――第6話:定時外のタイピング――
カタカタカタカタカタカタッ!
静まり返った深夜の廊下に、
事務所から漏れ出る不自然な打鍵音が
激しく木霊していた。
プロのプログラマーか、
あるいは狂ったタイピストか。
普通の人間ではあり得ないほどの超高速で、
キーボードのキーが叩かれ続けている。
「渡辺、俺のすぐ後ろを歩け。
足音を完全に消せよ」
「は、はい……先輩……」
渡辺は恐怖で歯をガタガタと鳴らしながらも、
俺のポロシャツの裾を掴んで必死についてくる。
この情けなさが妙にリアルで、
逆に俺の理性を現実に繋ぎ止めていた。
事務所のドアの隙間から、
室内の様子を覗き込む。
パソコンの液晶画面から放たれる青白い光が、
椅子の背もたれと、そこに座る
『誰か』の輪郭をうっすらと浮かび上がらせていた。
短く切り揃えられた清潔感のある髪。
背筋をピンと伸ばした、寸分の無駄もない姿勢。
この施設で、その座り方をする人間は一人しかいない。
「高城主任……?」
渡辺が思わず声を漏らした。
その瞬間、タイピングの音がピタリと止まる。
パイプ椅子がギィと軋む音を立てて、
彼女がゆっくりとこちらを振り返った。
鉄縁の眼鏡の奥にある、冷徹なまでに澄んだ瞳。
ひだまりの家のケアマネジャー兼介護主任、
高城その人だった。
だが、まだ午前2時30分だ。
彼女のシフトは朝6時30分からの早出のはず。
何より、彼女の着ているポロシャツは、
日勤用のピンクではなく、俺たちと同じ『夜勤用の緑』だった。
「大内君、渡辺君。遅いですね。
2時の巡回報告がまだシステムに上がっていません。
業務の遅延は、そのまま事故の期待値を上げます。
即座に報告を」
高城の声は、いつもの業務中と変わらない、
抑揚のない冷徹なものだった。
「主任、なぜこの時間にここにいるんですか。
それに、その緑のポロシャツは――」
俺が問いかけると、高城は眼鏡の位置を中指で静かに直した。
「何を言っているんですか?
今夜の夜勤は、私とあなたたちの変則3人体制です。
施設長の指示書にも、そう『記録』されています」
彼女が示したパソコンの画面を見る。
そこには、今日の日付の勤務表が表示されていた。
そこには確かに、大内、渡辺、そして『高城』の3人の名前が、
夜勤者として完璧なフォーマットで組み込まれていた。
「そんな馬鹿な……俺はワンオペだって施設長から直電を――」
「大内先輩、見てください! これ!」
後ろから渡辺が、自分のスマホの画面を俺に突き出してきた。
高城主任の公式アカウントから、職員チャットに1通のメッセージが届いていた。
【高城】:
現在、大内職員に重度のアグレッシブ(攻撃的行動)が見られます。
業務放棄および妄想の兆候あり。
これより、渡辺職員と協力し、大内職員の『行動制限』を開始します。
「おい……高城主任、あんたまで怪異に書き換えられたのか!?」
俺は咄嗟に身構えた。
だが、目の前の高城は、狂った怪異のようには見えない。
むしろ、いつも以上に冷静で、論理的だった。
「大内君。私は書き換えられてなどいません。
私は常に『正しい記録』に従って動いているだけです。
システムがあなたを不穏だと判断した以上、
私はあなたを隔離しなければならない」
高城が静かに立ち上がる。
その手には、介護用の強固な『抑制帯(拘束用ベルト)』が握られていた。
「待て、高城主任! あんたほどの合理主義者が、
そのシステムの矛盾に気づかないわけがないだろ!」
俺はバインダーを盾のように構え、叫んだ。
「あんたが今見ているその勤務表、ログの作成時間を確認しろ!
作成されたのは今日じゃない。
3年前の、あの『菊池さんが失踪した日』のタイムスタンプだ!」
高城の動きが、わずかに止まった。
「あんたは記録の鬼だ。だからこそ覚えているはずだ。
3年前、施設長が隠蔽した誤嚥事故の報告書。
あの時、第一発見者だった菊池さんを『最初からいなかったもの』として
処理する書類を作らされたのは――主任、あんたじゃないのか!?」
高城の鉄縁の眼鏡の奥で、瞳が激しく揺れ動いた。
彼女のトレードマークである完璧なポーカーフェイスが、
みしりと音を立てて剥がれていく。
「私は……私は、施設長の命令に従って、
正しい書式で、処理を……」
「それは正しい記録じゃない!『改ざん』だ!」
俺は一歩踏み込み、手元にある赤ペンで修正した紙のチェックシートを
彼女の目の前に突きつけた。
「キクチサエの怪異は、あんたが作った過去の改ざんの歪みを利用して、
今度は現実の俺たちを『存在しない記録』にすり替えようとしている。
高城主任! あんたが愛した『完璧な記録』の力で、
この嘘の業務命令を上書きしてくれ!」
高城は、俺が赤字で二重線を引いたチェックシートをじっと見つめた。
そして、ふっと自嘲気味な笑みを浮かべた。
「……大内君。あなた、本当に生意気な部下ですね。
ですが――」
高城は抑制帯を机に放り投げ、自分のポケットから『黒の油性ボールペン』を取り出した。
「記録の誤りをそのままにしておくことは、私のプライドが許しません」
彼女はパソコンに向き直ると、驚異的なタイピング速度で
システムへの割り込みを開始した。
画面上の施設長の命令が、次々と高城の手によって上書きされていく。
しかし、その時。
ジリリリリリリリリリリリッ!!!
事務所のナースコール親機が、再び狂ったように鳴り響いた。
液晶に表示されたのは【 3 0 5 号 室 】。
それと同時に、事務所の床の隅から、
ゴボゴボと大量の『次亜塩素酸の水溶液』が湧き出し始めた。
白い泡を立てながら、それは恐ろしい勢いで高城の足元へと迫っていく。
「大内君、時間がありません! システムの根幹にある『3年前の原本』を
直接破棄しない限り、この自動更新は止まらない!
原本の場所は――施設長室の金庫です!」
高城がキーボードを叩きながら叫ぶ。
水溶液が彼女の靴を濡らし、ジュウと白い煙が上がった。
「渡辺、主任を頼む! 俺は施設長室へ行く!」
「了解です! 先輩、絶対に生きて戻ってください!」
渡辺が初めて頼もしい声を上げ、高城の身体を支えようと飛び込んだ。
俺はバインダーを脇に抱え、猛然と廊下へ飛び出した。
目指すは、フロアの一番奥にある『施設長室』。
だが、行く手の闇の中から、
ベタベタと濡れた足音が、無数にこちらへ向かって走ってくる音が聞こえ始めた。
午前2時40分。
本当の夜勤は、ここからだ。




