第四章十五話「好きな人」
「ああー。生き返るぅー」
魔物を軽く三桁は屠った勇者は、村で唯一の宿である温泉に肩まで浸かってリラックスしていた。
何度入っても温泉というのはいいものだ。しかも友人と一緒なのだから、その良さもより一層強くなる。
「お湯につかるというのはこうも安らぐのですね。お兄様にもお知らせしないと」
琥珀の隣に座るイオアネスもふぅと一息ついていた。
琥珀は最前線で剣を振るうからか、無駄のない肉つきで身体中に小さな傷がある。運動ばかりしているせいで胸も小さくなった。確か脂肪の一部らしいから、仕方ないといえば仕方がない。そもそも大きいわけではなかったのだし。
イオアネスも琥珀と同じ前線で活躍するタイプのはずなのに、彼女の体は出るところは出て締まる部分はきゅっと引き締まっていた。なんだかとてもずるい。
ちなみに当然ながら二人とも全裸である。さらに余談であるがタイプこそ違うが二人とも美人である。さらにさらに余談であるが二人にはそれぞれ非公式のファンクラブが存在している。
本人たちに自覚はないが、一部界隈では彼女たちが浸かった温泉の価値はうなぎのぼりに上がっていった。一年後には温泉街として村の規模は何倍にも膨れ上がるほどだ。
「温泉って言ってね。地下水が温められてできるらしいよ」
「詳しいですわね。これもコハクの世界に?」
「うん。観光名所になってたよ」
琥珀自身が温泉に行ったことはほとんどない。だけど温泉の話題になった途端に圭太が饒舌になっていたので、いつか一緒に泊まりに行きたいとよく夢見たものだ。
余計なことまで思い出してしまった琥珀は、温泉のせいではない理由で頬を赤く染めた。
「コハクの世界はなんでもあるのですね」
「ううーん。この世界と比べれば色々あるかもしれないね。ボクとしては魔法のほうが魅力的だと思うけど」
琥珀はイオアネスの言葉に難色を示した。個人的には魔法があるほうがよっぽど羨ましいと思う。
「そうですか?」
「隣の芝は青いってやつだよ」
琥珀は苦笑して言うと、イオアネスは首を傾げていた。
そう言えばことわざのほとんどはこの世界で通用しないんだっけ。
琥珀はちょっと反省して、知らない言葉の意味を必死に脳内で照合しているイオアネスに何でもないと首を振った。
「コハクの世界のこと、もっと教えてほしいですわ」
「ん? でも……」
「文化がおかしくなるかもしれない、ですか?」
イオアネスが琥珀に寄り添い、ことんと首を傾げて上目遣いになる。
異性なら瞬殺するおねだりだ。だけど琥珀は難色を示して、首を縦には振らなかった。
「うん。同じ世界ならまだしもまったく違う世界の話だからね。魔法もなかった世界だし、代わりに発展したものもバランスを崩すと思うんだよ」
例えば自動車。
車があれば流通は劇的に変わる。何せこの世界の主力交通は馬車だ。速度から見ても一度に運べる馬力から見ても車があれば天地がひっくり返るだろう。
科学をこの世界に広めるのは簡単だ。琥珀が理科の授業で習ったことを教えるだけでも数段跳びで世界は進歩するだろう。
だけど考えなしでしていいことではないと琥珀は考えていた。
魔法の世界に科学を持ち込む。それは世界を改変する行為。言い換えれば一度世界を壊すことと同義だ。
「魔法の代わりに発展した力。ちょっと、いやかなり気になりますわ」
指導者として世界を背負っている一族として、イオアネスは興味深そうに唸る。
「だろうね。武器だけでもあれば魔王を倒せるかもしれないし」
「そうなのですか!?」
「残念だけど教えないよ。教えられるほど詳しいわけでもないし」
例えば銃を兵士たちに支給すれば戦争にも負けないだろう。魔王がどれだけ強かったとしても核弾頭の前では無力に等しい。
しかしどれだけ興味があるからと聞かれても琥珀は詳しく答えられない。原理はともかく、作成にあたる細かい理論をただの女子高生が知っているはずがないのだから。
「それは残念ですわ。魔王を倒せる力さえあればコハクを召喚せずに済みましたのに」
「そんなにいいことばかりじゃないよ。向こうの世界じゃ一度戦争が起これば世界が滅亡するって言われていたし」
「それだけ強大な力なのですか。ますます気になりますわ」
核戦争が起これば世界が滅びると言う都市伝説を知っている琥珀は何とも言えない顔になる。しかしイオアネスはますます興味をそそられたとばかりにあごをさすった。
「それに、イオとも会えなくなるしね。イオはボクと会えなくてもいいのかな?」
「そんなことありません!」
「うわっ」
鼻同士が当たるぐらいまでイオアネスの体が近付き、琥珀は驚きの声をあげる。突然動いた二人の肢体が水しぶきをあげた。
「――コホン。失礼」
すぐに我に返ったイオアネスは咳ばらいをしながら琥珀から離れ、隣に座り直す。
「珍しいね。イオがそんなに声を荒げるなんて」
「当然です。わたくしにとってコハクは大切な人なんですから」
イオアネスはまだ眉間にしわを作っていて、不満そうにしていた。だけど多分聞いても答えてはくれないだろう。
イオアネスは割と自分一人で感情を抱え込む性格だ。聞いたところで何でもないと言われ、しかも一旦離れようと距離を取られるのは間違いない。
「ボクもだよ。イオがいてくれなかったらボクはきっと挫折してた」
「そんなことはありませんわ。コハクは強いですもの」
「強くないよ。ボクは普通の人間だ。皆がいなければ一人で歩き出せない怖がりなんだよ」
皆に引っ張ってもらって、退路を塞いでやっと前に進めるような弱い人間だ。イオアネスが思っているような強い人じゃない。
「いいえ。コハクは強いですわ。むしろ弱いのはわたくしのほう。コハクがいなければ一生王宮から出られなかったでしょうから」
「だってイオはお姫様じゃないか。皆のために働くのが仕事でしょ?」
「いいえ。お兄様がいますわ。わたくしはあくまでもお兄様の保険ですから、仕事なんてあってないようなものなのです」
王族の詳しい役目を琥珀は知らない。だから彼女が言う保険という言葉もいまいち理解できないでいた。
イオアネスはエドワード王の妹である。当然王位はエドワードなので執権も兄が持っている。イオアネス一人でできる仕事といえば多忙な兄の代わりに顔を晒すぐらいだ。
そしてイオアネスは妹として、王に何かあった場合の臨時指導者としての役目を持っていた。サンが話していたエドワード失踪事件のときは代理として混乱をできるだけ抑えたのは他ならぬイオアネスだった。
一人では大したことができず、政治が上手く回らなくなったときのための補助である彼女。イオアネスはそんな自分こそ弱いと思い込んでいた。
「それでもボクは強いと思うよ。交渉だけじゃなく戦う力もある。判断力も優れているし魔法に対する知識だって持っている。イオがいてくれたおかげで助かった場面は数えきれないよ」
「広く浅く学んだだけです。交渉にはクリス、魔法にはキテラがいますし戦闘ではサンに勝てない。それに判断力ではコハク、あなたには遠く及びませんわ」
交渉でクリスに勝てるわけがない。シスターとして人の話を聞くことこそが仕事である彼女は相手が何を求めているかすぐに理解できる。交渉で相手の望みが分かるのは大きな利点だ。
人間でキテラより魔法に詳しい者はいないし騎士であるサンは戦いこそが本業だ。イオアネスだけではなく琥珀だってそう簡単には勝てないだろう。
「そんなことは」
「ありますわ。だってわたくしは判断ミスを抱えたまま旅を続けているんですもの」
琥珀が否定しようとするとイオアネスに言葉を重ねられてしまった。
「判断ミス? 何かあったっけ?」
分からない。記憶にないということは、少なくとも旅において琥珀たちに迷惑をかけるような類ではないはずだ。
なのにミスだなんて、なんだか気になってしまう。
「ありますわ。コハクには言えませんが」
「ボクたちに関係はある?」
「あります。コハクは当事者と言ってもいいですわ」
迷惑をかけられた覚えはないのに、当事者だと言われてしまった。ますます気になってしまう。
「だったら教えてほしいな。ミスだって言うなら、ボクにも手伝えるかもしれないし」
「無理ですわ」
「やってみないと分からないよ」
「いいえ。絶対に無理ですわ」
「どうしてそんなことが言い切れるの?」
頑なに拒否されて、しかも絶対に無理とまで言われて琥珀はむっとした顔になる。
琥珀は負けず嫌いである。無理だと言われたら余計と燃えてしまうような難儀な性格の持ち主なのだ。
「だってわたくしは――」
「わたくしは?」
琥珀の圧に押されてか、イオアネスは観念したように口を開ける。
琥珀が言葉を繰り返すと、イオアネスの頬には温泉に入っているのとは別の理由で頬を上気させた。
「コハクを好きになってしまったのですもの」
「………………えっ?」
真っ赤になったイオアネスの意を決した告白。
その内容があまりにも予想外過ぎて、琥珀は一瞬言葉の意味を理解できなかった。
「わたくしはコハクが好きですわ。自分を犠牲にしてでも誰かを助けようとするあなたが、何をされても笑って助けるようなあなたが、わたくしは大好きなのです」
イオアネスはずっと琥珀の隣にいた。
ただでさえ初恋キラーと呼ばれるほどの整った顔立ち。それもイケメン美少女だ。見た目だけでも惚れる要素はある。
しかも琥珀の隣にい続けたということは、琥珀の性格を見せつけられたということだ。
純粋なる善人の誰であろうと嫌悪感を抱かせない好意的な態度を、ずっと間近で浴び続けてきたのだ。
もしも琥珀に心惹かれない人間がいたとすればそれはよっぽどのひねくれものに他ならない。例えば、魔王に召喚されるような特異な人間とか。
「それは、友人として?」
「いいえ。お兄様と同じく、一生を添い遂げたいという感情ですわ」
「恋愛感情ってことだね。女同士……ってのは関係ないか」
世間一般で言う常識というものは真剣な感情の前では障害にこそなっても助けになることはない。
琥珀は口から出そうになった常識を呑み込んだ。断る理由としてはもっとも堅実でもっとも不適当だと思ったからだ。きっと琥珀に言われるまでもなく、イオアネスは考えていることだろう。
「ボクには好きな人がいる」
「知ってますわ。でも――」
「分かった。関係ないんだね」
琥珀の想いが彼女に向いていないことも理解している。それでもイオアネスは告白してくれたのだ。
そこまで理解しているのなら、常識なんて下らない理由を使いたくないのと同様で他人を理由に断りたくない。余計なものは考えず、ちゃんとイオアネス個人と向き合った答えを出すべきだろう。
「答えは、ごめん。今は出せない」
そして琥珀にはまだその答えが出せる状況ではなかった。
「魔王を倒してボクは元の世界に帰りたい。だけどそれはこの世界でボクの記憶がなくなることになるらしいんだ」
「そんな……」
「イオの想いには応えたい。ボクは勝手に友人以上の存在だと思ってるから悲しませたくはない。エドワード様と話し合いにはなるけど」
琥珀は場を和ませるために苦笑いを浮かべた。
先に求婚してきたのはエドワードだ。どちらが琥珀と付き合うのかは兄妹で話し合ってもらわないといけない。琥珀には選べないほど魅力的な二人だ。自分には勿体ないとすら思ってしまう。
「迷ってるんだ。帰りたいのに皆に忘れ去られたくない。どちらかしか選べないのに、両方が欲しいんだ」
場を和ませたかったのは、自分の弱みをあまり見せたくなかったからだ。
元の世界に帰りたい。圭太を止められるのは自分だけだ。好意そのものが薄れたとしてもその気持ちだけは変わらない。
だけど、この世界から離れるのも嫌だと思い始めていた。すべてを捨て、すべて捨てられるにはあまりにも大切なものが増えすぎた。
どちらの世界も捨てられず、その結果琥珀は悩んでいた。答えは簡単に出ないだろう。
何か決定的なできごとでも起きない限りは。
「……いいんですよコハク」
顔をしかめ、いつしか力がこもっていたこぶしにイオアネスが手を重ねる。
「わたくしは答えを求めていません。この想いは間違っているのですから」
「それは違うよ。誰かを好きって気持ちに間違いはないんだ」
悲痛な顔で自分の気持ちを否定するイオアネスの肩を掴み、琥珀は首を振る。
「ボクだって恋する乙女なんだから、そこは譲れないよ」
恋とは尊いもので、人種とか生まれとか性別とか、そんなものは問題じゃないんだ。
世界が変わっても変わらない価値観で、琥珀は断言した。




