第55話◇思い出の絵の中
「まぁまぁ、あの絵をご覧になりに?」
慎ましやかな木造家屋を訪ねると、穏やかな老婆が迎えてくれた。
健全に歳を重ねた者が放つ気品のようなものを纏うその女性は、名をメラードといった。
「はい。私は珍しい品を探して旅をしているのですが、とある町で噂を聞きまして」
「そうなのね。以前、訪ねてきたどなたかから聞いたのかしら。どうぞ入って」
「失礼します」
家の中は整頓されていて、窓から暖かな陽射しが差し込んでいた。
「ふふ、綺麗なメイドさんをお連れなのね」
「いやぁ、可愛すぎるメイドだなんて、そんな」
シュノンが照れている。
「そちらのかたは? とても引き締まった体をしてらっしゃるし、護衛の方かしら」
「はい」
マーナルムが言葉少なに頷く。
「お茶を淹れましょうか? それとも、早速絵を?」
「では、よろしければ絵を」
「よほど楽しみにしていたのね。もちろんお見せするのは構わないのだけれど、あの絵を売ることはできないの」
メラードが申し訳なさそうに言う。
「承知しました」
案内されたのは、寝室のようだった。
「人様に寝室を見られるのは恥ずかしいのだけどね、ただ、移動させるのも嫌でねぇ」
照れたように笑う老婦人。
朝起きた時と夜寝る前、絵を眺めるのが好きなのだという。
場の空気が和むが、俺はそれよりも絵に意識を引き寄せられていた。
イーゼルに架けられたその絵は、風景画だった。
湖のほとりを描いた、穏やかな雰囲気の絵。
「昔、一度だけ夫と旅行に行ったのだけど、その時の湖がとても綺麗でねぇ。私があまりに言うものだから、あの人が描いてくれたの」
旅行というのは、とにかく金がかかる。仕事を休むわけだからその間は無給になるし、庶民には敷居が高い。
夫婦の旅行も、何かの記念に奮発したものなのだろう。
「優しい旦那さんですねぇ」
シュノンが嬉しそうに言う。他人のことでも我が事のように喜べるのは、シュノンのいいところだ。
先ほどのプロポーズ騒ぎでは、祝福よりも驚きがきてしまったようだが、それは俺の所為。
「ふふ、ありがとう」
メラードにとって、特別なのはこの絵の方だろう。
だが正確には、魔法具は描かれた絵ではなく、キャンパスのようだ。
――『旅情のキャンバス』。
――記憶の中の風景を描くと、その中に入れる。
――描き手にとって大切な思い出であるほど、絵の中の世界は鮮明になる。
――このキャンバスは木枠から外れず、また劣化してしない。
――雨に一時間晒すことで、絵が消える。
――希少度『A-』
「この絵の中に、その、入れるのですか?」
マーナルムが尋ねると、メラードは微笑んだ。
「信じられないわよねぇ。私も、初めて入った時は夢かと思ったもの」
「旦那さんから、絵のことは聞かなかったんですか?」
シュノンが不思議そうに言う。
「そうなの。あの人も知らなかったのかもしれないわねぇ」
彼女の夫がいかなる手段でこれを手に入れたのかは分からないが、俺は知っていたのではないかと思う。
ただの勘なので口にはしないが。
「メラードさん、入ってみてもよいですか?」
「えぇ、もちろん。扉をくぐるように、まっすぐ進むだけで入れるから、どうぞ」
「……主殿、ここは私が」
俺が一歩踏み出す前に、マーナルムが主張する。
メラードを疑っているのではなく、得体のしれないものの中に俺を先に入れたくないのだろう。
「わかった。頼むよ」
「ハッ」
マーナルムが一歩ずつ絵に近づいていく。
このままイーゼルに激突してしまうと思った刹那、彼女の姿が絵に吸い込まれるようにして消えてしまった。
「わっ、マナちゃんが消えてしまいました!」
「見ろ、シュノン。マーナルムは消えていない」
絵に変化が生じている。
風景だけだったキャンバスに、白銀の長髪をした美女が描かれていた。
しかもその美女は、動いている。
しばらくすると、絵の中からマーナルムが出てきた。
「どうだった?」
「その……直接ご覧になっていただくのがよろしいかと」
マーナルムは中で見た景色を上手く表現できないようだ。
「それではメラードさん、失礼します」
「えぇ、楽しんで」
「シュノンも行きますよー!」
「私はここで待っています」
絵の外に仲間が一人は残っていた方がよいだろう。
俺とシュノンは頷き、絵に近づいていく。
特別、絵の中に入る感覚のようなものはなかった。
ただ歩いていただけなのに、急に景色が切り替わったような。
気づけば、俺たちは絵の中にいた。
「……す、すごいですねぇ」
シュノンが目をぱちくりしている。
「そうだな、これはすごい」
絵の中とは言うが、現実と遜色ない風景が広がっている。
まるで空間転移でもしたかのようだ。
風も吹くし、鳥は囀り、湖面は揺れ、木の葉を踏めば音がする。
ただ一点、絵の中にもキャンバスがあった。
こちらには何も描かれておらず、そこに触れれば外に出られる。
「ここの水を飲んで外に出たら、どうなるのでしょう?」
「胃袋の中から水が消える。そもそも、絵の中の世界で摂取したものは吸収されない仕組みのようだ」
呼吸に関しては、両世界のキャンバスを通して、空気を取り込んでいるようだ。
「なるほど~。では、この絵の中って、どれくらいの広さなのでしょう」
「それは……いや、試してみたらどうだ?」
「そうですね! シュノン、ちょっと走ってきます! とりゃー!」
シュノンが走り出し、すぐに姿が見えなくなる。
俺から見て左側に向かって走り出したシュノンだったが、しばらくして、俺の右側から彼女が戻ってきた。
「とりゃーーーーー! って、あれ?」
シュノンが俺を見つけて立ち止まる。
「わかったか?」
「……端っこと端っこが、繋がってます?」
「そうだな」
絵に描かれた世界の両端をAとBとして、Aから先へ進もうとすると、Bに飛ばされる。逆も同じだ。閉じた世界をぐるぐる回ることは出来るが、それだけ。
真贋審美眼ではそういった詳細も分かるのだった。
「もう一つの世界と呼ぶには狭いが、思い出を振り返るには充分すぎる」
「ロウさま、この絵を蒐集するんですか?」
シュノンが少し不安そうな顔をする。
「いや、これは俺が持つべきものじゃない。体験できただけで、よしとするさ」
蒐集欲は刺激されるが、これは前世の影響。
ロウという現世の理性で、これを抑え込むことはできる。
「さすがロウさまです!」
シュノンがニパッと笑う。
「いい景色だが、俺たちの為の風景じゃない。そろそろ戻るか」
「そうですね」
白いキャンバスに触れると、俺たちはメラードの寝室に戻った。
のだが……。
「な、なんだお前達は……!」
小太りの偉そうな男が、俺とシュノンの姿を見て驚いている。
一体何があったというのか。
◇
「……申し訳ございません、主殿。どうやらこの村の代官のようです」
マーナルムの端的な説明は、とても助かる。
「お前の所為ではないさ」
「何を話している! どうやってこの絵の存在を知った!」
口から唾を飛ばしながら叫ぶ男の隣には、護衛と思われる剣士が控えていた。
マーナルムの相手にはならないだろうが、万が一にもシュノンやメラードに危害が及ばぬよう警戒する。
「申し遅れました。わたくし、クロウと申します。商人をしております」
クロウというのは、数ある偽名の一つだ。前世クロウ=ハイヤマからとった。
「商人だと!? メラード貴様、儂の申し出を断っておいて、このような輩に絵を売るつもりか!?」
どうやらこの代官は、メラードから絵を買おうとして断られた過去があるようだ。
「いいえ、この御方はただ絵を見に来ただけですよ」
「その通りです。亡きご主人の愛が込められた、このような品を金に換えるわけには参りません。一目見られただけで充分です」
「ふん! 商人にそのような慎みがあるものか! おい、こいつらをさっさと追い出せ!」
後半は剣士への命令のようだ。
剣の柄に手を伸ばした剣士だったが――。
「抜けば、我々も防衛しなければならない。よろしいか?」
マーナルムが低い声で言うと、剣士の動きがピタッと止まった。
「お、おい! 小娘の脅しに何を動じておる!」
「……代官様。剣を抜かぬことが、我々が無事に帰る唯一の方法です」
剣士の額には冷や汗が浮いている。
代官と違い、マーナルムの殺気を感じ取るくらいの能力はあるようだ。
「こ、こんの役立たずが!」
自分の面子が潰れたと思ったのか、燃えるように顔を赤くした代官だが、剣士は騒ぐだけの上司よりも目の前のマーナルムを恐れていた。
剣士が動かぬと分かると、代官はメラードを睨みつけた。
「メラード! どのような値をつけられても、その絵を売るでないぞ!」
捨て台詞のように吐くと、乱暴な足取りで家を出ていく。
「ごめんなさいねぇ。代官様は、どうにもこの絵をお気に召したようで、何度もやって来るの」
「ずっとプンプンしてて、困った人でしたねぇ」
「……主殿への無礼な態度、このような場でなければ血祭りに上げていたところを」
マーナルム、怖いぞ。
「しかし、あの様子だと何をしでかすか分かりませんね」
俺の言葉に、メラードが柔らかく微笑む。
「ふふ、心配してくれるのね。でも大丈夫よ、私が死んだら絵は譲ることになっているから。代官様も、無体はなさらないわ」
なるほど、そのような取引を持ちかけることで、あの代官から絵を守っているわけか。
しかしあの代官の様子を見るに、そこまで抑制が利く性格とは思えない。
だがその場で何ができるわけでもない。
俺たちはメラードの家をあとにする。
「今日はありがとうございました」
「いいのよ。あの絵のおかげで、この寂しい老婆のもとを訪ねてくれる人がいるのだから、むしろ嬉しいわ」
「シュノン、また来てもいいですか?」
「もちろん。いつでも来て頂戴」
俺たちはそのまま村を出た。
「マーナルム、誰かにメラードさんの家を見張らせてくれ」
「承知いたしました」
「……ロウさまは、あの代官さんが何かすると考えてるんですか?」
「シュノンも、信じてはいないだろ?」
「……ですね。全部自分の思い通りにならないと気が済まない、という感じでした」
シュノンは善良で心優しいが、貧民窟育ちなので厳しい現実も承知している。
決めつけはよくないが、警戒して損はあるまい。
「主殿。村の監視は私にお任せいただけないでしょうか?」
俺とシュノンの会話で、マーナルムはメラードが心配になったようだ。
「わかった。何かあったら、メラードさんを頼む」
「ハッ」
「それと、これを渡しておこう。何かあったら、すぐに連絡を」
俺は、破格の収納力を誇る『収納上手な革袋』から、あるものを取り出す。
『お喋りな耳飾り』だ。
一対のイヤリングで、一人が右耳、一人が左耳に着用することで、距離の制約を受けずに会話することができる。
「ありがとうございます。お借りします」
マーナルムに監視を任せ、革袋から食料も取り出し、手渡す。
俺とシュノンは人気のないところでトイグリマーラに拾ってもらい、一旦拠点へと戻った。
しかし俺たちは、その日の夜に、あの村へ戻ることになる。
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