1
「久し振り、ヤマトくん」
千種の元気な声が、路地裏に響き渡る。店の狭い間口から、見慣れたセーラー服とエプロンが覗いた。
「久し振り、千種。粒あん一つ」
「はいはい、了解っと」
千種は馴れた手つきで、鉄板の上からたい焼きを取り出すと、紙袋に入れていつもの様に俺に手渡してくれた。
「はい、熱いから気を付けて」
「ありがとう。ほい、百五十円」
「毎度ありー」
おどけた様に千種はそう言うと、レジの中へ二枚の硬貨をしまった。
本当に、千種は良く笑う様になった。前も、元気印の千種ちゃん、と言う程でもないけれど、それなりに元気な女の子だったが、今はその元気さにムリがない、様に思える。何もかも、母さんのおかげだ。その事に、俺が訳の解らない寂しさを覚えていると。
「ヤマトくん、何か一つ、おっきな悩み事が解決したでしょ?」
変な所から良い球を投げ込んで来た。見事そのストライク球を見送った俺は、内心慌てながら、外面だけを取り繕った。いや、今のは選手のベンチくらいの所から投げ込まれたぞ、マジで。
「ん? 何でそう思うんだ?」
「だって、何か疲れた雰囲気があるしさ。その割に、溜め息が少ないんだもん」
そうだろうか? 俺は全然そんな事に気付かなかった。もしかしたら、千種流のジョークなのかもしれないが。
俺はもう少し深く聞いてみる事にした。
「それから、何で俺が悩み事を解決した事になるんだ?」
「溜め息は心の痣、だからさ」
「何だよそれ」
「ほんと、自分でも意味解んない。なんだろうね」
はははは。二人で笑い合う。たい焼きがうまい。千種との話が楽しい。それは、この上なく幸せな事の様に思えた。これを失ったら、悲しいだろう。そんな事くらい、いくら幼くたって解る。
だけど、これを失ったとき、果たして俺は、「手に入れなければ良かった」と思うだろうか? 手に入れさせてくれた母さんを、俺は恨むだろうか? 千種と知り合った事を、心の底から後悔するだろうか?
どれも、ナンセンスな問いだ。
「とにかく、私は誰よりもヤマトくんを見てきたからね。多少の変化には敏感なのですよ」「敏感なのですか」
「そうです」
おどけた感じのやり取りを続ける。
「とにかく、悩みが解決したのは、確かなんだよね?」
「そんな所に意地張ったって仕方ないだろ。そうだよ、解決したさ」
「そう、なら良かった」
そう言うと、千種は店の窓から身を乗り出して、窓の下から飛び出ているカウンターへもたれかかった。
「深くは訊かないけどね」
「何か裏があるな?」
「べつにー? 清廉潔白だよ」
そうですか。
「まあ、あれだよ。中学生ともなると、年上同士の交際にも、だんだん感付く様になるんだよ」
「千種、絶対、隠し事してんだろ?」
「はあ、待つ身はつらいからさ」
ぬけぬけと千種はそう言うと、頭を掻きながら、
「いやあ、さっきさ、金髪のお姉さんに、『春日居大和って人が来てないか?』って訊かれたからね。痴情のもつれかと思って、教えようかどうか迷ってた」
誰が俺を捜しているのかはすぐに解ったが、何で俺を捜しているのかが、とんと解らない。
「その人、他になんか言ってなかったか?」
「別に。知りませんって言ったら、たい焼き二つ買って行ってくれた」
ほう。案外良い所もあるじゃないか。俺が感心していると、千種は意地悪そうな微笑みを浮かべて、
「ヤマトくん、私はいつでもヤマトくんの味方だから……。だから、もし相手の女の人に襲われて、大変な事になったら、すぐに私の所に来ていいよ……。ぷぷっ」
と言った。おいおい。
「勝手に大変な事にするなって」
「良いから良いから。いつでもウェルカムだよ」
千種は、今度は「ふふふ」と、さも嬉しくてたまらない、と言う風に笑った。ああもう、ちくしょう。可愛いなあ。妹がいるって、こんな感じなんだろうか。
「ああ、そうだな。そんな選択肢も、ありかもな」
「え……?」
同じ格好のまま、千種が固まる。見る見るうちに頬が赤くなって行き……。
「冗談だよ、冗談!」
怒った様にそう言うと、もたれかかっていたカウンターから勢い良く立ち上がり、鉄板の上へ生地を流し込み始めた。
「ほら、そろそろお客さんも多くなってくるし。私も仕事しなきゃ」
「解ったよ。ごちそうさま」
カウンター下のゴミ箱に紙袋を投げ入れ、くるりと店に背中を向ける。
と、その背中に、千種の声が投げかけられた。
「その……さ。またね」
「おう、また来るよ」
千種は胸元で小さく手を振ると、そのままいそいそと奥へ戻って行った。
狭苦しい路地裏から出ると、乾ききった冷たい風が頬を切って行く。空にはどんよりと雲がかかり、分厚い天井となって、俺を押し潰そうとしているようだった。
「うう、さぶ」
一人そう呟くと、俺はポケットへ乱暴に手を突っ込んだ。
さて。問題がもう一つやってきたわけだ。




