檻の中の攻防
誰かが僕の体をまさぐっている。
やめろ。
服が剥ぎ取られていく。
やめてくれ。
朦朧とする意識の底で、動かない体を支配されるのを感じた。
「そうそう。おとなしくしなさい」
若い男の声が耳元でささやかれ、同時に灼熱が体の奥を貫いた。
――っ!
自分がバラバラにされていく錯覚に囚われる。
すべてが強引に踏み荒らされ、やがて僅かな意識も闇に呑まれていった――。
ふと気がつくと、薄暗い部屋の中、僕はベッドの上でうつ伏せになっていた。
オレンジ色のぼんやりとした光があたりを照らしている。
「う……」
体を動かそうとするとあちこちが軋んだ。手足には痺れがまとわりついている。それでも力を振り絞って体を起こすと、肩から上掛けが外れた。
……あ。
露になった自分は何も身に着けていなかった。
何が起こったのか、もう自分でもわかっていた。僕は、堕とされたのだ――。
「気がついたようだね」
ふいに横合いから声をかけられ、僕は軋む体を腕で支えながら頭を巡らせた。
「誰」
「私? さあ。誰だろうね」
慣れてきた目に映ったのは、素肌に薄いガウンを引っかけ、肘をついて横になる男の姿だった。薄暗い照明の中でもかなり整った顔立ちをしていることがわかる。クッと口角を上げて笑うさまに悪寒を覚え、僕は警戒しながら目を凝らした。
二十七、八歳くらいだろうか。僕と同じほどの背格好で、やや長めの黒髪が頭を取り巻いている。落ちかかる前髪の奥で黒光りする冷めた眼差しと目が合い、僕は思わず後退りした。
「失礼だな。可愛がってあげたのに」
「……っ」
そのテノールの声には、どこか揶揄するような響きが含まれていた。
「拓巳の息子だというから他の子を振り切ってきたんだよ。感謝してほしいね」
僕は震えそうな全身を叱咤して声を絞り出した。
「あなたは誰なんだ!」
すると男は身を起こし、ゆっくりとそばの壁に寄りかかった。
「私は要さんの部下だ。そして拓巳や雅俊の元仕事仲間さ」
「仕事仲間……?」
「ホスト、と言えばわかるかな」
「――!」
それは昔、拓巳くんが強要され、俊くんが一時所属したという違法ホストクラブのことだ。
「じゃあ、高橋要の――」
「呼び捨てにするんじゃない!」
端麗な細面が険しくなった。
「おまえごときが生意気な。仮にも孫だろう」
「違うっ」
反射的に言葉がほとばしった。
「こんな、こんなことを強いるような人が身内なんかであるものか…、…っ!」
男は一瞬で僕に襲いかかり、首を片手でつかんだ。
「威勢がいいな。ちょっと手加減しすぎたかな?」
「やめっ……」
もう片方の手が頭をつかみ、そのまま後ろに引き倒される。彼はベッドから体を起こすと震えだつ僕に蔑みを含んだ声をかけてきた。
「君が要さんのもとに来たら、私が君の上司になるんだ。二度と生意気な口をきくんじゃない」
そしてカーペットの床に下り立つと、サイドボードに手を伸ばして服を身につけながらこう言った。
「もうすぐ時間だ。身なりを整えたほうがいいんじゃないか? 連れの女性がびっくりするだろうからね」
それに返す力もなくベッドに突っ伏したままでいると、彼は「鍵は開けておくから自分で戻りなよ」と言いおき、ドアの向こうへと姿を消した。
やがてサイドボードのデジタル時計が午後九時を示し、僕はのろのろとベッドから起き上がった。
このくらいでへこたれるな。
腕が震えるのは薬が残っているせいだ。怖いからじゃない。
ぼんやりとした明かりの中で床に足をつけ、首を巡らして服を探す。
拓巳くんはもっとひどい目に遭った。
僕を支えるのはその事実。
俊くんはもっと辛い経験をしてきた。
僕を奮い立たせるのはその思い。
だから今は泣くんじゃない。
言い聞かせても、あとからあとから雫が目尻を伝う。
僕は手の甲で目尻をぬぐい、部屋の隅に放られていた衣類を拾い集めた。ネクタイが見当たらないが、そこまで探す気力がない。
洗面所に行くと、ホテルのようなユニットバスがあることに気がついた、僕はべとつく汗と涙を流すためにシャワーを浴びた。
内側にかかっていた鍵を開け、ふらつく足で室内に戻ると、僕を一目見たセラは絶句した。
「か、和巳……っ」
どうにかソファーにたどり着くと、すがりついたセラの瞳が僕の首の辺りに釘付けになった。
「………」
もとより何をされたかなど知られたくはない。けれども結んでいたはずのネクタイはなく、シャツの襟から覗いているだろう、わざと穿たれたような首筋の赤黒い痣、半乾きの髪、そして何より僕の表情を見て、想像がついてしまったようだ。その結果、セラはサングラスの奥から涙を溢れさせた。
「……なんて惨いことを」
座り込んだ僕を、隣に寄り添ったセラが抱きしめてきた。
「こんな……こんなこと……!」
僕もセラの背中に腕を回した。体の温もりが布地越しに移る。
「大丈夫。僕は大丈夫です」
なるべく声が震えないように努力した。
「拓巳くんや俊くん、そしてあなたが味わった試練に比べたら……」
「いいえ、こんなひどいこと――」
セラは上着のポケットからハンカチを取り出すと、サングラスの縁を押さえた。そこに後ろのドアが開く音がした。
「どうだ。考えが変わったのではないのか?」
ゆったりとした足取りでこちらに近づいてきたのは、むろん高橋要だった。
「身なりを整える余裕を残してやっただけ、まだ手控えさせたほうだ。だが次はこうはいかないぞ」
「あなたは……っ」
立ち上がろうとしたセラを僕は押さえつけた。
「だめだ、セ……先生は動かないで」
高橋が上着のポケットに手をやった。
「これがなんだかわかるか」
取り出されたそれを見た瞬間、僕の脳裏を絶望の二文字が掠めた。
「スタンガン――」
それは二年前、拓巳くんの忠告を容れずに単独行動をした結果、攫われそうになった僕を助けにきた俊くんが、大怪我を負わされた物と同じだった。
「君ならこの威力はわかるな」
高橋が近づき、ローテーブルに置かれたままの紙を指し示した。
「サインするか」
「………っ」
僕が答えられないでいると、彼は満足そうな笑みを浮かべて胸ポケットからペンを取った。
「さあ――」
そのとき、ふいに正面の壁から声がした。
「高橋オーナー」
この声は、さっきの。
見ると柱と壁の境目にインターホンが据え付けられている。
高橋要は僕たちを一瞥すると、インターホンのそばへと足早に移動した。
「零史、何事だ」
「北斗が来ています」
「北斗が?」
高橋が訝しげに聞き返したとき、突然、セラが身を乗り出してローテーブルに手を伸ばした。
「あっ」
彼女は養子縁組の用紙をつかむと、それを両手で破りはじめた。
「やめろ!」
声を上げた高橋はインターホンに叫んだ。
「零史! 任せるから開けてやれ」
そして立ち上がったセラに大股で近づいた。
「セラさん!」
僕がよろけながら立ち上がったとき、セラが自分のサングラスをつかんでカーペットに落とした。
「もうやめて! 要さん!」
高橋要のヘイゼルの目が驚愕に見開かれた。
「なっ…、世羅……⁉」
セラは落ちたサングラスをヒールで踏みつけ、大きい破片をサッと取り上げると高橋に叫んだ。
「来ないでください!」
セラの手に握られた破片は、自らの首の横――頸動脈に添えられていた。
「やめろ世羅! おまえはいつから」
「近寄らないで!」
セラの目から涙が落ちた。
「ここで傷ついてあなたが罪に問われるなら、私はためらいません」
「――っ」
高橋は動きを止めた。セラは僕を背中で庇うように立ち、少しずつ後退りしはじめた。
「なぜ、こんなことを」
セラの背中から悲しみが立ちのぼる。
「憎いのなら、どうして私にしてくださらなかったんです。地の果てまで探しだして、私に責めを負わせてくださればよかったのに。なぜ罪もない拓巳に負わせたのですか」
「勝手なことを言うなっ!」
高橋が吠えた。
「探したさ。探したに決まっている。それこそ思いつく限りな! おまえは巧妙に隠れたのだ」
セラが負けじと声を上げた。
「見つけてほしかった!」
「なんだと?」
「私は父に怪我を負わされ、二ヶ月間、病院で生死をさ迷っていたのです。見つけて、連れ戻して欲しかったのにっ!」
体の奥底から絞り出したような叫びに、高橋は一瞬棒立ちになった。直後、入り口でロックの外れる音がし、そして――。
「和巳!」
飛び込んできたのはコートを羽織った俊くんだった。その後ろには、北斗の襟首をつかむ祐さんの黒い姿も見える。
「北斗!」
「お粗末だな、高橋オーナー。犯罪計画は、予定がひとつでも狂ったら中止するのがセオリーだ」
部屋に踏み込んだ祐さんは北斗を床に放った。手を着いた北斗は悔しそうに立ち上がると、サッと体を返して出ていった。
すると背後からもドアの開く音が響いた。
振り向いた先に見えたのは、高橋に零史と呼ばれたあの男。そしてロングコートの上に髪を振り乱し、男に追いすがる拓巳くんの姿――。
「離せよっ」
「ふざけんな! このっ」
その姿に僕が目を奪われたとき、目の端に捉えていた高橋要が動いた。
「あっ!」
彼は一瞬でセラの腕をつかむと、僕にスタンガンを突き出した。
「――!」
横によけた拍子に体勢が崩れ、高橋要はセラをつかんだまま後ろのドアへと走った。
「要さん、離してっ」
「セラさん!」
床に膝と手ををついた僕の目に、すべてがスローモーションのように映った。
零史に体当たりした拓巳くんが、ドアの前に立ちはだかって高橋要の両腕をつかむ。セラから手を離した高橋がつかまれた腕を振ったとき、零史が後ろから拓巳くんを羽交い締めにした。片腕を離した拓巳くんに、高橋がスタンガンを向け――。
「拓巳っ!」
悲鳴を上げたセラがその間に割り込んだ。高橋の驚愕の顔と、セラの首にスタンガンが当たるのが同時だった。
「ああっっ!」
セラの体か跳ね、そして崩れ落ちた。
「セラッ!」
僕の背後から俊くんの声が響き、追いついた祐さんが高橋要の腕を捕らえた。するとうつ伏せに倒れたセラの髪の間から、赤黒い液体が滲み出してきた。
「セラ!」
しゃがんだ拓巳くんが彼女を抱き上げると、あの傷のあるほうの目から血が流れていた。
「セラさん!」
這い寄った先に、サングラスの破片を握る血まみれの右手が映り、僕は何が起こったかを理解した。
倒れたとき、不運にも破片を握った手の上に顔が落ちたのだ。
拓巳くんの腕に抱かれたセラは、か細い声を出した。
「拓巳は……無事なの……?」
「俺は大丈夫だ。しっかりしろ」
「よかっ……」
セラの頭ががくりと落ちた。
「セラ! しっかりしろセラ、――母さん!」
ほとばしるような拓巳くんの叫び。はじめて母と呼びかける言葉。けれどもそのときすでに、セラは気を失っていた。
「まずい!救急車だ」
高橋要を押さえた祐さんの声が耳に届き、僕は俊くんに助け起こされながら声を上げた。
「ここは携帯が使えません。外に出ないと!」
祐さんは高橋を見やり、彼がセラを凝視したまま動かないのを見て取ると、腕を離して踵を返した。
拓巳くんはそばに落ちていたハンカチに手を伸ばすと、血を流す目に押しあて、まるで流れ出る血を止めるかのように彼女の頭を自分の胸に押しつけた。傷ついた姿だからなのか、不思議とあの発作を起こす気配はない。そうして立ち尽くす高橋要を見上げ、目を怒らせて声を発した。
「失せろ」
高橋要は表情を険しくしながらも言葉を返さなかった。
「貴様にこの場にいる資格はない。失せろ!」
拓巳くんの後ろから別の声がかかった。
「失礼だな、親子して。ここはオーナーの持ち物だぞ」
あの男――零史の声だ。
すると拓巳くんは首を巡らして激しい声調子で言い返した。
「黙れ、零史。貴様も失せろ!」
零史はせせら笑った。
「息子が私の手に堕ちたのがそんなに悔しいか。いいざまだな」
………!
僕の顔から血の気が引き、拓巳くんの顔が紅潮した。
「このやろう……っ!」
「なんのことだ、拓巳」
俊くんがそこまで言ったとき、真嶋さんの声が室内に響いた。
「言い争いをしている場合じゃないだろう!」
彼はつかつかと部屋を突っ切ると、セラの血に濡れる拓巳くんに歩み寄った。
「祐司から経緯は聞いた」
彼は素早くセラの様子を見て取ると、矢継ぎ早に指示を出した。
「セラさんはそのまま動かさないように。雅俊、彼女の頭の下にクッションを置いて。僕はタオルを探してくる」
俊くんがソファーのクッションに手を伸ばし、僕は先ほど使ったタオルを思い出した。
「奥にありました。取ってきます」
気力を振り絞って立ち上がり、ドアのほうに向かうと、そばに立っていた零史がすれ違い様に口の端で笑った。
「さっき使ったやつだろう? 取ってきてあげようか」
「――結構です」
零史を見ないようにして奥の部屋を目指し、目的のタオルを手に取る。部屋に戻ってセラのそばにしゃがむ真嶋さんにそれを渡したとき、うしろから俊くんの強張った声がした。
「和巳……」
振り向いた僕の襟に俊くんの手がかかる。
「待っ……!」
まだ熱を持っている手が痣に触れる。思わず顔を背けると、地を這うような声が響いた。
「零史。おまえか……っ」
顔を戻した僕の目に、怒りと熱で紅潮した俊くんの横顔が映った。
見抜かれた――さっきのやり取りのせいだ。
「おまえが!」
零史が笑った。
「そうか雅俊。おまえが手をつけてたのか。どおりでね……これはわざわざ来た甲斐があったな」
「このっ!」
俊くんは零史につかみかかった。けれどもすぐ真嶋さんの手に引き戻された。
「やめなさい。今はセラさんのことが先だ!」
「芳さん!」
「もうすぐ救急車がくる。対応を決めないと」
真嶋さんは俊くんを引きずるようにしてソファーに押しやると、脇に立つ高橋要と対峙した。
「その人を連れてすぐにここから出てください」
「私が? なぜだ」
「傷ついたセラさんのために決まっているでしょう!」
真嶋さんは背筋を伸ばして高橋を見た。
「仮にも自分の子の親同士、そんな相手が孫を攫い、無体を強要し、自分も傷つけられる――その動機が息子をいたぶるため!」
真嶋さんは高橋の胸ぐらをつかんだ。
「あなたの恨みはすべて誤解だった。よく調べもせず、逃げたと思い込んだ自分を呪うがいい!」
「―――」
高橋の目が歪み、胸元をつかむ真嶋さんの手をもぎ離した。真嶋さん逆らわずに手を外して一歩下がった。
「和巳とセラさんは依頼主の許可を得て閉店中の店を下見し、転んだ拍子に不運にもサングラスが割れて目に怪我を負うのです。せめてそう繕わなければ、遥かイギリスから来た彼女が余りに哀れ」
「イギリス?」
目を見開いてセラを見下ろした高橋に、真嶋さんは怒りと憐憫の入り交じった眼差しで答えた。
「そうです。ロンドンで彼女は母親とともに、恐怖と暴力で支配する父親に三十年も拘束されていたそうですよ」
「あの父親に」
「さあ。その奥にある裏口からさっさと出ていってください」
真嶋さんは後ろに立つ零史を向いた。
「早くオーナーを連れていくがいい」
「……興ざめだ。行きましょう、要さん」
零史は端正な顔に苦々しい表情を浮かべ、高橋に歩み寄って促した。彼はなおもセラに目線を注いでいたが、やがて振り切るように踵を返すと奥のドアから出ていった。
「拓巳と雅俊も、救急車が来たらすぐにここを離れなさい。和巳。君は」
言われる前に僕は申し出た。
「僕はセラさんと一緒に行きます」
すがるような思いで見つめると、真嶋さんはひとつ頷いた。
「わかった。では救急車に同乗して病院へ」
拓巳くんが顔を上げ、俊くんが声を荒らげた。
「やめてくれ芳さん! 和巳は……っ」
「和巳はセラさんの同行者なんだ。状況説明の必要がある」
「ならおれも行く。おれにはこの事態への責任がある」
真嶋さんは首を横に振った。
「それは後日に。北斗は僕が外で捕まえて祐司に渡しておいた。すでに父親の晴彦氏にも連絡してある。雅俊、君はまだ熱があるんだよ。拓巳と帰りなさい」
「芳さんっ!」
俊くんがなおも食い下がろうとしたとき、救急車のサイレンが聞こえてきた――。




