実体のない精神世界の中で、両手に『自身の魔力で創り出した短剣』を顕現させた。
「あの日、絶望の泥濘の中で死にかけていた私を救い出してくださった、絶対的な光……いや、優しくも恐ろしい『闇』。今の私には、最高の主がいる。お前たちのような三流のクズどもの声など、今の私の耳には届かない!」
セリアが両腕を交差させて振るうと、迫り来る魔物の群れも、かつての仲間たちの幻影も、水面を叩き割るように一刀両断され、霧散して消え去った。
『……ホウ。過去ノ絶望ニハ、屈シナイカ』
トラウマの幻影が消えた直後、血の池の底から、より深く、よりどす黒い『声』が響いた。
これこそが【幻影の双剣】に宿る呪いの本体。歴代の暗殺者たちが残した、狂気と殺戮の思念の集合体だった。
『ナラバ、狂エ。血ヲ渇望シロ。殺シテ、殺シテ、全テヲ奪エ……我ガ力ニ呑マレ、永遠ノ殺戮人形トナレェェェェッ!!』
凄まじい精神的重圧がセリアの魂を押し潰そうとする。
「もっと血を流せ」「もっと命を刈り取れ」という暗殺者としての本能を極限まで暴走させ、理性を焼き尽くそうとする、純粋で暴力的な呪いの奔流。
「くっ……ぁぁぁぁ……ッ!!」
セリアの精神体が激しく明滅し、自我の境界線が曖昧になっていく。
伝説の暗殺者すらも飲み込んだ呪いだ。ただ精神力が強いというだけで弾き返せるほど、数百年の怨念は甘くはない。
(ああ……このままでは、私は狂気に呑まれる。ただの殺戮人形になってしまう……)
だが、完全に意識が闇に沈みかけたその時。
セリアの脳裏に浮かんだのは、冷たくも美しい、あの『黒の仮面』だった。
(……いや。駄目だ。私が正気を失えば、クロウ様の隣に立つ資格を失ってしまう。クロウ様の役に立てなくなってしまう!)
その瞬間、セリアの魂の奥底で、呪いすらも凌駕する『異常な感情』が爆発した。
「……狂気? 殺戮への渇望? 笑わせないで……ッ!!」
セリアは顔を上げ、呪いの暗闇を睨みつけた。彼女の瞳には、一切の迷いも恐怖もない。あるのは、ただ一つの存在に対する、病的で狂信的なまでの『執着』だった。
「私の魂は、私の心臓は、私のこの命は! 既に全て、クロウ様に捧げている! 私の精神は、あの方の足元に敷かれた絨毯にすぎない! 私を満たしているのは殺戮衝動ではなく、あの方への絶対的な忠誠心だ!」
『ナ、ニ……!? キサマ、狂ッテ……!?』
「ええ、狂っていますとも! クロウ様に出会ったあの日から、私はあの方の圧倒的な力と闇に魅入られ、完全に狂わされている! その至上の狂信に比べれば、お前たちが数百年間溜め込んだ程度の呪いなど……浅すぎて、反吐が出るわ!!」
セリアの魂から放たれたのは、呪いを打ち払う聖なる光ではない。
クロウへの狂信という、より深く、より純度の高い『別の狂気』だった。
「私の魂には、お前たちが入り込む隙間など、針の穴ほども存在しない! 黙って私の力となり、共にクロウ様の敵を斬り裂け!!」
セリアの絶叫と共に、彼女の魂の形が巨大な刃となり、呪いの本体を真っ向から貫いた。
『ギ、ガァァァァァァァァァッ!!?』
数百年の怨念が、一人の少女の『狂信』の前に屈服し、悲鳴を上げて砕け散っていく。
暗殺者たちの呪いは完全にねじ伏せられ、再構築され、セリアという新たな『絶対の主』の魂へと従属していった。
◆ ◆ ◆
現実世界。霊廟の間。
「……セリア!」
シルヴィアが、息を呑んで見守っていた。
セリアの全身を包んでいた禍々しい紫のオーラが、突如として彼女の体内に吸い込まれるように収束していく。
そして、俯いていたセリアがゆっくりと顔を上げた。
その瞳の奥には、確かな理性の光と、これまで以上の鋭い殺気が宿っていた。
彼女が両手に握る【幻影の双剣】は、先ほどまでの荒れ狂う呪詛を完全に静め、主の命に従う従順な刃として、静かな紫の燐光を放っている。
「……戻ったか、セリア」
俺は仮面の奥で、満足げに口角を上げた。
「はい。ご心配をおかけいたしました、クロウ様。シルヴィア様」
セリアは静かに立ち上がり、双剣をクルリと回して腰の鞘(この武器専用に用意した特製のホルダー)に納めると、俺の前で深く、美しく平伏した。
「双剣の呪いは、全てこの身に馴染ませました。……今の私なら、クロウ様の行く手を阻むいかなる影の軍勢であろうと、千の分身を創り出して全て刈り取ってみせます」
「上出来だ。これで、お前の暗殺術は完成したな」
物理的な分身を創り出し、手数を無数に増殖させる【幻影の双剣】。
それにセリア自身の【隠密】と【幻惑魔法】が合わされば、まさしく一人で一個師団を相手にできる、大陸最強の暗殺者の誕生だ。
「ええ、本当にすごいわ、セリア。……これで、私たちのパーティーに足りなかったピースが全て揃ったわね」
シルヴィアが『絶対零度の魔杖』を軽く振ると、冷気が美しく舞った。
Sランク魔物を捕食し、規格外の筋力と黒霧で戦局を支配する、前衛の俺。
全てを凍結させる広範囲殲滅魔法を操る、後衛の魔女。
そして、死角からの奇襲と幻影で敵を翻弄し、確実な死をもたらす遊撃の暗殺者。
「ああ。これでもう、準備運動は終わりだ」
俺は霊廟の暗闇を見つめながら、これから始まる惨劇に思いを馳せ、獰猛な笑みを浮かべた。
「ここからは、攻め(反撃)のターンだ。……まずは、俺とセリアを泥の中へ突き落としたあの『勇者パーティー』。奴らの名声を叩き落とし、精神を壊し、足元から全てを崩壊させてやる」
俺たち『仮面の三人組』は、冷たい地下墓所を後にした。
世界を救うと持て囃される偽りの英雄たちに、真の絶望と恐怖を味わわせるために。




