第3話:暗闇の底と、生き残るための『捕食』
アキレス腱を斬られたはずの両足は、確かな感触を持って冷たい石畳を踏みしめていた。
俺はゆっくりと屈伸をし、次いでその場で軽く跳躍してみる。
痛みはない。それどころか、以前よりも体が軽く、筋肉の繊維一本一本にまで活力が満ちているのがわかった。
「……信じられないな」
声に出して、自分の変化を確かめる。
迷宮の最底辺。光すら届かない完全な暗闇の中で、俺の心は異様なほどに冷え切っていた。
つい先程まで俺を支配していた死の恐怖は消え去り、代わりにどす黒い怒りと、静かな生存本能だけが残っている。
【強奪】。
それが、極限状態の俺が覚醒した固有スキルだった。
喰らった魔物の肉体は灰となって消え、代わりに俺の体に『力』が定着しているのが感覚として理解できる。
『屍食いの毒蜥蜴』から奪った能力は二つ。
一つは【毒耐性(大)】。そしてもう一つは、今まさに俺の足を治した【爬虫類の自己再生】だ。
(だが、これだけじゃここは生き抜けねえ)
冷静に現状を分析する。
いくら傷が治るといっても、痛みが消えるわけではないし、一撃で首を刎ねられれば死ぬだろう。
何より今の俺には『視界』がなかった。
上層から落ちてきた微かな冷気を感じるが、周囲は文字通りの漆黒。
もし今、ミノタウロスのような強力な魔物が現れれば、逃げる方向すらわからずに嬲り殺しにされる。
(まずは『目』だ。暗闇でも動ける能力を持つ獲物を狩る)
勇者パーティーの荷物持ちとして、最前線で魔物の生態を見続けてきた経験が活きた。
この階層、この環境。完全な暗闇に生息する魔物は、視覚以外の感覚が異常に発達しているか、あるいは暗闇を見通す目を持っているはずだ。
俺は呼吸を殺し、その場にしゃがみ込んで耳を澄ませた。
……カサッ。
…………チチッ。
数分後。冷たい静寂の中で、微かな足音が聞こえた。
何かが、岩肌を這うようにしてこちらへ近づいてくる。
息遣いと、小さな爪が石を引っ掻く音。ボス級の巨大な魔物ではない。小型だ。
(来る……)
俺はあえて動かず、死体のフリをして息を潜めた。
暗闇の中、音の主が俺の足元まで近づいてくる。
腐肉の匂いとは違う、獣特有の生臭い体臭が鼻を突いた。
チリッ、と足首に鋭い痛みが走る。
何かが俺の肉を齧ったのだ。
「——捕まえたぞ」
俺は痛みを無視して、足首に食らいついた『それ』に向かって両手を振り下ろした。
確かな毛皮の感触と、バタバタと暴れる骨張った体。
腕に鋭い爪が食い込み肉が裂けるが、【自己再生】を持つ今の俺には致命傷にならない。
力任せに地面に押さえつけ、俺はその魔物の頭部らしき場所へ、躊躇なく自分の歯を突き立てた。
「ギャウッ!?」
生温かい血が口の中に広がる。
蜥蜴よりもさらに泥臭く、ひどく不味い肉だ。だが、今の俺にとってこれは生き残るための『命』そのものだった。
喉を噛みちぎり、その肉片を飲み込む。
直後、魔物の体がサラサラと灰になって崩れ、俺の体内へと吸い込まれていく感覚があった。
『——深層大鼠の捕食を確認』
『——対象の魂を捕捉。スキル【暗視】および【隠密(微)】を強奪しました』
脳内に響く無機質な声とともに、俺の眼球に熱が走った。
まばたきを数回繰り返す。
すると——さっきまで完全な漆黒だった視界が、まるで薄暗い月夜のように、青白いフィルターを通してくっきりと見え始めたのだ。
「……なるほど、こいつは便利だ」
【暗視】のスキルが発動し、ついに奈落の景色が俺の目に映った。
だが、その光景を見て、俺は思わず息を呑んだ。
見渡す限りの、白い骨と腐肉の山。
そしてその死体の山を漁るように群がる、数十匹の魔物たちの姿があった。
視界を手に入れたことで、自分がどれほど絶望的な環境にいるのかを、俺は初めて正確に理解したのだった。




