――第4話:期待値の逆転――
「……大内、先輩……」
渡辺の目は完全に据わっていた。
普段の仕事では、おむつ交換の手順を
一つ間違えただけでオドオドするような
気弱な後輩だ。
その渡辺が、今は見たこともない
冷酷な笑みを浮かべ、
チェックシートの『4:00』の欄に
俺の名前を刻み込もうとしている。
「待て、渡辺。確率を計算しろ」
俺はスマートフォンのライトを
渡辺の手元に向けたまま、
できる限り冷徹な声を意識して発した。
ここで感情的に怒鳴ったり、
組み伏せようとするのは悪手だ。
怪異のルールが『記録への割り込み』
である以上、下手に動いて
書類を破いたりすれば、
その瞬間に確定演出が
返ってくる可能性が高い。
「確率、ですか……?」
渡辺のペンの動きが、わずかに止まる。
「そうだ。お前はキクチサエから
『次の担当を大内に書き換えれば
家に帰れる』と言われたんだな?
だが、その約束が履行される確率は
限りなくゼロに近い」
「どうしてですか!
キクチさんは、ちゃんとそう言って――」
「介護の記録ってのはな、
一人で完結するものじゃない。
トリプルチェックが基本だ」
俺は一歩、ゆっくりと足を踏み出す。
「仮にお前がそこへ俺の名前を書いて、
一時的に身代わりを作ったとする。
だが、明日の朝7時、日勤のスタッフが
出勤してきたらどうなる?」
渡辺の顔から、笑みがスッと消えた。
「日勤のリーダーは、あの几帳面な
主任の『高城』さんだ。
高城さんは出勤直後、夜勤帯の
申し送り書類と、このチェックシートを
必ず一文字残らず照合する。
その時、夜勤シフトに入っていないはずの
俺の名前が、4時の巡回欄にだけ
唐突に手書きで増えていたら、
高城さんはどう処理すると思う?」
「それは……『不審な誤記』として、
二重線で消して、訂正印を押します……」
渡辺の口から、日頃の業務で
叩き込まれた手順が自然と漏れた。
「その通りだ。現実の人間によって
『記録の修正』が行われた瞬間、
怪異の整合性は崩壊する。
その時、高城さんが修正のために
引く二重線は、大内の名前だけじゃない。
大内をそこに書き残した『前任者』――
つまり、お前の存在ごと、
この施設から完全に抹消される。
これが、この歪んだ施設における
書類の力学だ。お前が選んだ選択肢は、
生存期待値がマイナスなんだよ」
渡辺の手が、ガタガタと震え始めた。
握られたボールペンが、
チェックシートの上でカチカチと
虚しい音を立てる。
「じゃあ……じゃあ僕は、
どうすればいいんですか……!
僕、今日の夕方、本当に体調が悪くて、
家で寝てたんです……!
なのに、午前2時になった瞬間、
スマホの介護システムから
見たこともない通知が来て……
気づいたら、ここに立ってたんだ……!」
渡辺の目から、本物の涙が溢れ落ちた。
その涙が床の『塩の塊』に触れると、
ジュウと音を立てて、
さらに強い塩素の臭いが立ち込める。
「やっぱりな」
俺は確信した。
「渡辺。お前、今日の昼間に
『体調不良の連絡』を、誰に入れた?」
「誰って……施設長の、ラインに……」
「違う。お前が送った相手は、
本物の施設長じゃない」
俺は自分のスマートフォンを操作し、
今日、俺の元に届いた
『渡辺が休んだからワンオペで入れ』
という施設長からのメールの画面を出した。
「よく見ろ。このメールのアドレス、
ドメインの一文字が『hidamari』じゃなくて
『hidamari305』になってる」
渡辺が息を呑む。
「俺たちは、最初からハメられてたんだ。
数年前にシュレッダーにかけられた
はずの『隠蔽された事故報告書』。
それを今日、わざわざ倉庫の奥から
引っ張り出して細断処理しろと
俺に命じたのは、誰だった?」
渡辺の顔が、恐怖で真っ白に変色していく。
「……し、施設長、です……」
「そうだ。あの男が、
この『305号室の怪異』の
本当のトリガーを握っている。
そして、その隠蔽された報告書に、
当時、第一発見者として
名前が載っていた『菊池』という職員。
彼女は、事故の責任をすべて押し付けられ、
現実の記録から『存在しない人間』として
処理されたんだ。
だから彼女は、今度は自分が
現実の記録に潜り込み、
この施設を内側から『3階建て』に
書き換えようとしている」
その時。
パチ、パチ、パチ、と。
暗闇のリネン室の天井から、
乾いた拍手の音が聞こえた。
渡辺の後ろの壁。
そこにあるはずのない『上へと続く階段』が、
漆黒の影となって、
じわじわとコンクリートの壁面に
浮かび上がってくる。
階段の頂点、見えない3階の闇から、
あの掠れた老婆の声が、
今度はインカムを通さずに直接響いた。
『さすが、大内さん……。
よく、お勉強、されていますね……』
白い結晶をボロボロと落としながら、
影の中から『何か』がゆっくりと
階段を降りてくる。
『でも、残念。
もう、4時の欄の、印刷は……
始まっちゃって、いるんですよ……』
ジジ、ジジ、と音がした。
俺のポケットの中で、
スマートフォンが異常な熱を持ち始める。
画面を見ると、職員用チャットの画面が
勝手にスクロールし、
無数の『不可解な業務命令』が
施設長のアカウントから、
凄まじい速度で投稿され続けていた。




