再生
「手術は成功したそうよ。感染症の心配もないわ」
手術室前の廊下で、医師から経過説明を受けてきた住吉京子副理事が、僕と真嶋さんに言った。
「怪我のほうは……?」
真嶋さんが質問すると、彼女は顔を曇らせた。
「傷が眼球に達していたから、視力が回復するかどうかはわからないと」
「そんな……」
気力で立っていた僕の足が萎えた。
――セラを入院させるにあたり、真嶋さんは真っ先に住吉副理事に連絡を取った。
彼女はセラの保証人なのだという。セラの探していた息子が高橋和巳の父親、あの〈タクミ〉だったと知らされていた住吉副理事は、セラが僕に同行した経緯もすんなり納得してくれた。むろん彼女は高橋要の存在を知っているのだが、彼が今、どんな人物なのかまでは知らないらしい。そのため今回の真相については、セラが意識を回復して判断するまで打ち明けることを控えた。
ふらついた僕を真嶋さんが支えてくれた。
「和巳、もういい。あとは住吉さんにお任せしよう」
「そうよ。もう夜半過ぎよ。具合も悪そうだし、帰って休みなさい。不運な事故だったとは思うけど、あなたに責任はないのよ。元気になったらまたいらっしゃい」
「……わかりました」
複雑な思いで住吉副理事に返事を返しながら、僕は真嶋さんに伴われて病院を出た。
マンションに着き、隣り合う玄関先まで連れ立って戻ると、彼は僕に向き直った。
「住吉さんが、セラさんの入院に関わる手続きは心配ないと言ってくださったよ」
「はい。……ありがとうございました」
頭を下げた僕の両肩に真嶋さんの手がそっと置かれた。
「セラさんを優先したことを許しておくれ」
顔を上げると、切なそうな真嶋さんの目が僕を見つめていた。
「辛い目に遭ったんだろうに」
温かい手が僕の背中をなでた。
「いいえ……」
セラを優先したのは当然のことだ。そして彼は俊くんと拓巳くんを遠ざけてくれた。むろん、マスコミを警戒したためでもあるが、二人の顔を見るのが辛かった僕の心情を察してくれたのだ。
それがわかっていたから僕はもう一度頭を下げ、そして真嶋さんの手から離れた。
リビングには、まだ柔らかい明かりが点っていた。
二人の前ではけして取り乱すまい――そう言い聞かせてからドアを開けると、拓巳くんがソファーから立ち上がった。
「和巳……!」
彼は着替えてはいたが、僕の帰りをずっと待っていたようで、美貌にやつれを漂わせていた。
「ただいま、拓巳くん。セラさんの命に別状はないから安心して」
普通に振る舞おうとした僕を遮るように、拓巳くんは抱きしめてきた。
「………」
彼はしばらく黙ったまま肩に頭を伏せ、やがてポツリと言った。
「おまえまで……」
零史から何を聞かされたのかは確認するまでもない。けれどもあの男の思惑は僕たち、特に拓巳くんを傷つけることにあるのだ。プライドに賭けてそれにはまりたくはなかった。
「大丈夫だよ」
僕は両手で拓巳くんの顔を持ち上げた。
「僕は、あんな男には負けない」
「和巳……」
僕は拓巳くんをソファーに促して自分も横に座り、セラの容態を一通り説明してから質問した。
「俊くんは?」
「……おまえを待つといってきかなかったから、一服盛って眠らせた。朝には熱も下がっているだろう」
脇のローテーブルにはコーヒーカップが二つ置かれている。
「まさかコーヒーに入れたんじゃ……」
「誤魔化して飲ませたんだ。そこは目をつぶれ」
なるほど。俊くんもまさかコーヒーに睡眠薬が入っているとは思わなかっただろう。いいかどうかは別として、僕は配慮に感謝した。
「ありがとう、拓巳くん」
「和巳。そんな風に無理しないでくれ。俺が辛い」
顔を覗く拓巳くんに僕は笑いかけた。
「僕にはひとつ、希望が見えたから」
「希望?」
「拓巳くんはセラさんを見ても触れても、発作を起こさなかった」
「………」
「三人で一緒にいられる日が来るかもしれない。そう思ったんだ」
「それは……」
拓巳くんが顔を伏せた。確かにあれだけではまだわからない。でも。
「可能性がある、それだけでいいんだ。僕は嬉しかったよ」
だからお見舞いに行こうねと続けると、拓巳くんはしばらく僕の顔をじっと見つめ、やがて小さくため息を吐いたあとで薄い笑みを浮かべた。
「そうだな。そうできたらいいな」
その微笑みは、少しだけ悲しげにも見えた。
その夜はなかなか寝付けなかった。
脳裏に刻まれた屈辱の記憶に体が震え、ようやく眠りが訪れた頃には、すでにカーテンの向こうがうっすらと明らんできていた。
そして次に目が覚めたときは、まだ薄暗い部屋の中で、上着を着た俊くんが枕元に立っていた。
「俊くん! 熱は?」
「下がった。問題はない」
彼は驚く僕を引き起こして後ろを振り向いた。
「じゃ、拓巳。世話になったな」
見ると部屋の入り口には、拓巳くんが夜着姿のまま佇んでいた。
「ああ。頼んだぞ」
え?
さらに荷物とコートを持たされ、着替えもそこそこに急き立てられて、すでにマンション正面に横付けされていた俊くんの車に乗せられた。
まだ早朝の路上には走行する車もまばらで、鬼気迫る形相でアクセルを踏む俊くんは、いつもの半分足らずの時間で目黒のマンションに車を着けた。
荷物もろとも寝室に連れられ、コートや上着を剥がされてベッドに押し倒されたとき、ようやく僕は彼が何をしようとしているかに気がついた。
「ま、待って、俊くん」
「待たない」
彼はシャツのボタンに手をかけて次々と外し、はだけた僕の首筋に唇をつけた。
あの、赤黒く穿たれた痣のある個所だ。
思わず身をよじると噛みつくような感触がきた。
「俊くんっ、やめて!」
「動くな」
「お願いだから!」
「忘れさせてやる」
その粗っぽい仕業に昨夜の出来事が重なり、僕は震え立った。
「いやだっ!」
逃れようともがき、うつ伏せになってベッドの縁に腕を伸ばしたとき、ふいに首筋に熱いものが落ちた。
あ………。
ひとつ、またひとつ、ポタリポタリと落ちてくる熱い雫。
「忘れさせて、やるから……」
耳元に響く湿った声。それは僕の記憶のある限り、初めて知る俊くんの涙。小夜子さんを失ったときでさえ、人前では出さなかったという嘆きの声――。
「………」
僕は目を瞑り、腕の力を抜いた。
傷つけられた僕が、前と同じに彼を受け入れられるとは正直、とても思えない。けれどもこの気丈な人が落とす涙の前に、どうして拒むことができるだろうか。
抵抗をやめ、震えた体をその場で縮めると、首筋に落ちる感触が変わった。
「あ……」
指先が首筋の一ヶ所を押し、唇がそこに落とされる。すると背筋から足の先にまで電流ような痺れが駆け抜け、恐怖に強張った体に熱がほとばしった。
明らかにいつもとは違う反応――。
これは〈技〉だ……!
あの阿部眞矢を一発で黙らせ、拓巳くんを痙攣から解き放つ〈技〉に連なるものだ。
指先が動き、唇が触れるたびに全身を巡る痺れが変化していく。やがて大きく息を吐き、仰向いて腕を差し伸べると、彼はしがみつくようにして僕を覆った。
「和巳……!」
「……雅俊さん」
長い巻き毛を乱し、大きなアーモンド型の瞳に涙を溜めて見つめてくる姿に、僕は虚勢を捨て、心の底に凍ったままの悲しみを取り出した。
「ごめんなさい」
言った途端、涙が溢れた。
「僕は自分を守れなかった」
すると俊くんの涙が僕の目尻に落ちた。
「我慢しなくていい」
雫が一緒に伝っていく。
「おれに預けてくれ。辛いのも、悲しいのもみんな――」
身の内に凍った悲しみをさらけ出し、ズタズタに破られた心を差し出すと、彼はそれを抱きしめ、まるで自らを分けるようにして注いでいった。
踏みにじられた魂に、あの月の雫の如く、熱い涙が注がれていく。
腕の中のぬくもりが僕の中の花を根付かせ、導いていく。
やがて身体中を巡る熱とともに、僕の内側に次々と花は開いていった――。
肩にもたれた巻き毛の頭をなでながら僕は聞いた。
「北斗さんのこと、すぐにわかったの?」
俊くんの頭が僅かに揺れた。
「すぐ…とはいかなかった。すぐにわかっていれば……」
間に合ったかも知れないのに――。
言外の言葉が聞こえ、僕は宥めるように額に口づけた。
「それでも早かったよ。北斗さんは強い意志で望んだとあの人が言っていたから心配したんだ。薬を手に入れたって……」
「そこが唯一、北斗の失敗だったところだ」
俊くんは苦い笑みを浮かべた。
「あいつはまず、電話でセラのことを抗議してきたんだ。おれは自分が行くつもりだったから、了解を得るということをすっかり忘れていた。だから北斗のペースに巻き込まれてしまった」
北斗はそれを責め、一旦、電話を切ってから、今度は宥めてきたという。
「オーナーからなんとか許可を取りつけて彼女を通したところ、話が盛り上がってきたので大丈夫そうだと言われて、完全に信じてしまった」
俊くんが仕事中だと思っていた北斗は、僕たちがオーナーと食事をするかもしれないとほのめかしたという。
「迎えにいくからいつ合流できるかと聞くので、そこではじめて熱を出して寝ていることを教えたんだ。でもなんとなくおまえたちが心配で、薬を飲めば平気だから自分も行くと伝えた。そうしたら風邪薬ならいいのがある、と言うので北斗を待つことになったんだ」
そこで俊くんは顔をしかめた。
「おれも判断力が鈍っていたというか……うとうとしながら待っていたら電話がきて『今、どこにいるのか』と聞いてきた。あいつは目黒に行ったんだ。それで反町の拓巳のところにいることに気がついて。だから時間がどんどん過ぎてしまった」
この時点で七時半。
「三十分後に北斗が来て、おれは先に薬をもらおうとした。北斗は拓巳の家だというのが落ち着かないようで、おまえたちがもうレストランに向かったと言って、飲んだらすぐに出るよう急かした」
俊くんはクッと笑った。
「バカだよな。高橋要が手に入れるような危ない薬を、おれが知らないと思っていたんだ。いくら包装が昔と違ってても、中味が変わらないんじゃバレるってのに」
「そうなの?」
「あれは催淫剤の一種で、たちの悪い合成麻薬だ。あの男の薬物は楡坂征一郎がらみだから、特徴があるんだ」
俊くんは、拓巳くんを助ける過程で自身も関わったので、楡坂なる男の扱う薬をよく知っているのだという。
「渡された薬を見て気がついたとき、運よく拓巳が帰ってきた。熱で自信がなかったんで、拓巳に北斗を捕まえさせたんだ」
「北斗さんはすぐに真相を話したの?」
「最初抵抗はしたが、なにしろ薬を見せたあとの拓巳の剣幕が凄くて諦めたようだった」
過去、ひどい目に遭わされた楡坂の薬を見て逆上した拓巳くんは、怒れる阿修羅の如く北斗を絞め上げたという。
「おまえに使われることを予測したから、拓巳も容赦しなかったんだ。だから北斗は早いうちに観念した。あとは芳さんと祐司を呼んで、北斗に案内させたんだ。玄関は祐司が北斗を使って開けさせた」
インターホンで高橋が応じていたあのときだ。
「じゃあそれは、セラさんのお陰でもあるんだ。あの人が冷静にインターホンで対応していたら、不信に思われたかも知れないよ」
僕があのときセラが取った行動を話すと、俊くんはため息を漏らした。
「……彼女にはなんと言って詫びたらいいのか……おれが誘ったばっかりに」
「それを言うなら僕だって。僕があのとき、個展のことなんて持ち出さなければ」
僕たちはお互いの顔を見つめ、そして寄せあった。
「おれたちが今こうしていられるのは偶然が重なったからだ。二人で行っていたら、高橋要の計画はほぼ完璧だったはずだ」
それは僕にもわかっていた。金曜日は目黒に行く日だ。仕事でも入らない限り拓巳くんや真嶋さんとは連絡を取らない。
「警備会社から祐司のところに連絡が行くのは早くても土曜の夜。そうなったら、おまえはいったいどうなっていたか……」
俊くんは身震いすると僕を抱く腕に力を込めた。
「彼女の犠牲を無駄にしないためにも、まずはおまえが元気な姿を見せてやってくれ」
そのために拓巳はわざわざおれたちを目黒に追い立てたんだからな、と言うのでつい聞いてしまった。
「拓巳くんが?」
俊くんは僕の肩から体を少しだけ起こし、肘をついて僕の顔に手を添えた。
「今朝、おれはあいつの部屋で目が覚めたんだ。あいつも起きてたから一服盛られたことを抗議しようとしたら、『早く和巳を連れて目黒へ行ってくれ』って言うんだ」
「えっ?」
「自分じゃもう、和巳を慰めてやれないからって」
「………」
「セラのところに一緒に行ってやりたいけど、和巳が傷を癒してからでないとだめだから頼むと」
俊くんは少し複雑そうな表情を浮かべた。
「あれでも一応、親なんで、おまえの痩せ我慢を危険と判断したらしい。今回ばかりはおまえの最善を考えたんだろう」
俊くんは親指で僕の唇をなぞった。
「あいつとの付き合いは長いが、ここまで譲歩されたのは初めてだ。帰ったらさぞかしスネられるぞ」
――それはコワい。
俊くんは僕の肩に頭を落とし、体を預けてきた。
「だから今日のところは、堂々と自分を甘やかしてやれ……」
長い睫毛を従えた瞼が徐々に下がってきた。抱き寄せた背中をなでていると、やがて微睡みの中に落ちたようだった。
昨日から今日にかけての出来事を考えたら無理もない。なんとなくまだいつもより体温も高い気がする。上掛けをかけ直し、背中に手を添えていた僕も、いつしか深い眠りに引き込まれていった。
そうして土曜日の一日を穏やかに過ごし、日曜日は作曲にいそしむ彼の世話をするなど日常を取り戻してから、夕方にセラのもとへ赴くと、既に意識を回復し、ベッドを斜めに上げた彼女と会うことができた。
「大丈夫なのね和巳。よかった……」
俊くんに寄り添われた僕に何を見たのか、セラは無事なほうの左目を涙ぐませた。
太い点滴の針が刺さり、右目には大きなガーゼがあてがわれ、包帯が頭を斜めに横断する姿は痛々しく、僕も俊くんも顔を陰らせずにはいられなかった。
「今回のこと、本当に申し訳ありませんでした。とんだことに巻き込んでしまって会わせる顔がありません」
俊くんが沈痛な表情で頭を下げると、セラは微笑んで首を横に振った。
「それは違うわ、雅俊さん。あそこにいたのは私の家族だったかもしれない人たちよ」
私には必要だったのだわと続けられ、思わず僕は聞き返した。
「必要だった?」
「ええ」
セラはまだ動かしにくそうな頭をゆっくりと巡らせ、ひとつため息を吐いてから僕を手招きした。
「傷つけられて戻ってきたあなたを見たときの衝撃は、一生忘れられない」
近寄った僕の手を、セラは両手で包んだ。
「あのとき、私は真嶋さんの気持ちがようやくわかったの。あんな思いを何度も味わってずっと暮らしてきたなら、到底、要さんを許せないでしょうし、その原因である私を許せなくてあたりまえだわ」
「セラさん、そんな」
「いいえ、本当なの。私がしなければならないことが何なのか、それがよくわかったの」
「しなければならないこと……?」
僕の問いに、けれどもセラは微笑むだけて答えなかった。
その夜、自宅に戻った僕は、ソファーに寝転ぶ拓巳くんに感謝を伝えた。
俊くんの言ったとおり、拓巳くんは完全にスネていた。
「俺が親なのに」
こちらに背を向け、ソファーの奥に顔を伏せたままいじけている拓巳くんに僕は手を伸ばした。
「ごめんね。でもありがとう」
脇に腰かけ、髪をすくように頭をなでていると、ボソッと声がした。
「……元気になったのか?」
「うん。……忘れることはできないけど」
拓巳くんは少しこちらに顔を動かした。
「乗り越えて見せるよ。拓巳くんと俊くんがいるから」
僕が笑いかけると、彼はソファーから身を起こした。
「無理するな。おまえは自分に厳しすぎる」
「そうじゃないよ。僕は乗り越えたいんだ。あの人に負けたくないから」
あの人――高橋要。拓巳くんの父親、そして僕の祖父。
「これは拓巳くんを巡る、僕とあの人との戦いでもあるんだよ」
拓巳くんは目を見張った。
「僕は非力だから、ああやって力でこられたら叶わない。でも、打たれても踏まれても、壊れないものがあることを知らしめたいんだ」
「和巳……」
「僕は拓巳くんに愛されて育った。あの人が拓巳くんに与えなかったものを僕はもらった。それがどんなに凄いことなのかを知ってるから、負けたくない」
支え合うことで培われる強さ――それを、力でねじ伏せようとするあの人に突きつけ、これ以上の愚行をやめさせたい。
「こうして僕のことをよくわかってくれる親がいて、受け止めてくれる人もいて、周りにはたくさんの支え手もいる。だから負けないよ」
目に力を込めて言い切ると、拓巳くんは感慨深げな眼差しで僕を見つめた。
「おまえは……若砂の息子なんだな」
「え?」
「昔、若砂に同じことを言われた。『勝負の最中に手を出してはいけない』と」
「……そうなの?」
「ああ。あいつも負けないことにこだわった」
それは、僕にもわかる気がする。
「それでいて、普段は明るくて優しくて……おまえが強いのはあいつのお陰だな」
俺も見習わないとな、という拓巳くんに僕は首を横に振った。
「それだけじゃないよ。僕がこうあるのは間違いなく拓巳くんのお陰なんだから」
実年齢より世間慣れして苦労性なのも拓巳くんの影響だけどね、と付け足すと、彼は複雑そうな顔をして僕の耳たぶを引っ張った。




