表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
午前2時の巡回記録には、居ないはずの入居者がいる。  作者: 葉山 乃愛


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
8/16

――第8話:午前3時の監査――

 しん、と静まり返った廊下。



 施設長室を出た俺の前に、

あの「白い足跡」も「ドロドロの影」も、

もうどこにも見当たらなかった。


 ただ、ツンとした塩素の臭いだけが、

まるで線香の煙のように、

名残惜しそうに空間に漂っている。



 手元のバインダーを見る。

 俺が書き加えた『事実の再確認』の

文字は、黒いインクでしっかりと

紙に定着していた。


「……終わった、のか?」



「いえ、まだですよ、大内君」


 背後から、凛とした声が響いた。

 振り返ると、そこには衣服の裾を

わずかに濡らした高城主任が、

いつものように眼鏡の位置を直しながら

立っていた。


 その後ろでは、渡辺が腰を抜かしたまま、

「先輩マジで生きててよかった……」

と半泣きで床にへたり込んでいる。



「主任、足元は大丈夫ですか」


「ええ。あなたが原本に『正しい記録』を

書き加えた瞬間、あの不快な水溶液は

綺麗に消え去りました。

システム上の狂った業務命令も、

すべて元のフォーマットに修正完了です。

ですが――」


 高城は自身の腕時計に目を落とした。

 文字盤の針は、午前2時59分を

指そうとしている。



「本当の『帳尻合わせ』は、

これからです」


「帳尻合わせ?」



 ピピッ。


 インカムから、午前3時を告げる

定時の電子音が鳴り響いた。

 それと同時に、施設正面の自動ドアが、

ウィーンと重々しい音を立てて

左右に開く音が聞こえてきた。



 この時間に、外から誰かが入ってきた?

 夜間の正面玄関は、外部からは

暗証番号か鍵がなければ絶対に開かない。

 それを開けて入ってこられる人間は、

この施設に数人しかいない。



 コツ、コツ、コツ、と。

 革靴の軽い足音が、

事務所の方からこちらへと近づいてくる。

 現れたのは、高級なスーツに身を包み、

妙に小綺麗に整えられた白髪混じりの男。


 この『ひだまりの家』の絶対権力者であり、

すべての元凶――施設長だった。



「やあ、みんな。こんな時間に

揃ってどうしたんだい?

熱心に夜勤のサポートかな?」


 施設長は、いつものように胡散臭い

営業スマイルを浮かべながら、

俺たちの前に歩み寄ってきた。

 その目は笑っていない。

 まっすぐに俺が抱える黒いバインダー――

金庫から盗み出した原本を凝視している。



「施設長。なぜ、この時間にここに?」

 俺はバインダーを奪われないよう、

さりげなく脇に抱え直した。



「いやぁ、自宅のパソコンで

夜間の介護システムをリモートチェック

していたらね。

どうにもデータの挙動がおかしくて、

心配になって車を走らせてきたんだよ。

……大内君、君が持っているそれは、

確か金庫の中にあったはずのものだね?」


 施設長の一歩、足を踏み出す。

 その瞬間、彼の背後の空間が、

わずかにグラリと歪んだ。



「それを返しなさい、大内君。

それはこの施設の『内部情報』だ。

部外者が勝手に持ち出していい

ものじゃない」



「部外者? 俺はここの職員ですよ。

そして、この書類に書かれている

キクチサエ様は、3年前まで確かにここにいた、

俺たちの『入居者』だ」


 俺は一歩も引かずに言い放った。

 

「あんたは利益のために記録を消した。

だが、消された側は、存在を証明するために

『305号室』というバグを生み出して

ここに留まり続けたんだ。

これを高城主任が明日の朝、しかるべき

監査機関に提出します」



 施設長の顔から、完全に笑みが消えた。

 その肌が、じわりと灰色に変色していく。


「監査、だって? そんな記録、

私が『存在しなかった』と一言発すれば

それですべて終わりだよ。

ここの経営者は私だ。私の言葉こそが、

この施設の唯一の『公式記録』なんだよ!」



 施設長が手を伸ばし、俺のバインダーを

掴み取ろうとした、その時。



 トントン、と。


 施設長のすぐ後ろの暗闇から、

誰かが彼の肩を、優しく叩いた。



「ひっ……!?」


 施設長が恐怖に顔を歪めて振り返る。

 そこには、いつの間にか、

一人の高齢の女性が静かに佇んでいた。



 ドロドロの怪異ではない。

 清潔なパジャマを着て、

穏やかな笑みを浮かべた、

ごく普通の、上品なお婆ちゃんの姿。

 その胸元には、誇らしげに

『215号室 キクチサエ』と書かれた

ネームプレートが光っていた。



「あ……あ……菊池、さん……」

 施設長の声が情けなく裏返る。



 キクチ様は、施設長に向かって

静かに、手元の一枚の紙を差し出した。

 それは、俺が赤の二重線を入れた、

あの『深夜巡回チェックシート』だった。


 そこには、俺たち3人の名前の横に、

彼女の手で、新しく文字が書き加えられていた。



『4:00 施設長 出勤』

『4:00 キクチサエ 退所』



 その文字の横に、

綺麗な、迷いのない「レ」点が、

カチリと書き込まれる。



「……あ、ああ、身体が……動かない……!」


 施設長が絶叫した。

 彼の足元から、今度は本物の、

底なしの黒い影が這い上がり、

彼の身体を『3階への階段』へと、

じわじわと引きずり込み始める。



「大内君! 助けてくれ!

給料を上げる! ボーナスも出す!

だから、その記録を消してくれ!」



 俺は、ただ静かにそれを見つめ、

胸ポケットのペンをカチリと直した。


「拒否します。介護記録の鉄則その3。

一度確定した公的記録は、

何人たりとも、事後変更はできない」



 ズブズブと、施設長が影の中に沈んでいく。

 キクチ様は俺たちに向かって、

最後に深く、上品にお辞儀をした。

 その姿は、朝日が昇る前の、

一番深い夜の闇の中に、綺麗に溶けて消えた。



 ガチャン。


 静寂が戻った廊下に、

施設長が乗ってきた車のスマートキーだけが、

虚しく床に転がった。



 午前3時15分。

 嵐のような夜が、静かに明けていく。

 だが、俺たちの手元には、

施設長が消えた、本物の『事故報告原本』が

残されていた。



「……先輩、俺たち、勝ったんですか?」

 渡辺がようやく立ち上がり、尋ねる。



「いや、まだだ。渡辺、高城主任」

 俺はバインダーを閉じ、

不敵に笑ってみせた。


「あと3時間で、日勤のスタッフが出勤してくる。

それまでに、この数年分の不正記録を全て洗い出し、

完璧な『引き継ぎ書類』を完成させるぞ。

残業代は、アイツの車を売ってでも毟り取る」



「ふふ、いいですね。大内君。

私のタイピングスピードに、ついてこられますか?」

 高城主任が、眼鏡の奥の目を

妖しく光らせて微笑んだ。



 ワンオペ夜勤は終わった。

 ここからは、この腐った施設を

俺たちの『記録』で叩き潰す、

最高の逆襲の時間だ。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ