妄念の罠
「ああ、ここです」
タクシーから降りた少し先、歩行者が行き交う道路脇の、似たような規模の建物が並ぶ中にその店はあった。
北斗から指示された住所の店――〈ノイエ・バルト〉と書かれた看板が夕闇の中に見える。塀と生け垣に挟まれた敷地内に人影はない。
「レストランというよりは、もう少し大人っぽい雰囲気ですね……」
外装は殆どがダークグレー、そこに黒いレンガを配して洒落た印象を醸し出している。
こんな高級そうなお店に、僕の絵でいいのかな……。
スーツに着替えてきたのは正解だったななどど考えていると、白いカシミヤのコートをまとったセラが、襟を合わせながら入り口を指し示した。
「雨が降りそうよ。時間がきているなら入りましょう」
携帯を見ると、ちょうど五時になるところだ。
「そうですね。北斗さんが先に入っているかも知れません」
セラの前に立ち、入り口の重厚そうな扉を開けると、人影がこちらを向いた。
「やあ、時間通りだね」
柔らかいオレンジの照明に照らされて立っていたのは、柏原北斗だった。紺のスーツに身を固めた彼は、相変わらずの幼顔に驚いたような表情を浮かべた。
「雅俊さんは一緒じゃないの? そちらの女性は?」
あれ? 俊くんはセラのことを伝えてなかったのかな?
北斗の様子から、なんとなく本当の理由を言ったらセラを拒否される気がしたので、僕はこう説明した。
「蒼雅先生は急遽来られなくなりまして、代わりにこちらの大学講師、オースティン先生に同行をお願いしました。今日はよろしくお願いします」
案の定、北斗は不機嫌な顔でたしなめてきた。
「困るね和巳君。勝手に部外者の方を連れてこられては。ここのオーナーは気難しい方なんだよ」
せっかくここまできてもらったのに、門前払いされたらセラに申し訳ない。
僕は知恵を絞って食い下がった。
「すみません。でも蒼雅先生の指示なんです。それに部外者ではありません。学園の顧問でもあります」
「顧問? 君の?」
「はい」
理事なのだから顧問のようなものだ。
〈タクミ〉の母と知れるのは、彼女の身辺のためにはあまりいいことではない。なるべくなら言わずに済ませたい。そんな僕の心情を読み取ったか、セラは少し微笑んだあとで、北斗に向かって頭を下げた。
「セラ・オースティンと申します」
彼女には、北斗との経緯をかいつまんで説明しておいたので、外見に惑わされることはないようだ。
顔を上げたセラを見て、北斗が眉を潜めた。
「そのサングラスは、何か理由でも?」
言外に無礼を指摘され、僕が補足した。
「こちらの先生は目が弱いので、裸眼はよくないのです」
「それでも教師をやっておられると」
「時々いらっしゃる講師の先生です。絵画に造詣が深いので、蒼雅先生が託されたんです」
北斗はしばらく考え込んでから僕たちを見た。
「ちょっとお待ちいただきますよ。オーナーに伺ってきます」
北斗は踵を返すとカウンターを通り過ぎ、その先で唐突に姿を消した。
「あれ……?」
そばに移動して覗くと、そこには地下一階へと続いているらしい、お洒落な螺旋階段があった。
僕はコートを脱ぎながら店内を見回した。
「見た目より広そうですね……」
まだ使用するテーブルなどは来てないようで、やはり黒とグレーで揃えてある店内はシンとしていて、何本もの洒落た照明が垂れ下がるだけだった。
隣に立ったセラも、脱いだコートを片手に持ちながらつぶやいた。
「ここは、ただのレストランじゃなさそうね……クラブも兼ねるのかしら」
だとすると、深海をイメージしたあの絵には、もっとシックな色調が求められるだろうか。
そんなことを喋りながら視察を続けていると、先ほどの階段から北斗の姿が上がってきた。
「オーナーの許可が出ました。一緒においでください」
僕はセラと顔を見合わせて微笑んだ。どうやら二度手間にならずに済みそうだ。
北斗の先導で僕たちは階段を下りた。暗い入り口の前で、重厚な作りの扉に手をかけながら北斗が言った。
「こちらのオーナーは、君のことを前から知ってるんだそうだよ」
「僕を?」
「だから今日はよもやま話を交えながら、じっくりと打ち合わせたいと希望されているんだ」
拓巳くんの関係の人なのかな?
「僕はここで遠慮させてもらうよ。遅くなるかもしれないから、雅俊さんには僕から連絡しておくね」
北斗は黒曜石の瞳に笑みを浮かべた。暗い廊下のせいか、それはどこか禍々しく見えた。
「いえ、北斗さん。連絡は僕が」
「さ、行って。オーナーがお待ちだよ」
北斗に背中を押されてセラと扉をくぐり抜け――。
「久しぶりだな和巳」
「―――!」
その声とともに、後ろの扉からカチャンと鍵のかかる音を聞いた。
――高橋……要っ!
振り向いた後ろに北斗の姿はない。
僕は即座にセラの手を取り、扉の取っ手をつかんだ。しかし鍵がかかっている。
「北斗さん! どういうことですか北斗さんっ!」
重そうな扉の取っ手をそれでも押しながら叫ぶと、後ろから声がかかった。
「無駄だ、和巳。彼は今日明日に賭けている。雅俊を得ることにな」
再び振り返った僕の前に、まるで一流ホテル、それもスイートのリビングのような内装の部屋と、その中央に置かれたソファーから立ち上がる姿が映った。
「………っ」
相変わらずなんという迫力なのか。
確か五十は過ぎているはずなのに、祐さんにも劣らない上背の体は引き締まり、微塵も衰えを感じさせない。豊かな黒髪を撫で付け、彫刻で削ったような容貌の中から鋭く光る眼差しを向けてくるのは二年前と同じだ。その特徴あるヘイゼルの双眸だけが、拓巳くんとこの男が血縁であることを示す唯一の共通点。
ダークブラウンの三つ揃いを着こなした姿が、裏社会に関わる人間の気配を漂わせている。僕は我知らずセラを背中に庇った。この男に彼女のことがバレたらどうなるのか、今ひとつ読めない。
「今日明日に賭けるって、なんのことです」
「気になるか? 雅俊のことが。あの息子――北斗が言うには、君が雅俊を惑わせているのだとか。あの複雑な内面を持つ雅俊の心を捕らえるとは、なかなか頼もしい」
高橋要は口の端で笑った。
「だからあの可愛い坊やは焦ったあげく、私に取引を申し出たというわけだ」
「取引?」
「私が君のことを調査して絵の注文をしたら、彼も私を調べてきて、君との関係を突き止めたのだよ。そして二日間、君を足止めしてほしいと持ちかけてきたのだ」
「そんなことをしたら犯罪だ」
「犯罪? 祖父が週末に孫と会うだけでか。多分、警察は動かないと思うが」
「……僕を足止めして、どうする気です」
「さあ、どうしようか?」
高橋要はクッと笑った。
「北斗は、私の友人が扱う薬を手に入れた」
僕の心臓が一瞬跳ねた。
「薬って……?」
「世の中には相手の心や体を意のままにするような薬物がある。北斗はどうやら手段を選ばないようだ。本当ならここでもてなしたかったんだろうが、まあ場所なんぞどうにでもなるか」
俊くんっ……!
「そして私に、君を雅俊の前に二度と立てなくしてほしいと言った」
高橋要は一歩ずつ足を運び始めた。
「だからこの際、私もこのチャンスを利用させてもらうことにしたのだ」
高橋はさらに一歩近づき、上着のポケットから半分に折り畳んだ紙を取り出した。
「ここから無事に出たければ、これにサインしたまえ」
差し出された紙に目を凝らすと、その黒い文字が飛び込んできた。
「養子縁組⁉」
それは〈祖父〉高橋要と〈孫〉高橋和巳の養子縁組を依頼する書類だった。
「何をバカなことを!」
「バカなものか。かつて真嶋芳弘は、似たような手段で私から拓巳を奪っていったのだよ。今度は私が返してもらう番だ。君ならさぞかし素晴らしいホストになれるだろう」
してみると、その後は僕を彼の店に立たせる気なのだ。かつての拓巳くんのように。
「こんなものに僕がサインをするとでも」
「強情を張ると、お連れの先生まで困ることになるだろう」
高橋がそう言った瞬間、僕のつかんでいるセラの腕が震えた。
「先生は関係ないでしょう。帰してください!」
「そうはいかない。この場に居合わせてしまったのが不運。君の決断が下るまではいてもらう」
高橋は硬質な眼差しで僕を見据えた。
「私は本気だ。あれから二年、準備もしてきた。素直に決断してくれることを祈る」
身を乗り出そうとするセラを、僕は後ろに回している腕で止めた。高橋要は体を返しながら告げた。
「まずは一時間やろう。よく考えたまえ。ちなみにこの地下の防御は完璧だから、連絡を取ろうとしても無駄だ」
そして彼は部屋の奥にある細いドアの向こうへと消え、カチッと鍵のかかる音が室内に響いた。
「――本当だ。電波は届いてないし、メールも送れない」
スマートフォンを操作する手を止めてセラを見ると、彼女も頷いた。
「私のも同じだわ」
セラはため息を吐くと白い色の携帯をバッグにしまった。
室内の壁際や入り口付近など、一通り通信を試してみたあと、中央に置かれたソファーに僕たちは座った。やがて僕は覚悟を決め、スマホをポケットに入れた。
「ごめんなさい、セラさん。僕は何があってもあの書類だけはサインできない。そんなことが起きたら拓巳くんがおかしくなってしまう」
あれは拓巳くんから僕を合法的に取り上げる手段だ。彼のもとから逃げた拓巳くんへの復讐なのだ。
「でも大丈夫です。もともと僕のスマートフォンは警備会社と契約してあります。僕からのメール連絡が二十四時間以上途絶えると、自動的に警備会社に通報されるんです」
それは祐さんに連絡され、彼のパソコンに連絡の途絶えた位置や時間が警備会社から表示される。二年前の事件のあと、僕の安全に神経をすり減らす拓巳くんのため、俊くんと祐さんで手続きをしたのだ。
相手が〈タクミ〉の血を分けた父親では、何をされてもマスコミに突っ込まれる。迂闊に警察沙汰にはできないための苦肉の策なのだった。
「どんなに遅くても、明日の夜までにはここに祐さんや契約のガードマンが来るはずです。だから気をしっかり持って時間を稼いでください。それに俊くんは幸い僕の自宅にいる。うまくすればすぐに気がついてくれます」
もし三人でここに来ていたら、目黒にいると思っている拓巳くんには日曜日近くまでわからない。僕たちの生活パターンを知る北斗の入れ知恵に違いなく、危ないところだったのだ。向こうは猶予が二日あると思っている――それが僕の強みだ。
「あと、サングラスは絶対外さないでくださいね。僕に考えがありますから、このまま先生の振りでいてください」
「私は何もしてあげられないの?」
「バレたら事態が悪くなる気がします。僕のためと思ってお願いします」
セラは悲しげに俯いた。
「あんな……殺伐とした雰囲気の方ではなかったのに……」
「そうなのですか?」
「ええ……それは、怒るととても恐ろしい気配になりましたけど、普段はもの静かな方でした……」
「………」
長い年月、心に憤りを宿しているうちに、あの男も歪んでしまったのかもしれない。そんな話をしているうちに時間は過ぎ、先ほどのドアから高橋要が戻ってきた。
「決心はついたか」
セラをソファーの奥に押しやり、僕は立ち上がった。
「僕の心はとっくに決まっている。あなたのいいなりにはなりません」
高橋要はソファーの手前で立ち止まった。
「ほう……勇ましいことだ。早く戻って雅俊に教えてやらなくていいのか? 危ない薬を飲まされてしまうぞ?」
揺さぶるような言葉に、僕はすぐ言い返した。
「そのために、あの書類にサインしたんじゃ雅俊さんは喜ばない。僕は雅俊さんなら、北斗さんが何をしようともちゃんと切り抜けられると信じます」
まさか俊くんが僕のマンションにいるとは北斗も予想できまい。彼が呼び出しに応じさえしなければいいのだ。問題は騙されて呼び出しに応じてしまった場合……それを思うと苦しい。けれど今、僕が優先すべきことは絶対にサインしないこと、そしてセラを守ることだ。
「たいした信頼ぶりだな。ではそちらの先生はどうなのだ。かわいそうに、君のせいでとんだ目に遭わされようとしている」
予想違わず高橋はそこも揺さぶってきた。けれども真嶋さんの教えのお陰で僕はそこにも自信があった。
「あなたは彼女に指一本触れることはできない」
「なんだと?」
「あなたは法律に詳しく、しかも犯罪者になるわけにはいかない。ここまで築いてきたものを失うことになるからだ」
僕は舐められまいと背筋を伸ばした。
「真嶋さんが懇意にする刑事部長にあなたは目をつけられている。公の職を持つ無関係の女性に、証拠が残るような罪を犯すことはできないんだ」
高橋要は硬質な面立ちに苦い表情を浮かべた。
「真嶋芳弘の薫陶か……小賢しいことだ」
彼は歩を進めると、僕の目の前に立った。
「私が手を汚すことを厭うと思うか」
見下ろしてくるヘイゼルの目に苛立ちが滲んでいる。僕は負けじとその顔を見上げた。
「思います。あなたにとって、犯罪者に名を連ねることは敗北を意味するはずです。僕への仕打ちは言い逃れができるかもしれませんが、先生には無理です。不在を騒がれる前に帰さざるを得ないでしょう」
「……なるほど。素晴らしい分析だ。かつての雅俊にも劣らない胆力……いいだろう。その女性は明日の夜までに責任を持って送ろう」
「今すぐにしてください」
「君流に言うなら、休日の大人が思わぬ足止めに遇ったところで、無事でさえあれば相手を罪に問うほど警察は暇ではないのだよ」
「………」
高橋要は僕の腕をつかんだ。
「来てもらおうか。別室に待たせている者がいる。快く私の養子になるよう、君を説得してくれるだろう」
「別室……」
それは誰のことなのか。あまりいい予感はしない。
「お待ちください」
セラがソファーから立ち上がった。
「私もお連れください。立ち会います」
「先生の心配には及ばない。ちょっと――」
そこで高橋は口元に笑みを浮かべた。
「込み入った話がしたいのだ」
彼女は気圧されながらも高橋を見上げた。
「せ、生徒を目の届かないところには置けません」
すると彼はサングラスをかけたセラの顔をじっと見つめ、やがて頷いて言った。
「では、来られるがいい」
ホッとした様子のセラが僕の手を握り、僕たちは高橋に促され、彼が来たドアのほうへと向かった。
ドアの奥へと足を踏み入れた途端、辺りがグッと暗くなった。
「そのまま進んで右にあるドアを開けなさい」
狭い通路の奥に見える、二枚のドアの片方を指示され、先頭の僕はノブをつかんで押した。
ここも……部屋?
廊下より僅かに明るいその空間に身を乗り出した途端、突然横合いから頭をつかまれ、何か軟らかいもので僕の鼻と口を塞がれた!
「――!」
避ける間もなく強烈な薬品の臭いが気管を襲い、瞬時に体から力が抜け、腕に抱えられたのがわかった。
「何なさるの!」
セラの悲鳴に高橋の声が重なった。
「やはり先生にはご遠慮いただこう」
最初からそのつもりだったんだ。
もがく音に混じって、再び高橋の喋る声が聞こえた。
「では頼む。まずは二時間だ。おまえに抜かりはなかろうが、くれぐれも壊さないようにな」
するとすぐそばから返事が返った。
「了解です、オーナー。楽しませてもらいますよ」
酷薄そうな声音を耳にしながら、僕の意識が闇に呑まれていった。




