第6話 俺が知らなかった過去
十年前の事故――。
それは、蓮と美緒を繋ぐ、忘れられた過去だった。
兄・悠真の死に隠された真実を知った蓮は、美緒が自分を遠ざけ続けた本当の理由を知る。
二人の関係は、ここから大きく変わり始める。
その日の夜。
俺は眠れなかった。
ベッドに入ってから一時間。
スマホを見ても眠くならない。
目を閉じても、昼間の美緒の言葉が頭の中をぐるぐる回っている。
――好きな人がいる。
――あなたには、一番言えません。
「……なんなんだよ」
俺は枕に顔を埋めた。
別に、知りたいわけじゃない。
そう思おうとした。
でも。
気になる。
ものすごく気になる。
そして何より――
あいつがその「好きな人」の話をするときだけ、なぜか寂しそうな顔をする。
「……俺の知ってる奴、か」
そう呟いたとき。
廊下から物音がした。
俺は起き上がった。
ドアを開ける。
リビングには誰もいない。
しかし、玄関の明かりがついていた。
「……美緒?」
靴がない。
外に出た?
時計を見る。
夜の十一時半。
「こんな時間に?」
俺は窓から外を見る。
マンションの下。
街灯の下に、美緒が立っていた。
誰かと話している。
「……?」
相手は――
知らない男だった。
俺は急いで玄関へ向かった。
だが、外へ出る前に二人は別れた。
美緒がマンションへ戻ってくる。
俺は廊下で待った。
「……何してたんだ?」
「……蓮?」
美緒が驚いた顔をする。
「こんな時間に外に出て」
「少し用事があっただけです」
「さっきの男は?」
「……」
美緒が黙る。
「知り合い?」
「はい」
「誰?」
「……あなたには関係ありません」
その言葉に、俺は少し苛立った。
「またそれかよ」
「……」
「『あなたには関係ない』って、最近そればっかりだろ」
「……ごめんなさい」
「謝ってほしいんじゃない」
美緒は目を伏せた。
「……本当に、関係ないんです」
「俺たちは同じ家に住んでるんだぞ」
「だからです」
「え?」
「これ以上、あなたを巻き込みたくないんです」
「……何に?」
美緒は答えなかった。
「美緒」
「……」
「何を隠してる?」
しばらく沈黙したあと。
美緒は小さく笑った。
「……何もありません」
「嘘だろ」
「嘘じゃありません」
「じゃあ、あの写真は?」
「……!」
美緒の顔が変わった。
「どうして、その話を……」
「この前見た」
「……」
「写真に写ってた男の子。誰なんだ?」
美緒の指が震えた。
「……兄です」
「兄?」
「はい」
「でも――」
俺は記憶を探る。
「俺、あいつを知ってる気がする」
美緒が顔を上げる。
「……」
「どこかで会ったことがある」
その瞬間。
美緒が言った。
「……如月くん」
「ん?」
「昔のことを、覚えていますか?」
「昔?」
「小学生の頃です」
「……あまり」
「そうですか」
美緒は悲しそうに笑った。
「なら、そのほうがいいです」
「なんで?」
「……何でもありません」
翌日。
学校では、俺はずっと昔のことを考えていた。
小学生の頃。
何があった?
俺の記憶には、一つだけ曖昧な場面がある。
夏。
強い日差し。
川。
そして――
誰かに腕を引っ張られた感覚。
「……」
頭が痛い。
思い出せない。
「如月くん」
美緒の声。
「大丈夫ですか?」
「ああ」
「顔色が悪いですよ」
「ちょっと昔のことを考えてた」
「……昔?」
「ああ」
美緒の表情が一瞬だけ固まった。
「何でもない」
「そうですか」
美緒はそれ以上聞かなかった。
でも。
その日の昼休み。
俺は偶然、先生たちの会話を聞いてしまった。
「佐伯さんのお兄さんのこと、もう十年になるのか」
「そうですね……」
「本当に、あの事故は……」
俺は足を止めた。
「……事故?」
先生たちは俺に気づき、話をやめた。
「如月、どうした?」
「佐伯さんのお兄さんって……」
先生が黙る。
「何かあったんですか?」
「……君は知らないのか?」
「何を?」
先生は少し迷ってから言った。
「佐伯くんは――」
その先を聞く前に。
「先生」
背後から声がした。
美緒だった。
「その話は、しないでください」
「佐伯……」
「お願いします」
美緒は頭を下げた。
「……分かった」
先生が立ち去る。
俺は美緒を見る。
「事故って何だ?」
「……」
「お前の兄貴に何があった?」
「忘れてください」
「無理だろ」
「お願いします」
「美緒――」
「蓮」
突然。
彼女が俺の名前を呼んだ。
その声は震えていた。
「……お願いだから、これ以上調べないで」
「どうして?」
「あなたが知ったら……」
美緒は唇を噛んだ。
「……私のこと、もっと嫌いになるから」
「……」
そう言って、美緒は去っていった。
放課後。
俺は一人で図書室にいた。
昔の新聞記事を調べる。
佐伯。
十年前。
事故。
地域名。
いくつかのキーワードを入れる。
「……あった」
古い新聞記事。
そこには、十年前に起きた事故について書かれていた。
『河川敷で発生した事故。少年が同年代の少年を救助後、死亡』
俺は記事を読み進める。
名前が書かれていた。
佐伯悠真。
美緒の兄。
そして――
事故当時の被救助者。
その名前を見た瞬間。
「……如月蓮?」
俺の名前が載っていた。
「……俺?」
手が震えた。
記事には詳しいことは書かれていない。
ただ。
佐伯悠真が川に落ちた少年を助け、その後流された。
少年は無事だった。
――その少年の名前が、如月蓮。
「……嘘だろ」
俺は椅子から立ち上がった。
頭の中に、断片的な記憶が流れ込んでくる。
水。
冷たい。
息ができない。
誰かが叫んでいる。
そして――
誰かの手。
俺の腕を強く掴んでいる。
『蓮、逃げろ!』
「……っ!」
頭が痛い。
俺は額を押さえた。
そして、思い出した。
あの日。
俺は川に落ちた。
そして。
俺を助けてくれた少年がいた。
その少年は――
美緒の兄だった。
その日の夜。
俺はマンションに戻った。
リビングには美緒がいた。
テーブルの上には、夕食が二人分。
「……おかえりなさい」
「ただいま」
俺は椅子に座った。
「今日は、あなたの好きなものを作りました」
「……そうか」
「どうしました?」
「美緒」
「はい」
「お前の兄貴――」
美緒の手が止まる。
「俺を助けたんだな」
「……」
美緒は何も言わなかった。
「俺、思い出した」
「……」
「十年前のこと」
美緒の瞳に涙が浮かぶ。
「……そうですか」
「ああ」
「……なら」
美緒は静かに笑った。
「もう、隠す必要はありませんね」
「何を?」
美緒は席を立った。
そして自分の部屋へ向かう。
しばらくして。
一枚の写真を持って戻ってきた。
あの日、俺が見た写真。
幼い俺。
幼い美緒。
そして、悠真。
「兄は――」
美緒が写真を見つめる。
「あなたを助けて亡くなりました」
「……」
「だから、私の家族はあなたの家族に恩があります」
「恩?」
「はい」
美緒は続けた。
「でも、それだけじゃありません」
「……?」
「私の両親は、あなたの家族に責任を取らせようとしました」
「責任?」
「兄が死んだのは、あなたを助けたからです」
「……」
「だから――」
美緒の声が震える。
「両家の間で、昔から約束があったんです」
俺は嫌な予感がした。
「まさか……」
美緒が頷く。
「私たちの結婚です」
「……」
「兄の死をきっかけに、両家の関係を繋ぎ直すための約束」
俺は言葉を失った。
結婚。
俺と美緒。
全部、偶然じゃなかった。
「……だから、お前は俺を嫌わせようとしたのか?」
「……はい」
「俺に嫌われれば、結婚を断れると思った?」
「はい」
「だから、ずっと……」
「はい」
美緒は涙を流した。
「あなたには、私の兄の死を背負ってほしくなかった」
「……」
「あなたが私に罪悪感を持つのも嫌だった」
「美緒……」
「だから、嫌な女になりました」
彼女は笑おうとした。
でも。
うまく笑えなかった。
「あなたが私を嫌ってくれれば、それでいいと思っていました」
「……」
「そうすれば、あなたは普通の人生を送れるから」
俺は何も言えなかった。
そして美緒は、最後に小さく呟いた。
「……なのに」
「え?」
「あなたが優しくするから」
涙が一粒、頬を伝う。
「あなたが私の料理を美味しいって言うから」
また一粒。
「私が泣いているとき、何も聞かずに隣にいてくれるから」
「……」
「……私のことを、嫌いになってくれないから」
美緒は顔を伏せた。
「困るんです」
声が震える。
「私は、あなたに好きになってもらう資格なんてないのに」
俺は立ち上がった。
「美緒」
「来ないでください」
「……」
「今、あなたに優しくされたら……」
美緒が涙を拭う。
「私、本当にあなたのことを――」
そこで言葉が止まった。
「……何でもありません」
美緒は自分の部屋へ逃げるように入っていった。
ドアが閉まる。
俺は一人、リビングに残された。
テーブルには、二人分の夕食。
その隣には、古い写真。
俺は写真を手に取った。
幼い頃の俺。
美緒。
そして悠真。
俺はずっと、自分が誰かに救われたことすら忘れていた。
なのに。
美緒は十年間、その記憶を一人で抱えていた。
「……馬鹿だろ」
俺は写真を見つめる。
「なんで一人で全部背負ってんだよ……」
その夜。
俺は初めて、美緒のことを「嫌いな女子」として見ることができなくなっていた。
そして同時に。
胸の奥に、別の感情が生まれていることにも気づき始めていた。
――だけど。
それが何なのか。
俺はまだ、認めたくなかった。




