閉ざされた扉
俊くんを見ると、彼もこちらを向いていた。黒目勝ちの眼差しに苦悩が滲んでいる。なまじ想像外の過酷な人生を聞いてしまったので、この優しげな、けれども小さな箱を心の支えにして生きてきた人に、どう切り出したものか悩んでいるに違いない。
「あの……もしかして、何かよくないことに」
ハッと顔を曇らせたセラに、俊くんはひとつ深呼吸すると、覚悟を決めたように口を開いた。
「セラ。あなたが拓巳の母であることは間違いないと、私と和巳は理解しました。和巳のためには大変喜ばしく、そのパートナーとして私も歓迎します。ですからあなたには、今の拓巳の現状を包み隠さずにお伝えしたい。しかしそれはあなたにとって大変ショックかもしれません。聞く勇気がありますか?」
セラは青ざめた顔で、それでも頷いた。
「どうかお話しください。お願いします」
「今はまだ、あなたを拓巳には会わせられません」
「……なぜでしょうか」
「彼を救い出して育てた元後見人が、それを許可できないからです」
「救って育てた……?」
「拓巳は施設にいたのではありません。あなたの父親は、助産師の口を封じて高橋要を偽った。しかし同時にあなたも偽ったのです。高橋要は拓巳を捨てなかった」
「えっ」
「ですが、ある意味では捨てた。それは親であること。あなたに拒絶されたと感じた高橋要は、その恨みをあなたに瓜二つだった拓巳にぶつけたのです」
「……!」
「最初は育児放棄で。後々には性的虐待で」
「えっ……!」
「あなたとそっくりな美貌を恨めと吹き込みながら、週末ごとに自分の店の得意客に差し出し、まだたった十一歳だった彼を薬で封じて奉仕させたのです」
「あの人がそんな……!」
「私も何度もその場に居合わせました」
「あなたが……?」
「ええ。私も義理の祖父に売られていましたから。私たちはそうやって男に買われ、連れ込まれたホテルで会ったんです」
「……!」
そうして俊くんは語った。心が壊れていく拓巳くんを、その父親の店で働く、同じ学校の先輩に頼まれたこと。やがて彼にボーカルの才能を見いだし、恋人である小夜子さんと鍛えて、ともに自立を目指したこと。同じく高橋から救おうと手を尽くしていた真嶋さんとの出会い。小夜子さんの死。それを機に高橋の店に入って拓巳くんを助けながら、真嶋さんから紹介された祐さんと三人でバンドを立ち上げたこと。自立まであと少しというところで起こった、高橋要と楡坂征一郎による監禁暴行事件。そして拓巳くんの親権奪取を賭けた真嶋さんの闘い――。
次々に語られる衝撃的な内容に、セラはハンカチを握る手で口を塞いだ。特に楡坂による暴行の下りでは、顔を覆ったきりしばらく上げることも叶わなかった。
「この真嶋芳弘という人物がいなければ、拓巳の今はあり得ません」
セラの肩が震えた。
「拓巳の後見人をなさった方ですね?」
「そうです。実の親が持つ親権は、日本ではかなり強い。実刑を受けた犯罪者でもない限り、剥奪するのは困難です。しかも高橋要は法律をギリギリでかわすことに長けていた。真嶋は一年もの間粘り強く戦った末に、ついに高橋要を追い詰めた。結果、高橋は暴行事件に荷担し、それが結局、親権放棄の実現につながったのです」
息をのむセラに、俊くんは少し顔を曇らせた。
「けれども代償も大きかった。薬物と暴行の日々で精神を冒された拓巳には、フラッシュバックが残りました。彼が唯一、幸せでいられたのは、真嶋芳弘を陥れた楡坂が、拓巳へ二度目の暴行に及んだとき、身をなげうって防いだ彼の伴侶、若砂と暮らした僅か一年の間だけ」
セラはハンカチから顔を上げた。
「もしかして、それが和巳さんのお母さまですか」
「はい。しかし、若砂は和巳を産んでから半年で病に倒れました。そのショックも重なり、彼の精神は大変脆くなりました。拓巳の心は真嶋芳弘と、若砂の残した和巳の存在で辛うじて支えられてきたのです」
そこで俊くんは表情を改めた。
「そして、そのことをよく知っている高橋要は、つい二年前にも和巳を攫おうと狙ってきました」
セラの目が見開かれた。
「あの人が」
「真嶋芳弘を苦しめ、拓巳を揺さぶるためです。ある意味、高橋要もすでに狂気に囚われているのかも知れません」
「……そんな」
「いずれにしても、拓巳を巡る戦いはまだ続いている。その根源となったあなたに対し、拓巳は一目見ただけでフラッシュバックを起こした。それが先日の真相です」
「あ……」
「二度倒れたということは、拓巳も最初は何が起きたのかわからなかったのでしょう。しかし、脳が勝手に判断し、体が否応なく反応したのです」
「………」
「楡坂がらみで何度も病院送りにされたため、拓巳はそこにもラウマがある。フラッシュバックに襲われたら病院には行かれません。ですから、そのときは真嶋と私でずっと対処してきました。拓巳にとって、真嶋芳弘こそが唯一安心して自分を委ねられる親、心の拠り所です。その彼が、拓巳とあなたを会わせることに難色を示しています」
それは事実上、拓巳くんとの対面が当面は叶わないことを意味していた。
俊くんの言葉から正確にそれを読み取った彼女は、一瞬、宙に視線を投げ、そしてうなだれた。
「拓巳の精神状態が安定するまでは控えていただきたい、との伝言を真嶋から受けています」
それを聞いた途端、セラの瞳から大粒の涙がこぼれた。ハンカチでぬぐうあとからそれは止めどもなく溢れ、片手に握る箱を胸に抱いたまま彼女は涙を流し続けた。それは彼女が、自らが置かれた環境を耐える中で、日本のどこかにいるはずの我が子と会える日を、どれほど支えにしてきたかが伝わる姿だった。
長かった年月の願いがついに叶う――その彼女の目の前に今、とてつもなく厚く強固な壁が立ちはだかったのだ。この壁を作った原因とまで言われ、どんなに傷ついただろうか……。
俯いたままの僕の目に、そっと触れるものがあった。肩に手が添えられ、目の縁を冷たいハンカチでぬぐわれる。いつの間にか、泣き腫らしたセラが目の前にしゃがんでいた。
「ありがとう、和巳。私が拓巳に会えないことを悲しんでくれるのね」
彼女は拓巳くんによく似た、けれども印象の違う美しい顔を少しだけほころばせた。
「あなたを、抱きしめてもいいかしら……?」
頷いて両手を差し伸べると、彼女は立ち膝になって僕の体を抱きしめた。お互いの肩に頭を預け、背中に手のひらの温かみを感じていると、隣から俊くんの声がした。
「またお招きしよう、和巳。ここにも、目黒にも」
僕は熱くなった目頭を、彼女の肩に押し付けるようにして頷いた。
「一緒に写真を取りましょう、セラさん」
「写真を……?」
「それを見せて、拓巳くんを訓練します。大丈夫。今までだってたくさん乗り越えてきました。必ず会えます」
彼女も伏せたまま頷いた。
「今度、アルバムをお見せします。昔の話もしてあげます。僕も、俊くんも。祐さんにだって会えます」
「メンバーのもう一人の方……?」
「はい。みんな、拓巳くんを支えてきた人たちです。色々な拓巳くんを知っています。みんなから話を聞き終わる頃には、きっと本人とも会えるようになって……っ」
言葉に詰まると、彼女は頷いた。
「そうね。きっとそうね。大丈夫よ。いつまでも待つわ。すぐそばにいるのですもの」
「必ず、会えますから……」
それが一体いつになるのかは見当もつかない。でも、たとえ光の量は僅かでも、希望の明かりが点っているのだと、この苦難を受けてきた女性に示してあげたかった。
次の日の夜、真嶋さんを家に招き、セラから聞いた話を伝えた。
「彼女にも、彼女の大きな苦難があったんだ。できればそれを考慮して、あまり待たせないでやってくれ」
ダイニングテーブルの席で、僕の隣に座った俊くんが話を締めくくると、向かい側の拓巳くんはけぶるような眼差しで頷いた。けれども隣の真嶋さんは頷かなかった。
「芳弘?」
拓巳くんが横から顔を覗き込むと、強張った目線を手元に向けたまま彼は口を開いた。
「拓巳が生まれてから三十三年。三十三年もあったんだ。いくらでも手段はあったはずだ」
「芳さん」
真嶋さんが顔を上げた。
「そうだろう? 大学まで通って、しかも勤めることまでできたんだ。電話だって手紙だってある。吉住京子さんに連絡を取って、探してもらうことだってできたじゃないか」
「それは、わからないことだ。彼女は日本にはたった三年しかいなかったんだ。その当時の高校生の知識で、しかもその半分は知らない土地に監禁されていた。頼むにしても手がかりが無さすぎるし、高橋要のもとにはいないと思っていたんだし……」
「ちゃんと確かめればよかったじゃないか! 友人に、それくらいは頼めるだろう?」
「芳さん」
「そもそも一年間監禁されたときに逃げ出せばよかったんだ。高橋だって四六時中いたはずもなし。それができなかったなら、いっそ高橋要にすべてを捧げて、逃げ出したなんて思われないように態度をはっきりしていてくれれば!」
「芳弘……」
拓巳くんの手が、真嶋さんの腕をそっとつかんだ。
「中途半端すぎる。何もかも! 彼女の態度ひとつで、拓巳の人生は百八十度違ったはずだ」
顔を覆った真嶋さんを、立ち上がった拓巳くんが懐に包んだ。拓巳くんに抱かれてもなお、真嶋さんの慟哭は続いた。
「拓巳が言わないなら僕が言ってやる。あなたの態度がどっちつかずだったせいで、今までどれだけの目に遭わされてきたことかと!」
「芳弘」
「君を虐げる高橋を見るたびに、何度思っただろう……母親が逃げたりしなければと」
「芳さん、それはだから父親が……」
「わかってる。逃げたんじゃない。でも高橋要だって馬鹿じゃないんだ。その強権的な父親からわざわざ攫ってきたんだから、彼女がいなくなったなら、まずは父親が来たことを疑う。子どもを置いていったなら尚更おかしいと思うのが普通だ。それを『逃げられた』と受け止めたのは、彼女がそれまで取ってきた態度のせいだろう?」
「………」
俊くんが言葉に詰まった。確かに、それを言われてしまえばどうしようもない。セラ自身が『恐怖に身がすくんで、否定するばかりだった』と認めているのだから。
「彼女が父親のいいなりになって大学に勤め、自分と母親の身を守っていたときに、僅か十二歳の拓巳は誰からも守られずに、父親から虐待され続けていたんだよ。身内じゃない僕には手も足も出せなくて、一年もかかったばっかりに拓巳は……!」
絞り出すような真嶋さんの声が室内にこだまし、僕は言葉もなく、拓巳くんの腕に抱かれたその姿を見つめた。
この穏やかな、いつも優しく慈愛に溢れた人が、事情を説明してもなお、こうまで頑なに拒絶するのだ。彼が、まだ二十歳そこそこの若さで拓巳くんを見つけて以来、どれだけの悲しい記憶を胸に刻んできたかがわかる姿だった。
「わかった。この件は当分保留にしよう。それは向こうにも伝えてはある。芳さんと拓巳が心の整理をつけ、納得してからがいいだろう」
俊くんが提案すると、拓巳くんがこちらに顔を向けた。
「あの人は、承知してるのか?」
「ああ。おまえの現状を説明したら、とても悲しんでな。すぐには無理だと伝えたら、いつまでも待つと言ってくれたよ。彼女はわきまえているんだ。どんな理由があろうとも、自分が育てられなかった以上、そこに口を出す権利はないってことを」
「そうか……」
「ただ、おれは約三十年間、おまえから切り取った爪と髪だけを心の支えにして耐えてきた人に、これ以上の苦痛を与えるのはどうかとも思う」
「………」
「人は誰だって間違うし、弱い。おれは、おまえのことを施設に捨てられたのだと思い込んだ彼女が、暴力的な父親のもとで、まずは自分や母親の身を守ろうとしたことを責めることはしたくない」
「……ああ」
「おまえは知ってるだろう? おれを最初に小倉家の当主に売ったのが誰なのか」
拓巳くんは一瞬、躊躇したあとで答えた。
「――母親だったな」
思わず顔を上げると、俊くんが頷いていた。
「だから、他の誰に言えなくてもおれだけは言わせてもらう。十八歳の若さでおまえを産んだ母親は、三十三年もの間、ちゃんと〈母〉の心を持って生きていた。これもまた奇跡だ」
「―――」
「『命は呆気なく失われる。それをおれたちは学んだはずだ』。そうだったよな、芳さん」
真嶋さんが顔を覆う手を外した。
「この奇跡をできれば生かしてやってほしいと思う。過ぎた時間は戻らないんだ。この上、後悔するようなことは勧めない」
「雅俊……」
俊くんは立ち上がると、背もたれにかけてあったコートを手に取った。
「和巳はセラの孫だ。おれと和巳はこれからも彼女と会う。それは認めてくれるな?」
真嶋さんは少ししてから頷いた。
「おれに言えるのはそれだけだ。いい判断をしてくれ」
俊くんはそれだけ付け加えると、「じゃあ、また明日」と僕の肩を叩き、リビングを抜けて出ていった。
僕がテーブルの上を片付けていると、真嶋さんを玄関先まで送ってきた拓巳くんが、ソファーに向かいながら聞いてきた。
「どんな、人だったんだ?」
僕は片付けをやめ、ソファーに寝転んだ拓巳くんの腰のあたりに座った。
「いい人だったよ。優しくて、きれいで……とても五十代には見えないよ。若く見えるのは遺伝なのかな?」
長く散らばるサラサラの髪を指先で梳かしながら、明るい口調で言うと、目を半眼に閉じた拓巳くんも少しだけ笑った。僕は思い切って聞いてみた。
「拓巳くんは、会いたくない……?」
彼は閉じた目を半眼に開き、髪をすく僕の手の中で頭を僅かに揺らした。
「俺はまだ、自分があの人をどう思っているのかよくわからないんだ。なまじ知らずに言葉を交わしたせいか、あまりに想像と違いすぎて実感がない……むしろなんの感情も湧いてこない」
それは、心の奥底に横たわる恨みのために、母親と認めることを無意識のうちに避けているのではないのだろうか。
「自分でも不思議なんだ。たとえば今、要に直接会ってもフラッシュバックなんて起こさない。楡坂本人と対峙したときもそうだった。俺のそれは、その頃に味わった恐怖や痛みを連想して発動するらしい。母親の顔なんて記憶にはないはずのに、どうして反応したんだかな……」
それだけ魂の深い場所に、恐怖として植え付けられたということなのだろうか。
「あのときみたいにお互いサングラスをかければ、フラッシュバックは防げるんじゃないかとも思うし。だから、こんな状態でもいいなら俺は会っても構わない。ただ、それは芳弘の同意がなければ無理だ」
「………」
「雅俊の言葉は俺も胸に残った。だから会いたくないなんて思わない。でも芳弘を傷つけてまで会う気にはなれない」
「……そうだね」
「大丈夫だ。雅俊の言葉は芳弘にも十分届いたはずだ」
その言葉で、僕は先ほどのやり取りを思い出した。
「俊くんのさっきの話って本当なの? お母さんが……」
「売ったってやつか? そうだ。小倉家の身代に目が眩んでな。あいつと引き換えに当主の跡取り息子の嫁になった」
「じゃあ、昔、お母さんの立場を保証する代わりに売られたっていうのは……」
「最初から母親に仕組まれていたのさ。雅俊は騙されたんだ」
「そんな、ひどい」
「そうだな。だが、それをおまえと同じように感じて庇い、愛情を傾けてくれた人がいたから、あいつは耐えられたんだ」
「それが小夜子さん……?」
「そう。だから雅俊にとって、小夜子さんの存在は大きかった」
「………」
「『命は呆気なく失われる』。あれは小夜子さんを喪ったあとで、好きな人に会いに行くのをためらっていた芳弘に、雅俊が言った言葉なんだそうだ」
「好きな人に……?」
「芳弘には当時付き合っていた人がいた。雅俊はせめて二人は一緒になるようにと励ましたんだ。でも結局、それは実らなかった」
拓巳くんの眉根が歪んだ。
「その人は仕事の関係で、あの楡坂から援助を受けていたんだ。俺は夜の店で、彼女が楡坂といるのを何度か見かけていた。そのせいで、暴行事件のあと、彼女を見てフラッシュバックを起こすようになってしまった。だから、彼女はそのことに苦悩する芳弘から身を引いたんだ」
「そんなことが……」
「俺には芳弘の払った犠牲を無視できない」
彼は仰向けのまま目線を遠くに投げた。
「芳弘が俺を引き取るために、どれほどのものを捨てたのか、どれだけの愛情を俺たちにくれたのかわかっているから……」
目を閉じる拓巳くんに、僕はもう何も言えなかった。




