第26話:王都脱出と、冷たい夜の火
王都から馬を飛ばすこと数日。
追手の気配が完全に途絶えたことを確認し、俺たちは国境近くに広がる険しい山脈の入り口で足を止めた。
「どうやら、近衛兵の捜索網は完全に撒けたようね。……さすがはセリアの【隠密】と、クロウの【黒霧】の組み合わせだわ」
シルヴィアが安堵の息を吐きながら、深く被っていたフードを脱いだ。
その表情には、まだ疲労と、祖国を捨てたことへの微かな喪失感が滲んでいるように見えた。
「王都は今頃、消えた王女と仮面の賊の捜索で蜂の巣を突いたような騒ぎだろうな。しばらくあそこには近づかない方がいい」
「それで、ここまで来たのはいいけど……ここは、まさか」
シルヴィアが険しい表情で前方の峡谷を見据える。
常に分厚い雲に覆われ、不気味な風切り音が泣き声のように響く場所——『嘆きの谷』。人間が踏み入ることを許されない、高ランク魔物の巣窟として知られる魔境だった。
「あぁ。俺の新しい『食事』の調達と……お前のための『武器』を取りに来た」
「私の武器?」
俺の言葉に、シルヴィアが目を丸くする。
「お前の氷魔法は規格外の出力だが、その分、そこらの杖じゃ魔力に耐えきれずにすぐ砕けるだろう? 情報を集めたところ、この谷の奥の古代遺跡には、かつての大魔導士が遺した『絶対零度の魔杖』が眠っているらしい。それを頂く」
「私のために、わざわざこんな危険な場所へ……?」
「お前はもう俺たちの『共犯者』だ。勇者アルスを絶望させるには、お前という存在を誰よりも強大で、手がつけられない『魔女』に仕立て上げる必要がある。戦力になってもらわなきゃ困るからな」
ぶっきらぼうに返す俺に、シルヴィアは少しだけ瞳を揺らし、「……ありがとう」と小さく呟いた。
「今日はもう日が暮れる。谷に入るのは明日の朝だ。ここで野営とする」
◆ ◆ ◆
嘆きの谷の入り口付近の岩陰で、俺たちは小さな焚き火を囲んでいた。
パチパチと爆ぜる火の粉を見つめながら、シルヴィアが温かいスープの入った木杯を両手で包み込む。
「……こんな風に、外で火を囲んで食事をするなんて、いつ以来かしら」
「王族の口に合うかは分からないがな。干し肉と豆を煮込んだだけの野戦食だ」
「美味しいわ。……あの窮屈な王城で食べていたフルコースよりも、ずっと」
彼女の横顔は、王女として振る舞っていた時のような張り詰めた緊張感が抜け、年相応の少女の穏やかさを少しだけ取り戻しているように見えた。
「クロウ様、シルヴィア様。周辺の警戒は万全です。魔除けの罠も張りました」
周囲の見回りを終えたセリアが、音もなく俺の隣に腰を下ろす。
「ご苦労、セリア。お前も食え」
「はい。ありがとうございます、クロウ様」
セリアが幸せそうにスープを飲む姿を見て、シルヴィアがふと口を開いた。
「セリアは、どうしてそんなにクロウに忠誠を誓っているの? 単なる『助けてもらった恩』以上のものを感じるわ」
「……」
セリアは少しだけ視線を伏せ、それから真っ直ぐにシルヴィアを見た。
「私はかつて、ある冒険者パーティーで斥候をしていました。ですが、迷宮で強力な魔物の群れに囲まれた時……彼らは私を『囮』として見捨て、自分たちだけ逃げたのです」
「えっ……」
「脚を折られ、魔物に喰われるのを待つだけだった暗闇の中……クロウ様が現れ、私を救い上げてくださいました。さらにご自身の力(魔法)まで分け与えてくださった。……私にとってクロウ様は、命の恩人であり、絶対の『神』なのです」
セリアの言葉に、シルヴィアは少しだけ息を呑み、そして自嘲するように笑った。
「そう……勇者に見捨てられたクロウ。仲間に見捨てられたセリア。そして、国と家族に見捨てられた私。……見事に、捨てられた者たちの集まりね」
「だが、俺たちは生きている。そして、俺たちから全てを奪った連中を、いずれ絶望の底に引きずり落とす力がある」
俺は焚き火に薪を一本くべながら、仮面の奥で静かに宣言した。
「明日は嘆きの谷を越え、遺跡を目指す。シルヴィア、お前の覚悟と魔力を、存分に俺たちに見せてくれ。……もう、国のために自分を抑え込む必要はないんだからな」
「……ええ。やってみせるわ。私の全てを賭けて」
パチリと火の粉が爆ぜる音と共に、氷の魔女の瞳に、静かだが確かな闘志の炎が灯った。




