第8話 十年前の少年
十年前の記憶が、少しずつ蘇り始める。美緒の兄・悠真の死に隠された秘密。そして、突然現れた黒田真司が告げる、事故ではなかったという衝撃の真実。蓮と美緒の関係が深まる一方で、二人を結びつけた結婚そのものにも、思いもよらない秘密が隠されていた――。真実を知るほど、二人の運命は大きく揺れ始める。
三日後。
俺は学校の廊下で、知らない男と目が合った。
正確には――
「知らないはず」の男だった。
「……」
その男は、二十歳前後に見えた。
黒い髪。
細い目。
制服ではない。
学校関係者でもなさそうだ。
なのに。
俺を見るなり、足を止めた。
「……お前」
「え?」
男が近づいてくる。
「如月蓮か?」
「そうだけど……」
男は俺の顔をじっと見つめた。
「やっぱりな」
「誰だよ?」
「……まだ思い出してないのか」
その言葉を聞いた瞬間。
頭の奥がズキッと痛んだ。
「……っ」
目の前に、一瞬だけ映像が浮かぶ。
川。
濁った水。
誰かの叫び声。
そして――
知らない少年。
俺はその少年を見ていた。
少年も俺を見ていた。
でも、顔が思い出せない。
「おい、大丈夫か?」
男の声で我に返る。
「……今、何て言った?」
「いや」
男は笑った。
「何でもない」
「待てよ」
俺が腕を掴もうとした瞬間。
「蓮!」
後ろから美緒の声がした。
振り返る。
美緒が走ってくる。
「どうしたんですか?」
「こいつが――」
俺が男を見る。
しかし。
もうそこには誰もいなかった。
「……消えた?」
「誰がですか?」
「今まで、ここに男がいた」
「……」
美緒の顔が青ざめる。
「どんな人でした?」
「黒髪で、二十歳くらい」
「……」
「知ってるのか?」
美緒は答えなかった。
「美緒?」
「……帰りましょう」
「いや」
「蓮」
珍しく、強い声だった。
「今すぐ帰りましょう」
家に帰ってからも、美緒は何も話さなかった。
夕食を作る。
皿を並べる。
食事をする。
そして片付ける。
いつもと同じ。
でも。
明らかに様子がおかしい。
「なあ」
「はい?」
「今日の男」
「……」
「知ってるんだろ?」
「知りません」
「嘘だ」
美緒の手が止まる。
「……どうしてそう思うんですか?」
「お前の顔を見れば分かる」
「……」
「昨日まで、あんなに冷静だったのに」
美緒は俯いた。
「……名前は?」
「黒田」
「黒田?」
「黒田真司」
その名前を聞いた瞬間。
美緒の顔が強張った。
「……やっぱり」
「知ってるんだな」
「はい」
「誰なんだ?」
美緒は椅子に座った。
「……十年前、兄と一緒にいた人です」
「一緒に?」
「正確には、兄の友人でした」
「俺を助けたときも?」
「……はい」
俺は息を呑んだ。
「じゃあ、あの日の第三者って――」
「黒田さんかもしれません」
「でも、さっきは何も言わなかった」
「……怖かったんです」
「何が?」
美緒は両手を握りしめる。
「黒田さんは、兄が亡くなったあと……突然、いなくなりました」
「いなくなった?」
「家族にも何も言わずに」
「どうして?」
「分かりません」
「それで十年間?」
「はい」
俺は考え込んだ。
「じゃあ、なんで今になって現れた?」
「……分かりません」
美緒は小さく呟いた。
「でも」
「何?」
「兄が亡くなる直前、黒田さんと喧嘩していたんです」
「……喧嘩?」
「はい」
「何について?」
「それは――」
美緒が言葉を止める。
「……分かりません」
「本当に?」
「本当です」
俺は美緒の目を見る。
嘘をついているようには見えない。
ただ。
何かを怖がっている。
「分かった」
「……?」
「今日はこれ以上聞かない」
「蓮……」
「でも」
俺は続ける。
「一人で抱えるのは禁止な」
「……」
「俺たちはもう、同じ問題を抱えてるんだから」
美緒はしばらく黙っていた。
そして。
「……ありがとうございます」
小さく笑った。
翌日。
学校の帰り。
「蓮」
「ん?」
「少し寄り道してもいいですか?」
「ああ」
美緒が俺を連れて行ったのは、古い神社だった。
「ここ?」
「はい」
「何かあるのか?」
「兄が好きだった場所です」
境内には誰もいない。
風で木の葉が揺れている。
美緒は古い石段に座った。
「ここで、よく兄と話しました」
「どんな話?」
「くだらない話です」
美緒が笑う。
「学校のこととか」
「兄貴、どんな人だった?」
「優しかったです」
「それは知ってる」
「……少し不器用でした」
「へえ」
「料理もできませんでした」
「意外だな」
「私が作ると、『美緒のほうが上手い』って毎回言ってました」
「妹に負ける兄か」
「そうです」
美緒が笑う。
その顔は。
今まで見たどの笑顔より自然だった。
「……会ってみたかったな」
俺が呟く。
「兄に?」
「ああ」
「……そうですね」
美緒が空を見上げる。
「きっと、あなたと仲良くなっていたと思います」
「どうして?」
「二人とも、少し馬鹿だから」
「おい」
「ふふっ」
俺は笑った。
美緒も笑った。
しばらく。
二人で何も言わなかった。
やがて。
「……蓮」
「ん?」
「私」
美緒が手を膝の上で握る。
「一つだけ、話していないことがあります」
「……何?」
「私があなたを嫌っていた理由」
「兄貴のことだけじゃないのか?」
「はい」
「他にもある?」
「……あなたが、兄に似ていたからです」
「俺が?」
「はい」
美緒は少し笑った。
「考え方とか」
「そんなに似てる?」
「すごく」
「……」
「だから、あなたを見るたびに兄を思い出しました」
「……」
「それが嫌だったんです」
美緒の声が小さくなる。
「あなたを見れば見るほど、兄がいなくなったことを思い出すから」
「美緒……」
「でも」
彼女は俺を見る。
「今は違います」
「……?」
「今は、あなたを見ても兄だけを思い出すわけじゃありません」
美緒が微笑む。
「あなたは、あなたですから」
胸が少し熱くなった。
「……そっか」
「はい」
「それならよかった」
「どうして?」
「俺は俺だから」
「……」
「兄貴の代わりにはなれない」
「知っています」
「俺は、お前の兄貴じゃない」
「はい」
「だから」
俺は美緒を見る。
「俺のことは、俺として見てくれ」
美緒は目を丸くした。
そして。
「……分かりました」
神社から帰る途中。
突然、美緒が立ち止まった。
「どうした?」
「……蓮」
「ん?」
「もし」
彼女は迷うように口を開いた。
「もし、私があなたに『結婚したくない』と言ったら」
「……」
「どうしますか?」
「お前はどうしたい?」
「……分かりません」
「じゃあ、考えればいい」
「あなたは?」
「俺?」
「結婚したいですか?」
俺は答えられなかった。
以前なら、絶対に嫌だと言っていた。
でも今は。
「……まだ分からない」
「そうですか」
「でも」
「はい?」
「お前と一緒にいるのが嫌じゃなくなった」
美緒が固まった。
「……それは」
「ん?」
「ずるいです」
「何が?」
「そんなことを言われたら……」
美緒が顔を赤くする。
「……期待してしまいます」
俺は何も言えなかった。
その瞬間。
「――二人とも」
背後から声がした。
振り返る。
黒田真司。
「……!」
美緒が俺の前に立った。
「黒田さん」
「久しぶりだな、佐伯」
「どうして……」
「お前に話がある」
「私に?」
「いや」
黒田が俺を見る。
「――如月にだ」
「俺?」
「そうだ」
黒田はポケットから一枚の写真を取り出した。
「これを見ろ」
俺は写真を受け取る。
そこには。
十年前の俺。
悠真。
美緒。
そして――
黒田。
四人が写っていた。
「……四人?」
俺は眉をひそめる。
「俺、こんな写真……」
「覚えてないだろうな」
黒田が言う。
「お前は事故の前に、一度俺たちと会っている」
「……俺が?」
「そうだ」
俺は写真を見つめる。
その瞬間。
また頭痛が襲ってきた。
川。
笑い声。
悠真の声。
美緒の声。
そして。
黒田の声。
――「絶対に誰にも言うな」
「……っ!」
俺は写真を落とした。
「蓮!」
美緒が支える。
「大丈夫ですか?」
「……今」
俺は頭を押さえた。
「思い出した」
「何を?」
俺は黒田を見る。
「十年前のことを……」
黒田の表情が変わった。
「……どこまで?」
「全部じゃない」
「そうか」
黒田は小さく息を吐いた。
「なら、まだ間に合う」
「何が?」
黒田は俺たちを見た。
「お前たちが結婚する前に――」
一瞬、風が止まった。
「あの日の本当の事故原因を知る必要がある。」
「……!」
美緒が息を呑む。
「兄は事故で死んだんじゃない」
黒田の言葉が、静かな境内に響いた。
「――あれは、事故に見せかけられたんだ」
俺と美緒は、何も言えなかった。
十年前の出来事。
兄の死。
俺の記憶。
そして、俺たちの結婚。
すべてが一本の線で繋がり始めていた。
だが。
黒田は最後に、俺へこう言った。
「如月蓮」
「……何だ?」
「お前が思い出したら――」
黒田の目が鋭くなる。
「今度は、お前だけじゃ済まない」
その言葉を聞いた瞬間。
俺は美緒の手を握った。
美緒も驚いたように俺を見る。
けれど。
今度は、手を離さなかった。
――俺はまだ知らない。
十年前の真実が。
俺と美緒の「偽装結婚」そのものを壊すほどの秘密だということを。




