第9話 あの日、兄は俺を救った
兄の死は、本当に事故だったのか――。十年前に隠された真実が、少しずつ明らかになる。父が現場にいたこと、黒田が知る秘密、そして美緒との関係に隠された両親の思惑。すべてが繋がったその瞬間、蓮のもとに届いた一通のメールが、運命を大きく変えていく。そして、美緒から届いた最後の言葉とは――。
黒田真司の言葉が、頭から離れなかった。
――兄は事故で死んだんじゃない。
あれは、事故に見せかけられた。
「……そんなこと」
美緒が震える声で呟いた。
「あり得ません」
黒田は黙っていた。
「兄は、川であなたを助けて……」
「それは間違っていない」
黒田が答える。
「悠真は確かに、お前を助けた」
「だったら……」
「問題は、その前だ」
黒田は俺を見る。
「悠真は、あの日にあるものを見つけていた」
「あるもの?」
「あの川の近くに、不法投棄された薬品があった」
俺と美緒は顔を見合わせた。
「薬品?」
「ああ」
黒田は続けた。
「当時、川の周辺で工場の廃棄物が問題になっていた」
「……そんな話、聞いたことありません」
美緒が言う。
「当然だ」
黒田は苦笑した。
「全部、揉み消されたからな」
「誰に?」
「金のある連中に」
俺は拳を握った。
「それと、悠真に何の関係が?」
「悠真は写真を撮っていた」
「写真?」
「証拠を残すためにな」
黒田がポケットから古いメモリーカードを取り出した。
「これが、その証拠だ」
俺たちは黒田の家へ向かった。
古いアパートの一室。
部屋の中には、十年前の新聞や資料が大量に積まれていた。
「これ、全部……」
美緒が呟く。
「十年間集めた」
黒田はパソコンを起動する。
「悠真が死んだあと、俺は一度逃げた」
「どうして?」
「怖かったからだ」
黒田は淡々と言った。
「俺も、まだ子供だった」
画面に古い写真が映る。
川。
ドラム缶。
黒い液体。
そして――
その横に立つ数人の男。
「……」
美緒の顔が青ざめる。
「これ……」
「そうだ」
黒田が頷く。
「事故が起きた日の昼、悠真はこの場所を見つけた」
「そして、写真を撮った」
「そう」
「でも、その日の夕方――」
黒田は画面を切り替えた。
川岸の写真。
俺と悠真が写っている。
「悠真は、俺たちに証拠を見せようとしていた」
「……」
「そのとき、誰かに見つかった」
「誰に?」
黒田は答えなかった。
「それが分からない」
「……え?」
「俺が戻ったときには、悠真が川へ走っていった」
「俺を助けるために?」
「違う」
黒田が首を振る。
「最初は、お前を助けるためじゃなかった」
俺は息を呑んだ。
「じゃあ……」
「悠真は、証拠を取り戻そうとしたんだ」
そして。
黒田は一枚の写真を見せた。
川岸。
遠くに立つ男。
その手には、何か黒い袋がある。
「この男が、証拠を持って逃げた」
「……」
「悠真は追いかけた」
俺の頭の中で、断片的な記憶が蘇る。
走る足音。
怒鳴り声。
水音。
そして――
「……俺」
俺は呟いた。
「俺も、そこにいた」
「そうだ」
黒田が頷く。
「お前は、その男を追いかけていた」
「どうして?」
「分からない」
「……」
「ただ、お前が川へ落ちた」
その瞬間。
俺の記憶が一気に戻った。
――十年前。
「蓮!」
悠真の声。
俺は川岸で足を滑らせた。
「助けて!」
水が口に入る。
息ができない。
身体が沈む。
「蓮!」
悠真が飛び込んだ。
俺の腕を掴む。
「大丈夫だ!」
俺は泣いていた。
「お兄ちゃん……!」
岸から美緒の声。
その後ろには――
「黒田……?」
幼い俺が呟く。
黒田が何かを叫んでいる。
そして。
川岸にいた男が振り返った。
その顔。
「……」
俺は思い出した。
「知ってる……」
「誰だ?」
黒田が聞く。
俺は震える手で写真を指差した。
「この人……」
写真の端。
当時の工場関係者の一人。
「俺の父親だ」
黒田の表情が変わった。
「……何?」
「この人」
俺は写真を見つめる。
「俺の父親だ」
空気が凍った。
美緒が俺を見る。
「……蓮のお父さん?」
「ああ」
「どうして……」
俺は何も言えなかった。
俺自身も知らなかった。
父があの日、そこにいたこと。
そして。
その後、何も話さなかったこと。
「じゃあ……」
美緒の声が震える。
「あなたのお父さんが兄を……?」
「待て」
黒田が遮る。
「それはまだ分からない」
「でも――」
「写真だけじゃ証拠にならない」
黒田は冷静だった。
「俺たちが必要なのは、当時の記録だ」
「……」
「ただ」
黒田が俺を見る。
「一つだけ確かなことがある」
「何?」
「お前の父親は、事故のあと姿を消した」
「……」
「会社を辞めて、そのまま海外へ行った」
俺は唇を噛んだ。
「そんなの……聞いてない」
「家族から聞いてないのか?」
「ああ」
美緒が俺の手を握った。
俺は驚いて彼女を見る。
「……大丈夫です」
「大丈夫じゃない」
「それでも」
美緒は手を離さなかった。
「私はここにいます」
その言葉が。
今の俺には何よりもありがたかった。
翌日。
俺たちはそれぞれの両親に話をした。
「十年前の事故について知りたい」
父は黙っていた。
母も何も言わない。
「どうして黙っていた?」
「……」
「父さん」
長い沈黙。
やがて父が口を開いた。
「……あの日」
父の声は低かった。
「私は現場にいた」
美緒が息を呑む。
「そして、悠真くんが君を助けるところを見た」
「じゃあ、どうして……」
「怖かったんだ」
父は俯いた。
「会社が関わっていた」
「……」
「だが、私が直接命令したわけではない」
「じゃあ誰が?」
「当時の社長だ」
父は苦しそうに続ける。
「悠真くんが証拠を持っていると知り、会社はそれを回収しようとした」
「……」
「私は止めようとした」
「でも、できなかった」
俺は拳を握る。
「じゃあ、兄貴は……」
「事故ではない」
父が言った。
「だが、殺したわけでもない」
「……どういう意味だよ」
「悠真くんは、誰かに追われて川へ入った」
「誰に?」
父は首を振った。
「私は見ていない」
俺は父を睨んだ。
「だったら、なんで俺たちは結婚することになった?」
父と母が顔を見合わせる。
「それは……」
「俺と美緒の結婚は、兄貴の死を埋め合わせるためか?」
「違う」
美緒の父が初めて口を開いた。
「最初はそうだった」
「……」
「だが、十年も経てば、それだけではない」
彼は美緒を見る。
「お前たちが互いに支え合えると思った」
「だから勝手に決めたの?」
美緒の声が震える。
「私たちの気持ちは?」
「……」
「私が蓮を嫌うようにしていたのも、全部知っていたんですか?」
誰も答えない。
美緒は笑った。
でも。
泣いていた。
「……最低です」
その一言だけだった。
帰り道。
俺と美緒は無言で歩いていた。
「……」
「……」
しばらくして。
「美緒」
「はい」
「結婚」
「……」
「俺たち、やめよう」
美緒が立ち止まった。
「……え?」
「両親に決められた結婚なんて、俺は嫌だ」
「……」
「お前もそうだろ?」
美緒は黙っている。
「だから」
俺は続けた。
「全部、白紙にしよう」
美緒の目から涙が落ちた。
「……はい」
「それでいい」
「……はい」
なのに。
なぜか胸が苦しかった。
美緒も泣いていた。
俺も、何も言えなかった。
これでいい。
これが正しい。
俺たちは、家族に決められた関係だった。
だから。
終わらせるべきなんだ。
「……蓮」
「ん?」
「一つだけ」
「何?」
「最後に」
美緒が笑った。
「一度だけ、私からわがままを言ってもいいですか?」
「……ああ」
「今日だけ」
美緒は俺の手を握った。
「このままでいさせてください」
俺は何も言わなかった。
ただ。
その手を握り返した。
――これが最後。
そう思った。
でも。
その夜。
俺のスマートフォンに、一通のメールが届いた。
差出人は――
父親の名前。
件名は。
『十年前の事故について、本当に伝えるべきこと』
本文には、一行だけ書かれていた。
――悠真くんを追って川へ入った人物を、私は知っている。
俺は画面を見つめた。
そして。
その名前を見た瞬間。
「……嘘だろ」
そこに書かれていた人物は――
黒田真司だった。
俺はすぐに美緒へ電話をかけた。
しかし。
繋がらない。
もう一度。
もう一度。
「出ろよ……美緒」
そのとき。
スマートフォンに、美緒から一通のメッセージが届いた。
たった一言。
『蓮、逃げて』
そして。
そのメッセージを最後に。
美緒のスマートフォンは、電源が切れた。




