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ソウルガーデン~宵に咲く花  作者: 木柚 智弥
打たれても、踏まれても
12/19

目黒へ


 次の日の夕方、俊くんに拓巳くんの様子を報告すると、彼は考え込むように唸った。

「芳さんがあれじゃ、すぐにはとても無理か……」

「それに拓巳くん自身は一見変わらないようなんだけど、そこも僕には不自然に思えて」

 セラが母親だという実感が湧かないから、考えずに済んでいるだけに思える。

「仕事のときは? 変な素振りはない?」

「今のところは。でもまだ油断はできないな。しかたがない。少し様子を見よう。週末はおれがお邪魔する」

 そう切り出されて嬉しかったけれど、少し戸惑いもした。

「ありがとう。いいの?」

「母親の出現じゃあな……今回は芳さんを頼れないし、拓巳がこの前おまえに言ったセリフのこともある。まあ、具合の怪しそうな親のために、一緒に里帰りするのも伴侶の勤めだ」

「僕、まだ目黒に行ってないよ」

「細かい順番は気にするな」

 俊くんは額に縦ジワを寄せながらも気遣ってくれた。


 その二日後の夜、拓巳くんが週末を辞退してきた。

「気にしないでいいから、目黒に行くと決めたなら行ってこい」

「どうして?」

「ほぼ一日中、仕事で一緒なんだぞ? 仏頂面で『週末はおれがおまえのところに行く』とか言われても、あとがコワいだろうが」

「でも、せっかく俊くんが言ってくれたのに」

「俺は、そんなに心配か?」

「だって……」

 ホテルから帰ってきたあの朝、うわごとのようなセリフを聞いて以来、僕の中には拓巳くんの奥底に対する不安が生まれていた。

 それを察しているのか、拓巳くんは困ったように苦笑した。

「おまえは学園の会議室に呼ばれた日に、雅俊の絵を見て何かを決めたんじゃないのか?」

「………」

 さすがに見通されていたらしい。

 届けられた〈宵月〉。僕の心を決めたあの感動。そのあとの騒動でうやむやになってしまったのだ。

 返事を返せずに俯くと、拓巳くんの手が僕の顎を持ち上げた。

「じゃあ、芳弘や優花と一緒に祐司のところへ行く」

「祐さんの?」

「祐司のそばにいればおまえも安心だろう? それに母親の陽子さんは芳弘には親代わりだ。芳弘にもいいと思う」

 祐さんは、そばにいるだけで拓巳くんの不安定な心を静めることができる。そして陽子さんといえば、かつて親権を巡る真嶋さんの戦いを手伝い、僕を育てる拓巳くんを支えた人だ。

「だから大丈夫だ。俺にこれ以上、とばっちりがくる前に行け」

「それなら僕も安心できるよ」

 ホッとして笑いかけると、拓巳くんはちょっと口を尖らせた。

「そんなにあからさまにホッとされるとナンだかな……俺は親に外泊される小学生じゃないんだぞ」

「……………」

 僕がコメントを差し控えると、顎に添えられていた拓巳くんの指先に頬をつねられた。


 翌日、Gプロで顔を合わせた俊くんに拓巳くんの申し出伝えると、彼は深刻な顔をした。

「うーん、ヤツが自分からそんなことを……ますますどっかおかしいかも」

 それはそれでヒドい気がしたが、ごもっともなので反論はできない。

「やっぱり今週は自宅にいたほうがいいかな」

「いや。祐司の家に行くのなら問題はないだろう。むしろおれたちといるよりいいかも知れない」

 俊くんはそこで声を潜めた。

「このままだと、なんだかずっと事故だ事件だで延び延びになりそうだ。せっかくだから甘えさせてもらおう」

 そうして金曜日の夕方、僕の目黒行きは予定より約一ヶ月遅れ、十一月の半ばにようやく実現したのだった。



「夜の眺めもすごいや……」

 広いリビングの窓越しに映る夜景に見入っていると、バスタオルで髪を拭いていた俊くんが隣に来た。

「あの辺りにあるビルがGプロだ」

「へえ。夜だとよくわからないなぁ」

「朝の景色もなかなかいいぞ」

「さっき見た夕方の眺めも綺麗だったよ。やっぱり十一階だと違うよね」

 僕は四階より上で暮らしたことはない。

 荷物を解き、足りないものを雑貨店で買い揃え、夕食を食べて後片付けをしたら、あっという間に時間が過ぎてしまった。

 ついに俊くんのプライベートエリアに足を踏み入れた僕は、襲い来る緊張をお喋りで誤魔化しながら、窓の下に広がる夜景を眺めていた。そんな僕の心などお見通しなのだろう。俊くんはふいに僕の手を取ると、リビングの中央に据えられた、白い革貼りのソファーに連れ、先に僕を座らせてから隣に腰かけた。

「……なに?」

 突然小さく吹き出した俊くんが、空いたほうの手で僕の肩を軽く寄せた。

「そんな青い顔をされちゃこっちの気が咎めちまう。せっかく温まってきたんだろうに、手が冷たいじゃないか」

 笑いながら僕の手を握る俊くんは、やはり自分のテリトリーだからなのだろう。他で見るどの姿とも違っている気がした。

「今日は疲れたろ? 明日はオフだ。今夜はゆっくり休むといい」

 僕ですら初めて見るような柔らかい表情が、華やかな美貌に落ち着いた色を添えている。

 そのとき、僕はなぜ彼が執拗に目黒(自宅)にこだわったのかをようやく理解した。

 普段、俊くんが外部と接するとき、〈マース〉が外向きの、〈蒼雅〉がプライベートの小倉雅俊と認識される。けれども、彼にとってそれは二つとも〈外〉の顔だったのだ。

 理由もわかる気がした。

 マースの音楽、蒼雅の絵画、それは彼にとってどちらも表現の場。すなわち戦場の姿だ。地獄の環境から抜け出すために、自らの才能だけを武器に戦い続けてきた彼にとって、芸術に生きる時間もまた勝負。僕が憩いの空間だと思っていたアトリエは、基本的には製作の場、それは彼にとって、芸術に浸れる時間ではあっても、安らぎを意味しているわけではなかったのだ。

 そこに僕を置き続けることは、二年前、師匠と弟子との関係から歩を進めたことによって、もはやそぐわなくなっていたに違いない。あの焦燥は、アトリエにあって、小倉蒼雅であろうとする意識と、小倉雅俊という一人の人間の、安らぎを求める心がせめぎ合った結果だったのだ。

 勇気を出して、もっと早くに来ればよかった。

 確かにこの空間で、俊くんが我慢することはないだろう。けれど今、僕を部屋へと案内する態度に性急な様子はなく、無理してまで求める気持ちもないのだとわかる。

 目黒と言い出したのも、それを待ち続けたのもすべては先を見越してのこと――。

 僕の全身を温かいものが巡った。


「ほら。ここのベッドはアトリエのより大きいから、ゆったり休めるぞ」

 たどり着いた部屋には、小さな明かりの中、俊くんのベッドに並んで僕のものが用意されていた。

「明かりはそのまま点けておいてくれよ」

 すぐに踵を返した俊くんの腕を、僕は片手でつかんだ。

「……待って」

「和巳?」

 探るような呼びかけに頷いた瞬間、彼が動いた。

「―――」

 組伏せられたベッドの上で目線を上げると、まだ湿り気を帯び、ウェーブ状に垂れ下がる髪を散らばせた俊くんが、狂おしいものを秘めた眼差しで僕を見ていた。

「本当に……?」

 両手が僕の顔を挟む。

「雅俊さん」

 僕は心を込めて呼びかけた。

「あなたの半分を、僕はもらってきた」

「………」

「残りのすべてを見せてください」

「和巳」

「ちゃんと受け止めたいんだ」

「ああ和巳――」

 顔を挟んだ手が片方、僕の唇を指先でなぞった。

「待ってた」

 その指先はやがて顎を捕らえた。

「長い長い間、ずっと――」

 そうして、俊くんは僕を腕に抱き、未知なる世界へと導いていった。


 それはやはり、僕の知る夜、僕が抱く女性、小倉蒼雅とは違った。

 受け止めてもらうことと、受け止めること――。

 この相対する二つを必要とする、それが僕の選んだ人。

 疼くような痛みと熱い感覚に支配されながら、僕の奥底にひとつの答えが芽吹いた。

〈蒼雅〉と〈マース〉、この二つを内包する〈小倉雅俊〉を受け入れたことを、けして後悔しない――。


      ◇◇◇     


 晩秋の落ち葉が風に舞う月末の日曜日、再びアトリエにセラを招き、約束どおりアルバムを見せた。

 僕を産んだ人が俊くんの幼馴染みで、同じISの人であったと聞かされたときはさすがに驚いていたが、僅かに残る過去の動画をパソコンで見たセラは、すぐに他の人との違いに気がついた。

「拓巳は、なかなか表情が動かないようなのに、若砂さんといるときだけは違うのね……」

 拓巳くんの無表情は、幼少期のネグレクトから来ているのだという。真島さんが出会った当時は、まるで人形のようだったそうだが、若砂さんを得たことで僅かに改善され、僕には笑顔も見せてくれる。が、基本的には動きが乏しく、僕以外の人では真嶋さんだけがそれを正確に読み取り、俊くんと祐さんが準じるのだ。もっとも、その他の人では見るのが精一杯で、読み取るどころではないが。

 セラは、特に真嶋さんと三人でいる映像を食い入るように見つめると涙ぐんだ。

「こんなに愛した人を失ってしまったのね」

「ええ。でも若砂は和巳を残してくれました。だから拓巳の心はこの世に留まりました」

 俊くんは別のアルバムを手にした。

「当時、十七歳のボーカリストだった拓巳は、自分で和巳を育てられる環境ではなかった。けれど彼は頑として譲らなかった。そうしなければ生きていけなかったから。それを実際に可能にしたのが真嶋芳弘の存在です。彼が自分の娘とともに拓巳と暮らし、すべてを背負ったから、拓巳は和巳と一緒にいることができたんです」

 アルバムをめくりながら説明する俊くんの言葉を、セラは噛みしめるように聞いていた。


 そうして年末に向かう忙しい日々の合間を縫い、僕たちはお互いに往き来して過ごした。学園のそば近くにあるセラの住むマンションに招かれ、手料理でもてなされた日の夜は、手土産にもらった料理を必ず拓巳くんの夜食に並べた。

「ああ、美味いな」

 日本人の母を持つセラの手料理は、長くイギリスにいたにも関わらず、横浜育ちの僕たちに馴染みのあるものが多く、普段から偏食気味な拓巳くんが残すことなく食べた。

 再び招かれたときにそれをセラに告げると、「次は母の得意なものを」と言って僕に持たせた。すると今度は拓巳くんが、沖田さんに指示して用意させたCDやら写真集を僕に届けさせた。

「雅俊さんは、クラシックを基礎に持っているのね。拓巳の音域を上手に使っていて、どれもみんな素敵な曲だわ」

 セラは声楽の講師らしい感想を述べ、写真集を見ては愛しそうに指で顔をなぞっていた。

 どんなにか、会いたいだろうに……。

 けれどもセラはけしてそれを口にすることはなかった。時々、僕の中に重なる拓巳くんの気配を抱き取っているような姿に、僕のほうが段々たまらなくなってきた。


「大丈夫か和巳。おまえのほうがよっぽど思い詰めてるな」

 学校の昼休み、日当たりのいい廊下の窓際から、すっかり葉の取れた中庭の木の枝を見ていると、横合いから優花を伴った健吾が声をかけてきた。

 ミス・オースティンが拓巳くんの母であることはまだ秘密事項だ。けれども健吾と優花には詳しく説明した。真嶋さんの様子を聞かせてもらう必要があったからだ。

「真嶋さんは、まだ……?」

 優花は黙って頷いた。

 少し前に優花もセラと顔合わせを済ませ、この頃には彼女が学校に来ると、僕たちは三人でよく会いに行っていた。

「なんとかならないのかな……」

 つい愚痴をこぼすと、健吾が優花に聞いた。

「真嶋さんはこの状況をどう思ってんだ?」

 優花は首を横に振った。

「セラさんにはお気の毒なんだけど、とても娘ごときに口を出せる雰囲気じゃないの」

「そうなのか?」

「うん。お父さんも頭じゃ理解してるんだと思う。セラさんの事情がわかった以上、拓巳くんがちゃんと会えるように協力してやらなきゃいけないって。でも――」

 優花が悲しげに俯いた。

「この前、お父さんが部屋にこもったときにこっそり覗いてみたの。そうしたら、机に両肘をついて顔を覆っててね……」

「真嶋さんが」

 思わず目を見張ると優花は顔を上げた。

「背中が震えてた。机の上には、写真が何枚かあったわ。多分、昔のなんじゃないかと思う」

「………」

「会うのなら、自分の感情を呑み込まないといけないでしょう? 少なくとも、冷静に話ができるくらいにはならないといけないわ」

 健吾が大きく頷いた。

「そりゃそうだ。拓巳さんは自分が保てるかわからないんだから、真嶋さんが対処できなきゃ困る」

「なのにそれができそうにない。いっそ自分抜きで会わせたいけど、それじゃ体調が心配だし、拓巳くんもうんとは言わない」

「そうだね。真嶋さんの整理がつかないうちは、拓巳くんは会わないよ」

 僕の言葉に優花も頷いた。

「だから葛藤してるのよ」

「そうか……」

 健吾がため息をついた。

「でも、幸いセラさんはずっとここにいるわ。時間だけはあるんだから、焦ってしこりを残すことになるより、誰もが笑えるようにしたほうがいいと思う。お父さんだって、なんとかしたいと思ってることは間違いないんだから」

 今は時間がかかろうとも、いつか来る日のために――僕たちの誰もが、その日の来ることを願ってやまなかった。


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