――第1話:31人目のチェック欄――
ワンオペの夜勤というものは、
つまるところ「期待値」の
コントロールである。
俺が働く住宅型有料老人ホーム
『ひだまりの家』は、入居定員30名。
これを深夜22時から翌朝7時までの間、
たった一人の夜勤職員で回す。
急な発熱、転倒トラブル、
執拗なナースコール、深夜の徘徊。
ワンオペ夜勤におけるリスクの種は、
数え上げればキリがない。
だからこそ、俺は常に業務の
「効率」と「確率」を計算して動く。
この時間帯にコールを押す確率が
高い入居者は誰か。どのタイミングで
体位交換を済ませれば、一番コールが
鳴らずに書類作成の時間を確保できるか。
オカルトだの霊感だのといった
不確実なものは信じない。
確かなのは、数字と、
自分が書く業務記録だけだ。
「よし、21室のオムツ交換完了。
これで次の巡回までは計算通り、
予定のタスクを消化できるな」
深夜1時45分。
2階フロアの廊下は、静まり返っている。
非常灯の薄暗い緑色の光が、
等間隔で床を照らしていた。
俺は手元のスマートフォンで、
施設内の介護記録システムを開き、
今終えたケアの入力を済ませる。
介護職の仕事は、
介護をすることだけではない。
「記録を残すこと」こそが、
自らの身を守る最大の盾になる。
何かトラブルがあった時、その瞬間に
自分がどこで何をしていたのか、
正確なエビデンスがなければ
すべての責任を被ることになるからだ。
ピピッ。
インカムから、事務所に設置された
親機の電子音が小さく響いた。
時計を見る。午前2時ちょうど。
2時間おきに義務付けられている、
全室の定期巡回の時間だ。
俺は事務机から、バインダーに
挟まれた『深夜巡回チェックシート』を
取り出した。
うちの施設は、デジタル化を
進めている一方で、夜間の生存確認だけは、
万が一のシステムエラーを防ぎ、
証拠として残すためにあえて
「紙のチェックシート」を併用している。
縦軸に入居者の名前と部屋番号が並び、
横軸に『0:00』『2:00』『4:00』『6:00』
と時間が区切られた、
至ってシンプルなExcelの表だ。
バインダーとペンを手に取り、
俺は静かに廊下へ出た。
足音を立てないように配慮しながら、
101号室から順にドアの覗き窓から
室内を確認していく。
「101号室、A様。呼吸良し、睡眠中」
チェックシートの2:00の欄に、
ボールペンで小さく「レ」点を書き込む。
「102号室、B様。睡眠中」
また、レ点。
すべてはいつも通りのルーティン。
暗闇の中で、入居者たちの微かな寝息や、
規則的な呼吸の音だけが聞こえる。
2階の角部屋である215号室まで
回り終え、全30名の安否確認が完了した。
トラブルなし。
期待値通りの平和な夜勤だ。
そう安堵しながら、俺は廊下の
自販機で缶コーヒーを買い、
事務所に戻ってパイプ椅子に腰掛けた。
バインダーを机に置き、
何気なくチェックシート全体を眺める。
「……ん?」
ボールペンを持った手が、
ピタリと止まった。
何かおかしい。
違和感の正体を探るように、
シートの一番下の行へと視線を走らせる。
うちの施設の定員は30名。
部屋数は101号室から215号室までの、
計30部屋だ。
当然、チェックシートの行も、
一番下の「215号室」で終わっている
はずだった。
しかし。
215号室の、さらにその下の行に、
歪んだ手書きの文字が付け足されていた。
『305号室 キクチ サエ』
配置されていないはずの部屋番号。
And、俺が今さっき書き込んだばかりの
『2:00』の縦列に。
まるで俺自身の筆跡としか思えない、
綺麗な「レ」点が、
しっかりと書き込まれていた。
「……なんだ、これ」
背中の中心から、すうっと冷たいものが
這い上がってくるのを感じた。
305号室?
この施設は2階建てだ。3階なんて、
存在しない。
それに、キクチサエなんて名前の
入居者は、俺の記憶のデータベースには
1人も登録されていない。
何より不可解なのは、
このチェックマークだ。
俺は、30人分の巡回しかしていない。
215号室にチェックを入れた後、そのまま
バインダーを閉じて事務所に戻ってきたはずだ。
誰かが、俺の目を盗んで事務所に
忍び込み、書き足したのか?
いや、ワンオペ夜勤だ。
施設の玄関は施錠されているし、
他のスタッフは誰もいない。
「見間違いか……? いや、疲れてるだけか」
俺は指先で、その『305号室』の文字を
強く擦ってみた。
油性ボールペンのインクは完全に
乾いており、滲みもしない。
その時。
ジリリリリリリリリリリリッ!!!
静寂を切り裂くように、
事務所の壁に設置されたナースコールの
警告音が、けたたましく鳴り響いた。
ビクッと肩が跳ねる。
俺は素早く立ち上がり、
親機の液晶画面に目を向けた。
コールを発信している部屋番号が
表示されるはずの画面。
そこに表示されていたのは、
赤く点滅する、あり得ない数字だった。
【 3 0 5 号 室 】
受話器から漏れ聞こえるのは、
ザー、ザーという、
激しい砂嵐のようなノイズ。
そのノイズの奥から。
「……あ……う……」
喉に何かが詰まったような、
高齢の女性のものと思われる、
掠れた声が聞こえてきた。
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【深夜巡回シート(抜粋)】
部屋 / 氏名 [0:00] [2:00] [4:00]
214 / 佐藤 様 レ レ
215 / 鈴木 様 レ レ
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305 / キクチ サエ レ
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