最終話 嫌いだったはずの君と
十年前の悲劇に隠された真実が、ついに明らかになる。家族に決められた婚約も、兄への憎しみも、すべてを乗り越えた蓮と美緒。もう誰かに決められた未来はいらない。嫌いだったはずの二人が、自分たちの意志で選ぶ未来とは――。そして、二人が辿り着いた本当の答えとは――。
――『蓮、逃げて』
美緒から届いた、最後のメッセージ。
それを見た瞬間。
俺は家を飛び出していた。
「美緒……!」
電話をかける。
繋がらない。
何度かけても。
何度かけても。
返事はなかった。
「くそ……!」
俺は走った。
向かったのは、あの神社だった。
十年前の事故のあと、美緒が兄のことを思い出すために何度も訪れていた場所。
そして――
黒田真司と初めて会った場所でもある。
境内には誰もいない。
「……美緒?」
返事はない。
そのとき。
「来たか」
背後から声がした。
振り返る。
黒田だった。
「美緒はどこだ!」
「落ち着け」
「ふざけるな!」
俺は黒田の胸ぐらを掴んだ。
「お前が美緒に何をした!」
「何もしていない」
「じゃあ、どこにいる!」
「……十年前の川だ」
「……!」
「佐伯は、一人で真実を確認しに行った」
俺は黒田を突き放した。
「何で止めなかった!」
「止めても行っただろう」
「……」
「お前と同じだ」
黒田はため息をついた。
「俺たちは十年前から、ずっと逃げてきた」
「何から?」
「真実からだ」
川へ向かう。
夜の川は、あの日と同じように暗かった。
街灯の下。
美緒が立っていた。
「……美緒!」
彼女が振り返る。
「蓮……」
無事だった。
それだけで、胸の力が抜けた。
「何してるんだ!」
「ごめんなさい」
「心配したんだぞ!」
「……はい」
「電話くらい出ろ!」
「……すみません」
美緒は俯いた。
「でも、ここに来なければいけないと思ったんです」
「一人で?」
「……はい」
「馬鹿!」
思わず叫んだ。
美緒が驚く。
「……ごめんなさい」
「謝るなよ……」
俺は息を整えた。
「お前までいなくなったら、俺はどうすればいいんだよ」
「……」
美緒の目に涙が浮かぶ。
「蓮……」
「俺はもう、誰かを失うのは嫌なんだ」
美緒は何も言わなかった。
ただ。
ゆっくり俺の手を握った。
「……私もです」
黒田が後ろから歩いてきた。
「全部話す」
「……」
俺と美緒が黒田を見る。
「十年前」
黒田は川を見つめた。
「俺は悠真と一緒に、工場の不法投棄を調べていた」
「……」
「証拠を集めていた」
「それを会社に知られた」
「そうだ」
黒田は頷く。
「俺は怖くなった」
「だから逃げた?」
「ああ」
「じゃあ、兄は?」
「悠真は逃げなかった」
黒田の声が震える。
「俺が『やめろ』と言っても、証拠を警察へ持っていこうとした」
「……」
「その途中で、お前と会った」
黒田が俺を見る。
「そして、お前が川へ落ちた」
俺は目を閉じる。
記憶が蘇る。
悠真。
川。
俺の手。
「悠真は迷わなかった」
黒田が言う。
「証拠を捨てて、お前を助けた」
「……」
「その後、俺は通報した」
「じゃあ、どうして姿を消した?」
「会社の人間に脅された」
黒田は拳を握る。
「証拠を渡せば、悠真の死を事故として処理する」
「……」
「そして、俺にも罪を着せると言われた」
「だから十年間?」
「ああ」
黒田は俺を見る。
「だが、全部俺の弱さだった」
美緒が静かに言った。
「……でも、兄はあなたを恨んでいないと思います」
「……」
「兄なら、きっと」
美緒は少し笑った。
「『生きててよかった』って言うと思います」
黒田の目から、一滴の涙が落ちた。
「……そうかもな」
その後。
黒田が持っていた証拠と、父が保管していた記録によって、十年前の事件は正式に再調査されることになった。
すべてが一度に解決したわけではない。
会社の責任。
隠蔽。
当時の大人たちの判断。
たくさんの問題が残っていた。
でも。
少なくとも。
悠真の死を「ただの事故」として終わらせることはなくなった。
そして俺の父も。
美緒の両親も。
俺たちに謝った。
初めて。
誰かに決められた未来ではなく。
俺たち自身の未来を選んでいいと言ってくれた。
それから一か月。
俺たちは、いつも通り学校へ通っていた。
「おはようございます」
「おはよう、美緒」
「……」
美緒が一瞬、固まる。
「どうしました?」
「いや」
「何ですか?」
「名前で呼ぶの、まだ慣れないなと思って」
「……私もです」
美緒が少しだけ笑った。
以前なら。
学校では絶対に名前で呼ばなかった。
でも今は違う。
俺たちはもう。
「家同士が決めた婚約者」ではない。
「偽装カップル」でもない。
ただ。
お互いを知っている二人だった。
放課後。
俺たちは屋上にいた。
夕日が校舎を赤く染めている。
「……ねえ、蓮」
「ん?」
「聞いてもいいですか?」
「何?」
「どうして、あの日」
「?」
「私と結婚するのをやめようって言ったあと……私の手を握ったんですか?」
「……」
俺は黙った。
「忘れました」
「嘘ですね」
「……」
美緒が笑う。
「教えてください」
「……あのときは」
俺は空を見る。
「家族に決められた結婚は嫌だった」
「はい」
「でも」
美緒を見る。
「お前と離れるのも嫌だった」
「……」
「だから、分からなくなった」
美緒の頬が赤くなる。
「それって……」
「たぶん」
俺は苦笑した。
「その頃から、もう答えは決まってたんだと思う」
「……」
「俺は、お前のことが好きだったんだ」
美緒が固まる。
「……ずるいです」
「何が?」
「そんな顔で言うなんて」
「どんな顔だよ」
「……嬉しそうな顔です」
「実際、嬉しいからな」
美緒は俯いた。
「……私も」
「ん?」
「私も、好きです」
小さな声。
「最初は大嫌いでした」
「俺も」
「あなたを見るだけで、兄を思い出したから」
「うん」
「でも」
美緒が俺を見る。
「いつの間にか、兄ではなく……あなたを見るようになりました」
「……」
「あなたが笑っていると嬉しい」
「……」
「あなたが誰かと楽しそうに話していると、少し嫌です」
「それ、嫉妬?」
「……はい」
美緒は恥ずかしそうに頷いた。
「だから」
彼女が手を差し出す。
「もう一度、聞いてもらえますか?」
「何を?」
「今度は、誰にも決められていない状態で」
俺はその手を握った。
「佐伯美緒」
「はい」
「俺と結婚してくれますか?」
美緒の目に涙が浮かぶ。
「……はい」
一度だけ。
小さく頷く。
「でも」
「ん?」
「一つ条件があります」
「またかよ」
「今度は、あなたも家事をしてください」
「……」
「料理も半分」
「え?」
「掃除も」
「……」
「洗濯も」
「ちょっと待て」
美緒が笑う。
「嫌ですか?」
「いや」
俺も笑った。
「それくらいなら、いくらでも」
「……本当に?」
「ああ」
「じゃあ、約束です」
俺たちは手を繋いだ。
夕日の向こうに、ゆっくり夜が近づいてくる。
数か月後。
俺たちは、もう一度両親の前に立っていた。
今度は。
誰かに決められた結婚ではない。
俺たち自身が決めた未来だ。
「蓮」
「ん?」
「少し緊張しています」
「俺も」
「……昔なら、こんな日が来るなんて思いませんでした」
「俺だって」
「だって」
美緒が笑う。
「最初は、あなたのことが世界で一番嫌いでしたから」
「俺も、お前が世界で一番苦手だった」
「『嫌い』じゃないんですか?」
「今は違うから」
「……」
美緒が少しだけ顔を赤くする。
「では、今は?」
俺は彼女の手を握る。
「世界で一番、大切な人」
「……ずるいです」
「何が?」
「そんなこと言われたら、もっと好きになってしまいます」
「もう十分だろ」
「まだです」
「まだ?」
「これからもっと好きになります」
「……」
俺は笑った。
「じゃあ、俺も負けない」
美緒も笑った。
そして。
俺たちは歩き出した。
十年前。
俺は川で命を救われた。
その日から、美緒は俺を守ろうとしてくれた。
でも。
俺たちが本当に出会ったのは。
もっとずっと後だったのかもしれない。
最初は。
嫌いだった。
顔を見るだけで腹が立った。
話せば喧嘩になった。
同じ家で暮らすなんて、絶対に無理だと思った。
なのに。
料理を失敗する姿を見て。
眠そうな顔を見て。
泣いているところを見て。
誰にも見せない笑顔を知って。
少しずつ。
少しずつ。
俺の中の「嫌い」は消えていった。
そして。
気づいたときには。
その場所に、一人の女の子がいた。
俺が守りたいと思える人。
俺の隣にいてほしいと思える人。
俺自身が選んだ人。
――佐伯美緒。
俺たちは今日。
もう一度、結婚することを決めた。
今度こそ。
誰にも決められていない。
誰かへの罪悪感でもない。
十年前の約束でもない。
ただ。
俺が彼女を好きだから。
彼女が俺を好きだから。
それだけでいい。
だから。
もし誰かに聞かれたら。
俺はこう答える。
――「クラスで一番嫌いだった女子と結婚した」。
でも。
その言葉には、もう一つ続きがある。
「そして今は、世界で一番大切な人になった」。
これが。
俺と美緒の。
少し遠回りな恋の始まりであり――
俺たちが自分自身で選んだ、
最初の物語だった。




