――第11話:51人目のカウントダウン――
「……204号室に、あの施設長が、
上書きされようとしてる……?」
受話器から聞こえる前施設長の
引き攣った絶叫に、
渡辺は完全に硬直していた。
だが、俺の視線は別の不条理を
捉えていた。
卓上のタブレットに表示された
『ひだまりの里』の総入居者数。
そこには、あり得ない数字が
リアルタイムで刻まれていた。
【 現在の入居者数:51名 / 定員50名 】
「定員オーバーだ。
完全なエラー(違反)状態だな」
俺は冷酷に言い放った。
介護保険制度において、定員超過は
一発で行政処分を食らう致命的なバグだ。
キクチサエは、前施設長をこの施設の
ベッドに『51人目の書類』として
無理やりねじ込もうとしている。
「大内さん、状況を整理させて。
つまり、あの卑劣な前施設長は今、
キクチ様の移動届によって
『204号室の入居者』という名目の
書類に変換されかけている、
ということでよろしいかしら?」
園崎が、手元の穴あけパンチを
カチカチと威嚇するように鳴らしながら、
ゾッとするほど艶やかな笑みを浮かべた。
怯えるどころか、
楽しんでさえいる。この女、やはり本物だ。
「ああ。だが、204号室には元々、
別の入居者様が寝ているはずだ。
その人と施設長が『入れ替え』に
なった瞬間、元々の入居者様の存在が
書類上から弾き出されて、
世界から消滅する確率が高い」
「それは……絶対に許せませんわ」
園崎の瞳から、おっとりした光が
完全に消え失せた。
「不適切な書類による、既存データの
上書き。相談員の仕事に対する、
これ以上ない侮辱です。
大内さん、204号室へ突っ込みましょう」
「待て、園崎さん。正面から
突っ込むのは期待値が低い。
相手は記録を改ざんする怪異だ。
まずは敵の『処理手順』を遅延させる」
俺は手元のFAXから吐き出された
『入居者移動届(緊急)』を
ひったくるように掴んだ。
「この移動届の『決裁欄』を見ろ。
まだ、施設長代理である高城主任の
受領印が押されていない。
つまり、この書類はまだ『申請中』の
ステータスだ」
「先輩、じゃあ僕、今すぐ高城主任に
電話して、この申請を絶対に拒否しろって
伝えます!」
渡辺がスマホを取り出そうとする。
「いや、渡辺。それじゃあ不十分だ。
拒否をすれば、怪異はまた別の
ルート(バグ)を探して割り込んでくる。
もっと確実に、この書類の価値を
暴落させる『ノイズ』を叩き込む」
俺は園崎の前に移動届を差し出した。
「園崎さん。この移動届の『既存入居者との入れ替え』という文言。
具体的に誰と入れ替えるのか、
氏名の記載が抜けている(空欄だ)。
書類の不備だ」
「あら……本当ですわね。
なんてズサンな書類作成かしら」
園崎は嬉しそうに目を細めると、
手にした巨大な穴あけパンチを
その『空欄』の部分に正確に宛がった。
パチンッ!!!
鋭い金属音が響き、
移動届の重要部分に、綺麗な
丸い穴がぶち開けられた。
ギャァァァァァァァッ!!!
受話器の向こうから、
前施設長ではない、何千もの文字が
裂けるような不協和音の悲鳴が
鳴り響いた。
それと同時に、事務所の蛍光灯が
激しく瞬き、壁に掛けられた
『ひだまりの里・職員行動規範』の
額縁が、ガタガタと音を立てて床に落ちる。
「よし、処理の進行を
一時停止させたぞ」
俺はバインダーを掴み直した。
「怪異が書類の不備を修正し、
再申請をかけてくるまでに、
およそ15分。
渡辺、園崎さん、今のうちに
1階の204号室へ走るぞ。
既存の入居者様を保護し、
『51人目の名簿』を物理的に
確定させて、怪異を包囲する!」
「はいっ!」
渡辺が、今度は恐怖を殺して
鋭い返事をした。
事務所を飛び出し、
定員50名の巨大な要塞である
『ひだまりの里』の長い廊下へと、
俺たちは一斉に駆け出した。
だが、204号室が近づくにつれ、
廊下の空気が、妙に湿っぽく、
そして冷たくなっていく。
足元を見れば、あの次亜塩素酸の
白い結晶ではなく、
今度は『黒い万年筆のインク』のような
液体が、壁や床からじわりと
染み出し、巨大なシミを作っていた。
「大内さん、あれを見て……!」
園崎がライトで照らした先。
204号室のドアの前で、
床から染み出した黒いインクが
うねりながら立ち上がり、
一人の『男の形』を成していく。
それは、失踪した前施設長の姿だった。
だが、その顔の半分は、
無数の数字と、キクチサエの
ネームプレートの影に侵食され、
ドロドロに溶け落ちている。
『おお、うち、くん……。
遅い、よ……。もう、私の、
半分は……「キクチサエ」として、
登記、されちゃったんだから……』
前施設長だったモノが、
狂ったように笑いながら、
204号室のドアノブノブへと
その黒く濡れた手を伸ばした。




