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俺はザリッ、と音を立てて、足を踏み込んだ。何かあった時は、すぐに走り出さなければ行けない。
「逃げてっ!」
翠の尖った声が空気を震わせる。と、同時に、翠は地面に手をつき、何やら魔術を発動させようとした。
が、母さんは手のひらを向けてそれを制すると、自信ありげな目で、カタリーナを睨みつけた。
「そうやって、また負けるのね。自分の気に食わない者を受け入れる程の強さもないから、当然か」
母さんが何を知ってるのか、俺は知らない。だが、俺はカタリーナの心をちゃんと考えていなかった事を、知った。
別に、奴の心を思いやると言うわけではない。思いやる程、酌量の余地があるわけじゃない。
つまるところ、俺は、カタリーナの行動原理としてしか、彼女の心を考えていなかったわけだ。ハルに対しても、翠に対しても、俺がそう出なかったとは、言い切れないのだ。
「何を解った風に! お前なんかに! お前なんかに! 解ってたまるものか!」
危ない、と俺は思った。こうなった彼女が何をするか、目の前に浮かび上がってきそうなくらい、解っていた。
振り上げていた杖を、無我夢中で振り回す。駄々っ子の様に、敵の手から逃げようとする者の様に、ただ杖を振り回して、叫んだ。
「散れっ! 散れっ! 吹き飛べっ! 消えろっ! 私の前からっ! 消えろっ!」
何度も、何度も。風の刃が俺達を掠めて行く。しかし、メチャクチャに吹いて行く風の刃だ。ある程度の広さのある結界の中で、まったく俺達にあたる事がない。
騒ぎ続けたカタリーナも、俺達が一向にくたばらないのに気付いたらしい。荒い呼吸をしながら、ぴたりと動きを止めた。
そして、ワシの様な目で、母さんを睨みつけ、静かに、短く、一言だけ。
「死ね」
「危ないッ!!」
ハルの声が飛び、小柄な体が、素早く飛んだ。
目にも留まらぬ早さで、風の刃が、空気を切り裂いた。
全ての者が死んだ様な静けさが訪れる。
俺が血を見たのは、その沈黙のあとだった。
ハルは地面に倒れかけた格好のまま、母さんにもたれかかっていた。母さんは軽々とその体を両手で受け止めている。
ハルのマントは真一文字に切り裂かれ、毒々しいまでに鮮やかな血が、たらたらとせせらぎの様に流れ出ていた。
「ハルちゃん!」
翠が血相を変えて叫んだ。
ハルが傷ついている。
ハルばかりが傷ついて、俺は矢面に立とうともしない。
それが良い事なのかどうかは解らない。でも、俺の心はなぜかそれを許さなかった。
乾いた土を踏みしめて、カタリーナへ近付く。もっと奴の近くへ、奴の近くへ。
腕が届く距離に来た。
もっとだ。
俺は魔法が使えない。なら、この両手を汚す事でしか、魔法の樹を取り戻せない。
遠くで翠の泣き叫ぶ声が聞こえる。母さんの落ち着いた声も聴こえる。でも、それはみな僕に関係のない、遠い世界の事だった。
目の前の薄汚い老婆を、叩きのめす。
ハルを痛めつけた。理由は、それだけで十分だ。
くたばれ。
「風よ!」
俺の腕が唸るのと、カタリーナの声が飛ぶのと、ほぼ同時だった。いや、カタリーナの声が一瞬遅れたようだ。
鋭く、冷たい感触が頬を撫でて行く。拳には、かさついた気味が悪い柔らかさを感じた。
カタリーナの体はあっけなく吹き飛んだ。頬を、生温い液体が流れ落ちて行く。
俺はすぐさま間合いを詰める。
「立てよ」
俺の言葉に、怯えたカタリーナの瞼がひときわ大きく見開かれた。俺はカタリーナの襟首を引っ張り、強引に立たせた。
「そんぐらいで罪を償えたと思ってんじゃねーぞ」
「かぜ……」
「うるせえ!」
悲しくなる程、カタリーナの体は軽かった。俺が殴ったくらいで、簡単に吹っ飛んで行く。
「お……、お前の望みは……、な、なんなんだ?」
「今更かよ」
俺はそう吐き捨てると、またカタリーナの目の前に立ちはだかった。奴の震える手は、もう杖をまともに持つ事は出来ないみたいだった。
「俺の望みは、ハルの願いが叶う事だ」
「……」
カタリーナはがくりと項垂れた。
俺はとことん、悲しさだけを感じていた。
やりきれなさと、悲しさと、情けなさと、恐ろしさと。
それだけだ。




