――第2話:ノイズの主と、深夜の不穏――
「……あ……う……」
親機から漏れる老婆の掠れ声は、
ただの機械の誤作動にしては、
あまりに生々しく耳の奥を引っ掻いた。
俺は受話器を耳に押し当て、
深く息を吸い込む。
「……305号室のキクチ様、
どうされましたか。御用でしょうか」
返答はない。
ただ、濡れた雑巾を床に
叩きつけるような不快な呼吸音だけが、
スピーカーの向こうで
規則的に繰り返されるだけだ。
一度受話器を置き、
俺は卓上のパソコンのキーボードを叩いた。
全入居者30名の詳細なアセスメント、
既往歴、緊急連絡先が網羅された
ケアプランのデータベースを開く。
検索窓に『キクチ』と打ち込む。
結果は――該当者なし。
次に『305』と打ち込む。
画面には『エラー:存在しない部屋番号です』
という無機質なポップアップが表示された。
「確率論で考えろ」
俺は自分のこめかみを指で叩いた。
窮地に陥った時こそ感情を排して、
もっとも確率の高い『正解の選択肢』を
選び取るのが俺の流儀だ。
あり得る可能性は3つ。
1:親機の基盤ショートによる誤作動。
2:外部からの有線割り込み。
3:本当に『305号室』が存在する。
確率が最も高いのは1だ。
だが、手元の巡回シートに書かれた
『305号室 キクチサエ』の文字と、
俺の筆跡で綺麗に入れられたレ点。
これだけは、機械のエラーでは
絶対に説明がつかない。
その時、インカムの向こうから
「う、うう……」という男のうめき声が聞こえた。
108号室。
心疾患の既往があり、夜間に不穏状態に
陥りやすい『黒岩』さんだ。
俺は迷わず、インカムのスイッチを入れる。
「黒岩さん、今そちらへ向かいます」
正体不明のオカルトを検証するより、
目の前のリアルなリスクを排除するのが先だ。
それが、ワンオペ夜勤で期待値を
最大化するための鉄則だからだ。
事務所を飛び出し、薄暗い廊下を走る。
108号室のドアを開けると、
常夜灯の明かりの中、ベッドの上で
黒岩さんが激しく身をよじっていた。
額にはびっしょりと脂汗が浮かんでいる。
「黒岩さん、大丈夫ですか。
胸が苦しいですか?」
声をかけながら、俺は素早く
彼の動脈に指を触れ、呼吸状態を確認する。
だが、黒岩さんは俺の手を
異常な力で振り払った。
その目は恐怖で血走り、俺の背後――
部屋の隅にあるクローゼットを凝視している。
「ち、違うんだ、兄ちゃん……!
さっき、来たんだよ……」
「誰がですか?」
「夜勤の、キクチさんだよ……!
あの婆さん、俺の胸の上に急に座ってきて、
『まだ点数が足りない』って……
じっと、俺の顔を覗き込んできたんだ……!」
心臓が、ドクンと嫌な跳ね方をした。
キクチ。
黒岩さんは今、確かにそう言った。
だが、うちの施設の夜勤帯に
そんな名前の職員は存在しないし、
今夜は俺のワンオペだ。
「黒岩さん、落ち着いてください。
今夜の夜勤は俺一人です。
それは、悪い夢を見ただけですよ」
そう言って宥めながら、俺は脳内で
必死に計算を巡らせていた。
黒岩さんは認知症を患っている。
深夜の幻視や妄想は日常茶飯事だ。
ただの偶然だ。
彼がたまたま口にした『キクチ』という
名前と、さっきのチェックシートの名前が
一致したのは、ただの確率の悪戯。
そう自分に言い聞かせ、
頓服の薬を内服させると、
黒岩さんは数分で落ち着きを取り戻し、
泥のような眠りに落ちていった。
バイタルサインは安定。
緊急搬送のリスクは回避した。
「ふぅ……」
息を吐きながら、俺は部屋を出て、
静まり返った廊下を再び歩き始める。
足元を見る。
違和感があった。
108号室のドアの前。
ワックスがけされた床の上に、
白く乾いた『塩の塊』のようなものが、
うっすらと点々と落ちていた。
まるで、誰かが濡れた足で
歩いた跡が、そのまま乾燥したかのように。
俺はそれを指先で少しだけ掬い、
鼻に近づけた。
ツンとした、強烈な塩素の臭い。
それは、施設で亡くなった入居者の部屋を
消毒する時に使う、次亜塩素酸ナトリウムの
臭いだった。
ゾワリと、全身の毛穴が開く。
やはり、何かがこのフロアを歩いている。
その時、ポツンと、
廊下の天井のスピーカーから
音が漏れた。
ナースコールの親機からではない。
施設全体に繋がる『館内放送用』の
スピーカーからだ。
『――じ、巡回、お疲れ様です……』
声が聞こえた。
キクチサエの掠れ声ではない。
それは、聞き覚えのある声だった。
いつも一緒にシフトに入っている、
気弱だが真面目な後輩の介護職員――
『渡辺』の声だ。
だが、渡辺は今日の昼過ぎ、
「体調不良で急に夜勤を休む」と
施設長から連絡があったはずだ。
だからこそ、俺が急遽ワンオペで
入ることになったのだ。
『先輩……そこに、いるんですよね。
お願いです、早く、書類を……
事故報告書を、書いてください……』
放送から聞こえる渡辺の声は、
ガタガタと激しく震えていた。
まるで、冷水に浸かりながら
喋っているかのように。
『じゃないと、僕……
次のページの、担当に、されちゃうから……』
プチッ。
不自然に放送が切れた。
それと同時に、フロアの非常灯が
一斉に消灯し、廊下は完全な闇に包まれる。
手元のスマートフォンが、震えた。
画面を見ると、施設内の職員用チャットに
渡辺から一件の通知が届いている。
恐る恐る、画面をタップして
メッセージを開いた。
【渡辺】:
先輩、助けて。305号室のベッドの下に
隠れてるんですけど、キクチさんが、
さっきからずっと僕の名前を
チェックシートに書こうとしてるんです。
送信時間は、1分前。
添付されている画像を開く。
それは、真っ暗なベッドの下から、
外を撮影した写真だった。
ベッドの向こうに、
緑色の介護職員用のポロシャツを着た
『誰か』の足が見える。
その足の皮膚はドロドロに腐り落ち、
次亜塩素酸の白い結晶が
びっしりとこびりついていた。
そして、その足元に転がっているのは。
今日の夕方、俺が確かに
シュレッダーにかけたはずの、
数年前の『古い事故報告書』の束だった。




