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午前2時の巡回記録には、居ないはずの入居者がいる。  作者: 葉山 乃愛


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9/16

――第9話:残業代と、朝の申し送り――

 カタカタカタカタカタカタッ!



 午前5時45分。

事務所の空気は、張り詰めた

熱気に満ちていた。


 高城主任の指先は、

もはや目視できないほどの速度で

キーボードを叩き続けている。

 画面には、施設長が過去3年間にわたり

隠蔽してきた「介護報酬の不正請求」と

「不当な労働搾取」の証拠が、

完璧なタイムラインとなって構築されていた。



「大内君、こちらのデータ入力は

すべて完了しました。

これより外部の監査機関、および

労働基準監督署への送信に回します」


 徹夜明けとは思えないほど、

高城主任の横顔は冷徹で、美しかった。

 鉄縁の眼鏡の奥の瞳は、

不正を絶対に許さないという

冷たい怒りで満ちている。



「さすが主任。期待値を遥かに超える

仕事の早さだ」


 俺はプリントアウトされたばかりの

『緊急業務引き継ぎ書』を

バインダーに挟み込んだ。


 施設長が「存在しない305号室」へと

処理されてから3時間。

 俺たちは一睡もせず、

この施設の闇を書類で包囲するための

戦いを続けていた。



「あ、あの……先輩、主任……。

僕、さっき施設長の車から、

金庫の補助鍵と、別の裏帳簿を

見つけてきました……」


 渡辺が、泥だらけの緑のポロシャツの

袖を捲り上げながら、

頼りない手つきで一冊のノートを差し出した。

 腰を抜かして泣いていた男が、

今や最高の「隠密スカウト」として

機能している。



「大手柄だ、渡辺。

お前のおかげで、施設長の個人資産から

俺たちの未払い残業代を

100%毟り取る算段が立った」


 俺が渡辺の肩を叩くと、

彼は「へへ、先輩に褒められた」と、

本当に嬉しそうに笑った。

 この頼りなさと、いざという時の

執念のギャップが、こいつの強みだ。



 ウィーン。


 午前6時30分。

 正面玄関の自動ドアが開き、

朝の光とともに、日勤のスタッフたちが

出勤してきた。


「おはよーございまーす……って、あれ?

なんで高城主任と渡辺君までいるの?」



 最初に入ってきたのは、

いつも明るい中堅職員の『佐々木』だ。

 彼女は、事務所に漂う微かな塩素の臭いと、

俺たち3人の尋常ならざる雰囲気に、

ただごとではない気配を察したようだった。



「全員、揃っていますね」


 高城主任が静かに立ち上がり、

出勤してきた日勤スタッフ全員を見据えた。


「おはようございます。

これより、本日の申し送りを行います。

――ただし、今日の申し送りは、

いつもより少し長くなります」



 スタッフたちがざわつく中、

俺は一歩前へ出た。


「まず、最初の報告です。

本日付で、当施設の施設長は『退所』されました。

今後の運営管理は、高城主任が代行します」



「えぇっ!? 施設長が退所ってどういうこと?」

 佐々木が目を丸くする。



「言葉通りの意味です」

 俺は手元の巡回シートを開いて見せた。


「公式な記録として、施設長は午前4時に

ここを出て行かれました。

そしてもう一つ、重要な報告があります。

3年前に『自主退所』とされていた、

215号室のキクチサエ様についてです」



 その名前が出た瞬間、

古参のスタッフ数人の顔が、

ハッと強張った。

 やはり、みんな薄々気づいていたのだ。

 あの事故が、無かったことにされていたことに。



「キクチ様の死亡事故に関する隠蔽記録は、

先ほど、すべて正しい形で修正され、

しかるべき機関へ提出されました。

これより、この施設は本来の『30人の定員』へと

戻ります」


 高城主任が、毅然とした声で

俺の言葉を引き継いだ。


「私たちは、人間を預かる仕事をしています。

誰かがここに生きて、ここにいたという記録を、

利益のために消し去るような組織は、

今日この瞬間をもって解体します」



 しん、と事務所が静まり返る。

 誰も、反論する者はいなかった。

 高城主任の圧倒的な正論と、

俺たちが一晩で作り上げた『完璧な書類』の山が、

すべてを証明していたからだ。



「……よし、申し送りは以上だ。

日勤の皆さんは、通常業務に入ってください」


 俺がバインダーを閉じると、

スタッフたちはまだ混乱しながらも、

それぞれのフロアへと動き始めた。



「ふぅ……」


 長い夜が、完全に終わった。

 俺は自販機で冷たい缶コーヒーを3本買い、

高城主任と渡辺に手渡した。


「お疲れ様でした、主任、渡辺」



「ありがとうございます、大内君。

……でも、おかしいですね」

 高城主任が、コーヒーを受け取りながら、

ふとパソコンの画面を見つめた。



「何がですか?」



「施設長のアカウントは、すでに完全に

凍結したはずです。

ですが――今、私の端末に、

施設長専用の広報用アドレスから、

システム自動配信のメールが1通、届きました」



 俺と渡辺は、顔を見合わせて

高城主任の画面を覗き込んだ。



【自動配信】:

近隣の系列施設『ひだまりの里(定員50名)』より、

緊急の人員応援要請です。

本日深夜2時、当該施設にて『不可解な夜間徘徊』が

多発したため、急遽、大内職員の派遣を決定しました。



 画面の最下部、

その自動配信メールの作成日時は。



『 令和8年7月13日 午前2時00分 』



 それは、明日――未来の深夜2時に、

俺がまた、別の「歪んだ記録」の中に

放り込まれることを意味していた。



「……なるほどな」


 俺はコーヒーを一口すする。

 苦味が、乾いた喉に心地よく染み渡った。


「次のステージは定員50名か。

期待値の計算が、少し忙しくなりそうですね」



 俺の言葉に、高城主任は

眼鏡の奥の目を妖しく光らせ、

渡辺は「僕もついていきますよ、先輩!」と、

不敵な笑みを浮かべてみせた。


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