第7話 お前が勝手に決めるな
昨日、明かされた十年前の真実。悠真の死と、自分たちの結婚に隠されていた美緒の想いを知った蓮は、初めて彼女と正面から向き合う。守ることと、未来を勝手に決めることは違う。二人の関係が変わり始める中、さらに明かされる「あの日」の真実とは――。
翌朝。
目を覚ました瞬間、昨日の出来事を思い出した。
美緒の兄――佐伯悠真。
十年前。
俺を助けて、亡くなった少年。
そして。
俺と美緒の結婚は、その出来事から始まった。
「……」
胸が重い。
学校へ行く準備をしている間も、ずっとそのことが頭から離れなかった。
リビングへ行く。
いつもなら、美緒が朝食を作っている。
けれど。
「……いない?」
テーブルの上には、朝食が一人分だけ置かれていた。
そして、その隣にメモがある。
『先に学校へ行きます』
たったそれだけ。
「……逃げたな」
俺は小さく呟いた。
学校。
教室に入る。
美緒はもう席に座っていた。
「おはよう」
「……おはようございます」
いつも通りの挨拶。
でも。
目が合わない。
俺が席に座っても、こちらを見ようとしない。
「……」
俺はため息をついた。
昨日のことがあったんだ。
当然か。
それでも。
俺は話をしたかった。
昼休み。
「美緒」
「……」
彼女の肩が少し震えた。
「ちょっと話せるか?」
「今は無理です」
「いつならいい?」
「……いつでも」
「じゃあ放課後」
「……分かりました」
短い会話。
それだけだった。
放課後。
俺たちは誰もいない教室に残った。
窓の外は夕焼け。
机の影が長く伸びている。
「……何から話せばいいですか?」
美緒が先に口を開いた。
「昨日のこと」
「はい」
「なんで俺に全部話した?」
「……あなたが知ってしまったからです」
「そうじゃない」
「え?」
「もっと前から、言えたはずだろ」
美緒が黙る。
「十年前のことも」
「……」
「兄貴のことも」
「……」
「俺が助けてもらったことも」
「……はい」
「なんで黙ってた?」
美緒はしばらく窓の外を見ていた。
「……怖かったんです」
「何が?」
「あなたに知られるのが」
「俺が怒ると思った?」
「いいえ」
「じゃあ?」
「あなたが……優しくすると思ったから」
「……」
俺は言葉を失った。
「あなたは、昔からそうでした」
「俺が?」
「困っている人を見ると放っておけない」
「……覚えてない」
「私は覚えています」
美緒は微笑んだ。
「昔、兄があなたを助ける前にも、あなたは私に手を差し出してくれました」
「……?」
「私が転んだときです」
「そんなこと……」
「あなたは覚えていないでしょうね」
美緒は少し寂しそうに笑った。
「でも、私は覚えています」
そして。
「だから、あなたに嫌われようと思いました」
「……」
「あなたが優しい人だから」
「意味が分からない」
「優しい人ほど、自分を責めます」
美緒が俺を見る。
「あなたが兄の死を知ったら、きっと自分を責める」
「……」
「『自分のせいだ』って」
俺は何も言えなかった。
「だから、あなたには嫌われる必要があったんです」
「……俺に嫌われることで、俺を守ったつもりか?」
「はい」
「勝手だな」
美緒の表情が止まる。
「……そうですね」
「俺がどう思うか、聞いたことあるか?」
「……ありません」
「俺が何を選ぶか、聞いたことあるか?」
「……ありません」
「じゃあ――」
俺は一歩、彼女に近づいた。
「勝手に決めるなよ」
「……」
「俺を守るためだとか、俺のためだとか」
声が少し震えた。
「そういうの、もうやめろ」
「……でも」
「俺は、お前に守ってくれなんて頼んでない」
美緒の目に涙が浮かぶ。
「……ごめんなさい」
「謝るな」
「……」
「俺が自分で決める」
美緒は俯いた。
涙が床に落ちる。
「……怖いです」
「何が?」
「あなたが、本当のことを知ったら」
「知ったら?」
「私のことを嫌いになると思っていました」
「……」
「でも、今は……」
美緒が顔を上げる。
「嫌われるほうが怖いです」
俺の胸が強く鳴った。
「……美緒」
「名前で呼ばないでください」
「なんで?」
「……今、泣いているから」
「関係ないだろ」
「あります」
美緒は涙を拭う。
「こんな顔、あなたに見られたくない」
「もう何回も見てる」
「……そうでしたね」
彼女は小さく笑った。
帰り道。
俺たちは並んで歩いていた。
昨日までとは違う。
でも。
以前より近い。
「なあ」
「はい?」
「お前の兄貴のこと」
「……はい」
「俺が原因だったのか?」
美緒は首を振った。
「違います」
「でも――」
「兄は、自分であなたを助けたんです」
「……」
「あなたを助けることを後悔していません」
「どうして分かる?」
「最後に聞いた言葉があるからです」
「最後の言葉?」
美緒は前を向いた。
「『蓮を頼む』」
「……」
「それが、兄の最後の言葉でした」
俺は足を止めた。
「……俺を?」
「はい」
「お前に?」
「はい」
美緒が振り返る。
「だから私は、あなたを守ろうと思いました」
「……」
「でも、間違っていました」
「何が?」
「あなたを守ることと、あなたの人生を勝手に決めることは違うから」
俺は黙っていた。
しばらくして。
「……じゃあ」
「はい?」
「これからは俺にも選ばせてくれ」
美緒の目が少しだけ見開かれる。
「……何を?」
「全部」
俺は言った。
「結婚するかどうかも」
「……」
「お前とどういう関係になるかも」
「……」
「俺自身の気持ちも」
美緒は何も言わなかった。
ただ。
小さく頷いた。
「……分かりました」
その夜。
俺は自分の部屋で昔の新聞記事を読み返していた。
事故の記事。
悠真の名前。
俺の名前。
そして。
記事の端に、小さな一文があった。
『事故現場付近にいた第三者からの通報により、救助活動が開始された』
「……第三者?」
俺は記事を拡大した。
だが、名前は書かれていない。
誰が通報した?
俺はその疑問を抱えたまま、リビングへ向かった。
「美緒」
「はい?」
美緒はソファに座っていた。
「これ」
新聞記事を見せる。
「事故のとき、誰かが通報したって書いてある」
「……」
美緒の顔が変わった。
「知ってるか?」
「……はい」
「誰?」
美緒は答えなかった。
「美緒?」
「……私です」
「え?」
「私が通報しました」
「……」
俺は驚いた。
「当時、お前も現場にいたのか?」
「はい」
「じゃあ――」
記憶の中に、一つの映像が浮かぶ。
川岸。
泣いている女の子。
誰かに向かって叫んでいる声。
そして――
「……お前だったのか」
美緒は黙って頷いた。
「私が通報しました」
「じゃあ、お前も……」
「はい」
美緒は目を伏せた。
「兄が亡くなるところを見ていました」
「……」
俺は言葉を失った。
ずっと、俺だけが被害者だと思っていた。
俺だけが救われたと思っていた。
でも。
あの日。
美緒は兄を失った。
そして、その直後から。
俺を守ろうとしていた。
「……ごめん」
俺が言う。
「どうしてあなたが謝るんですか?」
「分からない」
俺は俯いた。
「でも……ごめん」
「謝らないでください」
「……」
「兄は、あなたを助けたことを後悔していません」
「でも、お前は――」
「私は……」
美緒は少し笑った。
「あなたが生きていてくれてよかったと思っています」
「……」
「本当に」
その言葉を聞いた瞬間。
胸の奥が締めつけられた。
俺は初めて。
美緒が十年間抱えてきた痛みのほんの一部を知った。
そして同時に。
俺の中にあった「美緒を守りたい」という感情が、はっきり形を持ち始めていた。
翌朝。
玄関。
「行ってきます」
「……はい」
美緒が笑う。
「気をつけてください」
「お前もな」
ドアを開ける。
俺は一歩外へ出た。
そして、振り返る。
「美緒」
「はい?」
「今日、帰ったら話したいことがある」
「……何でしょう?」
「秘密」
「……」
美緒は少しだけ頬を赤くした。
「分かりました」
俺は学校へ向かった。
まだ、自分の気持ちに名前をつけることはできない。
好きなのか。
同情なのか。
責任感なのか。
それとも――
もっと別の何かなのか。
ただ一つだけ。
確かなことがある。
俺はもう。
美緒に勝手に俺の未来を決めさせるつもりはなかった。
結婚するかどうかも。
離れるかどうかも。
そして――
この胸に生まれ始めた感情を、どうするのかも。
全部。
俺自身が決める。
その日の放課後。
俺はまだ知らなかった。
俺が美緒に伝えようとしていた言葉が。
彼女の運命を、もう一度大きく変えることになるなんて。




