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当然翠にも見覚えがあるわけで、また小康状態になった空気の中を、「あ」と言う小さな声が流れてきた。
「翠、あれ、なんなんだ?」
「あれ、この前まで私たちが追ってた魔獣だよ。ったくあのばばあめ……」
低いうなり声の様な声で、翠がごちる。問いかけた竜二は、何も言わずにその場を離れた。
と、ふと、これまで目に入らなかったものが目に入った。
ハルである。
俺はずっと、ハルは自信に満ちあふれた奴だと思っていた。それが傲慢に見えても、向こう見ずに見えても、それは確かに奴の美点だ。
でも今、俺のその印象は、第一印象に引っ張られていた事を知った。つまり、あの時の彼女の言動を物差しにして、俺はハルと言う人間を決めつけていた。
まあ、そんな俺に対する自分自身の評価は、今は置いておこう。
ともかく、今のハルに、自信なんて物はなかった。いや、これも、俺の中の勝手な物差しで測った物なのかもしれないけど、ともかく、俺にはそう見えたのだ。
蒼い目は光を失い、ひとところを見据える事なく、常に虚空を彷徨っている。元から小柄な体は、今やそのまま空気にさえ押し潰されてしまいそうだ。あの髪さえも、輝きを失っている様に見える。
ふと、不安げなまなざしが、俺にぶつかる。やがて、びくり、と肩を振るわせると、またすぐに他のどこかへと瞳を向ける。
カタリーナに無視をされているうちは、俺は何もされないだろう。俺はまた膝を抱えて、翠、竜二対カタリーナのにらみ合いの方へと視線を戻した。
黒猫が真ん中に立ち、得意げに胸を反らしている。黄色い目が、一瞬俺を捉えた様な気がした。
残念だが、今日の俺はギョニソを持っていない。そもそも、あいつがそれを望んでいるかも、不確かだ。まあ、柳の下にドジョウはいまい。
「さあ、思う存分やりな」
カタリーナがそう言うと、黒猫は首の鈴を鳴らしながら、しなやかな足運びで翠の方へと近付いて行った。
「もう、情けはかけないから」
翠はそう冷たく言い放つと、足元の地面へ手のひらを向けた。
「現れよ、我が刀」
短い呪文と同時に、翠の足元からは、ずるずると日本刀の形をした土塊が、柄を上にして競り上がって来る。翠がその柄を握ると、刀の刃には鈍い輝きが宿り、ツバも柄も、土とは思えない重厚さを湛えた。
それを見ていた竜二の横顔が、ふと一瞬悲しみに歪んだ様な気がした。それが確かな物かどうか確かめる間もなく、竜二はまた前を向き、渓へと何か指示を出した。渓は目にも留まらぬ動きで竜二のそばを離れた。
空を切る音が聞こえたようだった。翠の手に握られた刀が、猫を捕らえた。そう思った。
しかし、猫は「にゃっ」と小さな声を上げると、俊敏な身のこなしでその刃から逃れた。まるで翠をばかにするように遠くで背筋を伸ばすと、一度だけ招き猫の様に、自分のヒゲを撫でた。
同時に、また体を吹き飛ばしてしまいそうな風が、メチャクチャに吹き始めた。
「くっ……」
翠は体をかがめて、地面に手をついた。翠の唇が小さく開かれると、風上側に土の壁がにょきにょきと生えてきた。それを風よけにして、翠はまた何か地面へも様を刻み始める。そしてまた翠が何かを呟くと、今度は竜二の所に、土の壁が生えてきた。
なぜか俺の所にはその風がやってこなかった。そして、少し離れた所にいたハルもまた、風には巻き込まれてはいなかった。まあ、カタリーナの行動原理を考えてみれば、当然かもしれない。
ただやっぱり、吹き荒れる風を見るハルの顔は不安げだ。駆け出そうとしているのか、足だけは何度も踏み出そうとしているけれど、何も出来ない事を悟って、またその足を引っ込める。何度も何度も、その繰り返しだった。
風を見て、って言うのが、魚の小骨の様に、俺の喉に引っ掛かった。




