――第5話:狂った業務命令――
熱い。ポケットの中のスマートフォンが、
まるで沸騰した湯のように熱を帯びていく。
俺は慌てて端末を取り出し、
床へと放り投げた。
液晶画面はひび割れ、その奥で
職員用チャットツールが狂ったように
明滅を繰り返している。
【施設長】:
本日付の勤務変更。大内職員は4:00より
305号室キクチサエ様の『看取り対応』に
入ること。なお、本命令の拒否は認めない。
【施設長】:
大内大内大内大内大内大内大内大内大内大内
大内大内大内大内大内大内大内大内大内大内
「施設長の公式アカウントが、
完全に怪異の端末になってやがる……!」
画面を埋め尽くす俺の名前。
介護業界において、施設長からの
『看取り対応』の指示は絶対だ。
それが電子記録としてシステムに残れば、
俺の身体は法的に、業務的に、
この部屋から動けなくなる。
『そうよ……逆らえないのよ、大内さん。
記録が、私たちが、ここに居ると、
証明しているのだから……』
階段の闇から降りてくる『何か』が、
リネン室の薄暗い光の中に姿を現した。
それは、緑色のポロシャツを着た
老婆の形をしていた。
だが、その顔には目も鼻もない。
あるのは、シュレッダーで裁断された
無数の事故報告書の紙切れが、
数千枚も敷き詰められたような、
白く蠢く『文字の面』だけだった。
「ひっ……あああ!」
渡辺が腰を抜かし、床を這って
俺の背後へと逃げ込んでくる。
その情けない姿を見て、俺の脳細胞は
逆に、氷水に浸されたように冷え切った。
(待て。まだ詰んでいない。
期待値の計算を止めるな)
怪異――キクチサエの攻撃特性は
『公的な記録の改ざんによる現実の侵食』だ。
ならば、対抗する手段もまた、
『より強固な記録の提出』しかない。
「渡辺、立て! まだ生存確率は残ってる!」
俺は背後の渡辺の襟髪を掴み、
無理やり立たせた。
「耳をすませ。今、何時だ?」
「え……? あ、インカムの時報が……
まだ、午前2時15分、です……」
「そうだ。システム上の業務命令には
『4:00より看取り対応に入る』とある。
つまり、怪異のルールが適用されるまで、
まだあと1時間45分もの『猶予』がある」
俺は床に落ちた、渡辺が持っていた
紙のチェックシートを引ったくった。
「キクチサエ。あんたのミスは、
システムを書き換えることに集中しすぎて、
この『紙の記録』の処理を、
現場の俺たちに委ねたことだ!」
白い文字の顔が、ピキリと不自然に歪んだ。
「この施設には、あんたの天敵がいる。
さっき俺が言った、日勤リーダーの
高城主任だ。
あの人はな、毎朝6時30分に早出で出勤し、
前夜の全記録を精査する。
もし、その前にこの紙のシートに、
『重大な業務違反』の記録が
残されていたらどうなる?」
俺は胸ポケットから、
常に愛用している油性ボールペンを抜き取った。
そして、305号室の『2:00』の欄に入れられた
綺麗なレ点の上から、
力強く、真っ赤なインクで『二重線』を引いた。
ギャァァァァァァァッ!!!
リネン室全体が、ガラスを割ったような
悲鳴に包まれる。
壁に浮かび上がっていた3階への階段が、
激しくブレて霧のように薄くなり始めた。
「介護記録の鉄則その1!
誤記を発見した場合は、赤の二重線で抹消し、
速やかに理由を付記すること!」
俺は二重線の上に、自分の訂正印を
叩きつけるように押し、その余白に
猛然と文字を書き込んでいく。
『2:00の生存確認は誤り。
当該入居者は当施設に存在しないため、
記録を無効とする。夜勤担当:大内』
『やめて……消さないで……!
私は、私はここにいるのよ!
あの男に、施設長に、無かったことに
された記録を、戻しているだけなのに……!』
キクチサエの身体から、
大量のシュレッダーのクズがボロボロと
剥がれ落ちていく。
「あんたがここにいた記録は、
こんな嘘のチェックシートじゃ証明できない。
証明したければ――本物の事故報告書を、
高城主任のデスクに叩きつけるべきだ」
俺は書き終えたチェックシートを
バインダーにしっかりと挟み込み、
渡辺の肩を叩いた。
「渡辺、行くぞ。事務所に戻って、
高城主任への『緊急業務引き継ぎ書』を作成する。
怪異のシステムが発動する4時までに、
すべての矛盾を紙の書類で包囲するぞ」
「は、はい……!」
リネン室の影が完全に消え去り、
フロアに緑色の非常灯がパチパチと灯る。
日常が戻ってきた――いや、違う。
事務所の方向から、
トトトトトトトト、と。
誰かがキーボードを猛スピードで
叩く音が、静かな廊下に響き渡っていた。
まだ2時30分だ。
誰もいないはずの事務所で、
一体誰が、記録を書いている?




