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午前2時の巡回記録には、居ないはずの入居者がいる。  作者: 葉山 乃愛


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――第7話:金庫の真実と、30人目の境界――

 ベタベタベタベタベタベタッ!



 前方の暗闇から、

無数の「濡れた足音」が

猛スピードでこちらへ迫ってくる。


 スマートフォンのライトを向けると、

そこには誰もいなかった。

 ただ、誰もいないはずの床面に、

次亜塩素酸の白い結晶を撒き散らしながら

人間の足跡だけが、

恐ろしい勢いで増殖していく。



「大内の生存期待値は――100%だ!」


 俺は叫び、足を止めずに突進した。

 怪異の特性は『記録の書き換え』。

 ならば、肉体的な衝突そのものに

実害はないはずだ。

 確率の低い恐怖に怯えて、

足を止めることこそが最大の敗北を招く。



 ザバァッ!


 目に見えない『濡れたナニか』と

すれ違った瞬間、強烈な塩素の臭いと

冷気が俺の身体を突き抜けた。

 ポロシャツの袖がじわりと濡れる。

 だが、痛みはない。ただの幻視だ。



 廊下の突き当たり、

『施設長室』の重い木製のドアの前に

滑り込み、ドアノブを力任せに回す。

 鍵は――開いていた。



 部屋に飛び込み、すぐに背中で

ドアを閉めて鍵をロックする。

 ゼェゼェと荒い息を吐きながら、

デスクの奥にある漆黒の耐火金庫へ

視線を走らせた。


 施設長が管理する、

この施設のすべての「闇」が

眠る場所だ。



 金庫のダイヤル式ロックが、

液晶ライトの光に浮かび上がる。


「暗証番号は……」


 俺の脳内データベースを探る。

 以前、施設長が「忘れないように」と

小声で呟いていた、この施設の

ある『数字』がある。



「『0630』……高城主任の早出の時間、

いや、違う」


 施設長が何より執着し、

毎日計算している数字。

 それは、この施設の最大利益を生み出す

『満床の人数』だ。


「定員の『30』、それに、

開設記念日の『1001』……」


 カチカチとダイヤルを回す。

 30、10、01。


 ガチャン、と重々しい金属音がして、

金庫の扉がゆっくりと手前に開いた。

 正解だ。やはりあの男の思考の癖は

読みやすい。



 金庫の中には、数冊の通帳と、

一冊の分厚い黒いバインダーが

鎮座していた。

 表紙には『重要・事故報告原本(非公開)』

と手書きで記されている。



 俺はそれを引っ張り出し、

ページを猛然と捲った。

 あった。3年前の、あの日の記録だ。



『平成29年7月11日。

215号室入居者・キクチサエ様、

深夜帯に誤嚥による窒息。

第一発見者・介護職員、菊池。』



 頭を殴られたような衝撃が走る。

 キクチサエ。

 それは、失踪した偏執的な職員の名前

なんかじゃない。


 3年前に、この施設で亡くなった

『30人目の入居者』の名前だったのだ。



 そして、その下には、

高城主任の綺麗な文字で

こう書き添えられていた。


『措置:施設長指示により、

当該入居者は「自主退所」として処理。

本日付で記録を抹消する』



「そうか……そういうことか!」


 すべての伏線が、脳内で一つに繋がった。

 施設長は、施設の稼働率を

下げたくないがために、

夜勤帯の死亡事故を隠蔽した。

 入居者を最初から「いなかったもの」

として処理し、

第一発見者の職員・菊池にすべての

罪を着せて追い出したのだ。



 だから、キクチサエは怒っている。

 自分が生きて、そして死んだはずの

『30人目の記録』を奪われ、

『存在しない305号室』へと追いやられた

ことに対して。



 ドンドンドンドンドンドン!!!



 施設長室のドアが、

激しく叩かれた。

 木製のドアがみしりと歪み、

隙間から次亜塩素酸の白い水溶液が

滝のように流れ込んでくる。



『大内さん……原本を、返しなさい……。

それを破れば、私は、本当に、

最初からいなかったことにされてしまう……』



 ドアの向こうから、キクチサエの

悲痛な叫びが聞こえる。



 俺は胸ポケットから、

高城主任から預かった黒の油性ペンを

抜き取った。



「キクチさん。あんたの言う通りだ。

この書類を破棄したら、施設長の勝ちだ。

だから――俺はこれを破らない」


 俺は『事故報告原本』の、

隠蔽されたページを開き、

その余白に、太い黒文字で

こう書き殴った。



『令和8年7月11日。

夜勤担当・大内により、

上記事故の事実を再確認。

本記録は有効であり、キクチサエ様は

当施設の尊い入居者である。』



 ドアを叩く音が、ピタリと止まった。



「介護記録の鉄則その2!

記録は隠蔽するためではなく、

その人がそこにいた証のためにある!」


 俺はバインダーをしっかりと抱きしめ、

施設長室のドアを解錠し、

勢いよく押し開けた。



 午前2時55分。

 廊下の闇の向こうで、

何かが静かに変わり始めていた。


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