第4話 完璧な彼女の泣き顔
誰からも「完璧」と言われる佐伯美緒。
けれど、誰にも見せない弱さを、蓮の前でだけ見せるようになっていた。
雨の日の帰り道、こぼれた涙。
翌朝に渡された小さな弁当。
二人の距離は、少しずつ変わり始めていた。
佐伯美緒は、誰から見ても完璧な女子だった。
成績は学年トップ。
先生からの信頼も厚い。
体育の授業では男子にも負けないくらい足が速い。
そして、誰に対しても礼儀正しい。
だからクラスメイトたちは、彼女のことをこう呼んでいた。
――完璧な佐伯さん。
俺も以前は、そう思っていた。
でも。
同居生活が始まってから、少しだけ見方が変わった。
料理を失敗すると、こっそり焦げた部分だけ捨てる。
眠いと、朝食を食べながら五分くらいぼーっとする。
苦手な虫を見ると、ものすごい勢いで逃げる。
そして、意外と負けず嫌いだ。
「……だから、そこは違います」
「またかよ」
昼休み。
俺は数学の問題集を見ながら、美緒と向かい合っていた。
「計算の途中で符号が変わっています」
「え?」
「ここです」
美緒が俺のノートを指差す。
「ここでマイナスになるんです」
「……本当だ」
「だから言ったでしょう」
「はいはい」
「『はいはい』ではありません」
「分かったよ、先生」
「誰が先生ですか」
美緒が少し頬を膨らませる。
「……」
俺は思わず笑った。
「何ですか?」
「いや」
「何ですか?」
「最近、お前って意外と子供っぽいな」
「……失礼ですね」
美緒は俺を睨んだ。
でも。
その表情は、どこか楽しそうだった。
そのとき――
「佐伯さん!」
教室の前の扉から女子が呼んだ。
「今日の放課後、委員会あるよ!」
「あ……」
美緒の表情が一瞬だけ曇った。
「分かりました」
彼女は立ち上がった。
「行ってきます」
「おう」
美緒は教室を出ていった。
俺はその背中を見送る。
ほんの一瞬。
あいつの顔に、疲れたような表情が浮かんでいた。
* * *
放課後。
俺は先に帰ろうとしていた。
昇降口へ向かっていると、廊下の掲示板に張り紙があった。
『文化祭実行委員・追加会議』
そういえば、美緒は文化祭の実行委員だった。
「……大変そうだな」
俺には関係ない。
そう思って、そのまま帰ろうとした。
だが。
なぜか足が止まった。
昨日、美緒が電話で話していたこと。
最近、彼女が時々見せる疲れた顔。
そして、あの古い写真。
「……気になるんだよな」
俺はため息をついた。
「ちょっとだけ見ていくか」
教室へ戻る。
しかし、会議が行われているはずの教室には誰もいなかった。
「……?」
隣の準備室から声が聞こえる。
「佐伯さん、これ全部一人でやるつもり?」
「はい」
「でも、量が多すぎるよ」
「大丈夫です」
「最近、家のこともあるんでしょう?」
「……大丈夫です」
俺はそこで立ち止まった。
家のこと?
何の話だ?
そっと扉の隙間から覗く。
そこには美緒がいた。
机の上には大量の書類。
文化祭の予算表。
参加団体の資料。
会場の配置図。
全部、美緒が一人で整理している。
「じゃあ、私たちは先に帰るね」
「はい。お疲れさまでした」
女子たちが部屋を出ていく。
美緒は一人になった。
そして。
「……」
深く息を吐いた。
肩が落ちる。
さっきまでの完璧な表情が消えた。
「……疲れた」
俺は驚いた。
美緒がそんなことを言うなんて、初めて聞いた。
彼女は椅子に座り、机に突っ伏した。
「……少しだけ」
目を閉じる。
そのまま動かなくなった。
俺はそっと扉を開けた。
「佐伯」
「……!」
美緒が顔を上げる。
「如月くん……?」
「まだ帰ってなかったのか」
「あなたこそ」
「忘れ物」
「そうですか」
美緒はすぐに姿勢を正した。
いつもの顔に戻る。
「私はまだ仕事があるので」
「見れば分かる」
「先に帰ってください」
「手伝う」
「え?」
「これ、一人でやる量じゃないだろ」
「でも――」
「俺も文化祭の実行委員だろ」
「あなたは名簿だけですよね」
「……」
「違いましたか?」
「細かいことはいいんだよ」
俺は隣の椅子を引いた。
「どれやればいい?」
美緒はしばらく黙っていた。
やがて。
「……では、この資料を日付順に並べてください」
「了解」
「それと、この表の数字を確認してください」
「分かった」
「間違えないでくださいね」
「お前な……」
俺たちは並んで作業を始めた。
それから一時間。
「終わった……」
「お疲れさまでした」
美緒が小さく笑う。
「助かりました」
「珍しいな。お前が俺に感謝するなんて」
「失礼ですね」
「冗談だよ」
「……でも」
美緒が俺を見る。
「ありがとうございます」
今度は、ちゃんと笑っていた。
* * *
学校を出る頃には、空が暗くなっていた。
雨が降っている。
「最悪だな」
俺は昇降口で空を見上げた。
「傘は?」
「持ってません」
「お前も?」
「はい」
「……」
俺は鞄から折り畳み傘を出した。
「一緒に入るか?」
「え?」
「このままだと濡れるだろ」
「でも……」
「嫌ならいいけど」
「……嫌ではありません」
美緒が傘の中に入る。
肩が触れそうな距離。
近い。
かなり近い。
「……」
「……」
沈黙。
雨の音だけが聞こえる。
「如月くん」
「ん?」
「今日、どうして手伝ってくれたんですか?」
「別に」
「理由になっていません」
「……お前が疲れてそうだったから」
美緒が黙った。
「……そうですか」
「何?」
「いえ」
彼女は前を向いた。
しばらくして。
「あなたは、意外と優しいですね」
「意外って何だよ」
「普段はもっと嫌な人なので」
「お前にだけは言われたくない」
美緒が笑う。
「ふふっ」
「何だよ」
「少し嬉しくて」
「何が?」
「……秘密です」
そう言って、彼女は傘の中で少しだけ俺に近づいた。
マンションに帰った。
夕食を食べたあと。
俺はリビングのソファでテレビを見ていた。
美緒はキッチンで皿を洗っている。
「なあ」
「はい?」
「今日、疲れてるなら洗い物は俺がやるぞ」
「大丈夫です」
「またそれか」
「何がですか?」
「『大丈夫』って言うところ」
美緒の手が止まった。
「……」
「学校でも言ってたろ」
「……」
「今日の仕事だって、全部一人でやろうとしてた」
「それは――」
「無理してるだろ」
美緒はしばらく黙っていた。
「……私は」
小さな声。
「昔から、そうしないといけなかったんです」
「何を?」
「ちゃんとしていることを」
美緒は水を止めた。
「失敗したら、誰かが困るから」
「……」
「弱音を吐いたら、誰かを心配させるから」
「……美緒」
俺が名前を呼ぶ。
彼女が振り返った。
その瞬間。
一滴。
頬を涙が伝った。
「……あ」
美緒自身も驚いている。
慌てて手で拭う。
「すみません」
「謝るなよ」
「……」
「泣くくらい、別にいいだろ」
「……でも」
次の涙が落ちる。
美緒は顔を背けた。
「見ないでください」
「……分かった」
俺は視線を逸らした。
「じゃあ、俺はテレビ見てるから」
「……はい」
「泣き終わったら戻ってこい」
「……はい」
しばらくして。
小さな声が聞こえた。
「……ありがとうございます」
* * *
その夜。
俺はなかなか眠れなかった。
頭の中に、今日の美緒の泣き顔が残っている。
学校では絶対に見せない顔。
クラスメイトには知られていない顔。
そして――
なぜか俺には見せた。
「……なんなんだよ」
俺は天井を見上げる。
あいつは俺を嫌っている。
俺も、あいつを嫌っていた。
少なくとも、つい最近までは。
でも。
俺は知らなかった。
美緒が、誰にも見せない顔を俺の前でだけ見せる理由を。
* * *
翌朝。
俺が学校へ向かう準備をしていると、美緒が玄関にやってきた。
「蓮」
「……ん?」
「これ」
彼女が小さな弁当箱を差し出した。
「昨日のお礼です」
「これ、俺の?」
「はい」
「……ありがとう」
受け取る。
美緒は少し恥ずかしそうに目を逸らした。
「学校では、いつも通りにしてくださいね」
「分かってる」
「では」
玄関のドアを開ける。
俺が先に出る。
そして数秒後、美緒も外へ出てくる。
いつものように、少し距離を空けて歩く。
学校に近づいたところで。
「じゃあな」
「はい」
そこで俺たちは別れた。
数分後。
教室。
「おはようございます」
美緒が入ってくる。
いつもの完璧な表情。
いつもの冷静な声。
クラスメイトたちが挨拶する。
「おはよう、佐伯さん」
「おはようございます」
俺も声をかける。
「おはよう、佐伯」
「……おはようございます。如月くん」
いつもの俺たち。
誰も知らない。
昨日、一緒に雨の中を歩いたことも。
同じ家で夕食を食べたことも。
彼女が俺の前で泣いたことも。
そして――
彼女が俺に弁当を作ってくれたことも。
「……」
俺は少しだけ弁当箱を見る。
すると。
美緒と目が合った。
一瞬。
ほんの一瞬だけ。
彼女は笑った。
俺も、つられて笑った。
――その瞬間だった。
「……あれ?」
クラスの女子が俺たちを見て首を傾げた。
「やっぱり二人、最近ちょっとおかしくない?」
俺と美緒の笑顔が同時に消えた。
「「おかしくない」」
また、声が重なった。
教室に笑い声が響く。
けれど。
誰にも見えないところで。
美緒は机の下で、自分の手をぎゅっと握っていた。
そして心の中で、静かに呟く。
――だめ。
これ以上、蓮に近づいたら。
本当に、嫌われたくなくなってしまう。




