040
ノックの音が響いたのは、満面の笑顔のアイルに脱力したところだった。
「ミア、入るわね」
呼びかけと同時にひょいと姿を見せたメリアは、靴を履いたままベッドの上で半胡坐の息子へキリリと眉を跳ね上げる。
「汚いものをミアのベッドに乗せないでちょうだい!」
「え、その理屈でいうと俺が汚いもの扱い?」
「間違ってるかしら」
「さすがにそこまで言われるとは思ってなかったなあ……」
ちょっと悲しい、ミア慰めて。
ぼやきつつクッションにもたれたミアに体重をかけようとするのを、ミアは両手で精いっぱい押しやり荷重の軸をずらすことでかろうじて回避した。
どれだけ体重差があると思っているんだこの人は。
「重いから嫌」
「ミアにまで拒絶されるなんて」
「はいはい」
ベッドサイドに寄りかかったまま両手で顔を覆う兄の肩を、投げやり気味にぺちぺち叩いていると、嘆きの声がカエルを絞めたような声に変化した。
「いいから、はやく、下りなさいっ!」
ミアの目の前で、アイルの背が不自然にのけぞり、あっという間にベッド上から床へ転がり落とされる。
大きな身体で阻害されていた視界が開けると、そこには強引に襟首を掴んだメリアと、ねじ込まれた指と引き攣れた襟元で呼吸困難気味のアイルの姿があった。
あ、結構本気で顔色が悪い。
「母さん、ちょっと、本気で絞まってる」
「絞めてるんですもの、当たり前でしょう」
「ミアの目の前で、刃傷沙汰はどうかな……」
「刃物は使ってないから、当てはまらないわね」
「おかーさま、俺が悪かったから。ミアなんとかしてー」
いつも思うのだが、多少以上本気で怒っている母を前にしても自分のスタイルを貫こうとする兄は、ある意味すごいと思うのだ。
決して真似をしたくない、駄目な部類のすごさだが。
ミアの正直な意見に、アイルは投げ出された床の上へ胡坐をかいて曖昧な表情を浮かべる。
解放されたばかりの喉を撫でつつ、アイルは複雑な視線をミアへ向けた。
「それ褒めてないよねえ?」
「いえ、今度は少しは褒めてますよ……?」
「言葉遣いに距離を感じるなあ……」
「あなたと精神的な距離があるのは、良いことだと思うわ。ミア、絶対にこんなのを真似しちゃだめよ?」
兄を放り出し、空いたスペースにはちゃっかりと母が陣取っていた。
ひしとミアを抱きしめ、頬ずりするのはいつものことだが、その速度と回数がいつもより上乗せされているのは気のせいだろうか。
(心配かけた反動なのかなぁ)
そう考えると、いつものように適当なところで声をかけて切り上げてもらうのも気が引ける。
というより。
なんだろう、このカオスな空間。
床に座り込んだままのアイルは、半分愚痴りつつミアの足元付近でベッド上へ突っ伏し気味にだらけており、枕元にはミアを抱き込んだまま頬ずりを止めないメリアがおり。
そして、数歩離れた位置にはそれを微笑ましく眺めるトールが……トールがいるのだが。
「アリストル、これは……」
「私の家族の団らんだよ、楽しいだろう?」
「これが……?」
……ええと。
一見、少々殺伐として見えるやりとりに動じもせず微笑む父はいつも通りなのだが。
その隣で、愕然としたように強張った視線をこちらへ向けているそちらは――どなた?
*****
当初、父の同僚だと紹介された客人に、ミアはしばらく言葉もなかった。
いつもと変わらぬ笑みで客人を紹介した父は、さらりとそれを口にするが、それはつまり気難しげなこの御仁も『中央院所属』ということではないか。
「タクト・ディド・ラクラウ」
名前だけのわずかに唸るような名乗りに、ミアは慌てて居住まいを正し、わずかに目を伏せる。
メリアに抱き込まれたままだが、エリート、しかも父の仕事仲間となれば多少は格好をつけるべきだろう。
「初めてお目にかかります。ファミアーシュ・リスタ、ヘイアースの養い子でございます」
「もー、やだミアったら。養い子だなんてそんな名乗りは寂しいじゃない」
「母様、でも」
「大体ね、ここまで連れてきてるんだからそこから察しなさいな。ディドには特に身構える必要なんてないの」
言われてみれば、その通りか。
愛弟子であるはずのナルスに対してさえ、対応場所が応接室を脱して書斎へ移動したのはつい先日のことだ。
屋敷の奥、しかもミアが療養するこの部屋で、先ほどのカオスなやりとりを初手から晒すという相手なら、よほど信頼しているということなのだろう。
ナルスの場合は、巻き込まれたくないと逃げ出している可能性も考えられるが。
それはさておき、両親からの信頼はともかく自分がどこまで踏み込んでいいか、踏み込ませて良いかはわからない。
いざとなればトールたちからの制止もかかるだろうが、それなりに慎重にはなっておくべきだろう。
淡い弱灯に目を眇めた客人へ、ミアはそっと困ったような笑顔を見せた。
「あの、こんな格好ですみません」
「いいや、療養中だとは聞いている。それより、招かれたとはいえ未婚女性の私室にお邪魔して、こちらこそ申し訳ない」
眉間にしわを刻んだままの気難しげな青年は、その表情や声音と裏腹にひどく丁寧な姿勢でミアへ謝罪を口にする。
まだまだ幼い見た目の子供に対するには、少々丁寧過ぎないだろうか。
あるいは両親がここまで連れてきた人物ということは、ミアの事情を多少なりとも話しているということか。
事情を掴めず戸惑うミアの表情をどう捉えたか、客人は特徴のある長い耳をわずかに震わせ重々しく頷く。
「年齢がいくつであろうと、未婚女性は未婚女性。それに相応しく節度ある態度をとるのが私の主義だ」
「……ありがとう、ございます?」
どう反応すべきか悩むだろう、これは。
とりあえずここはひとつ、日本人特有の『笑顔で回避』しかない、と判断したミアは曖昧な笑みで頷くにとどめた。
「気にすることないわ、ミア。ディドのこれは、今までの経験からくるものだから」
「……、極めて私的なことだ。気にしないで欲しい」
重いわー。その発言前の沈黙重いわぁぁ……。
元々気難しい面持ちのうえに、憮然とした雰囲気が加わるとますます重い。心持ち短めの銀糸が青年に硬質な印象を与えて、更に纏う印象が堅いものとなる。
ただでさえ、両親と並んで遜色ない美形だというのに、それをやられると周囲への威圧感が半端ないのだが。
そう。
恐ろしいことに、この客人はヘイアース家の三人と同席しても違和感がないほどの美貌の持ち主だった。しかも、この気難しい表情のままというのに、だ。
これでうっかり微笑みなどしたら、両親も顔負けのイケメンオーラ全開なのではないだろうか。
下手をすれば死人が出る勢いだろう。心臓麻痺でぽっくりとか、ありえそうなところが怖い。
(うかつな美形っていうのは、ある程度規制されるべきなんじゃないかな……。野放しにしたら絶対危険だってば)
いずれにしても、エルフというのはどの世界でも美形というのが鉄板なのだな、とミアは何かが麻痺しかかった脳内でぼんやり思考を転がしていた。
サイアニアスでは、エルフのことを「森人」と呼ぶらしい。
竜人ほどではないが希少種族のひとつで、法術に長けた温和な気質ながら、争いを回避することから大勢の人間との関わりを好まない性質で――要するに、地域引きこもりなレア種族だそうだ。人間に混じって活動している森人もそう多くはなく、研究者や文官が主らしい。
現在そのレアな存在に絶賛絡み中なのは、ミアの傍から離れないメリアだ。
「森人ってどうしてあんなに出不精なの?」
「私に尋ねられても困る」
「でも、ディドだって普段は書庫から出てこないじゃない」
「あれは仕事だ」
「それでも、年単位って酷過ぎると思うわよ」
「食事には出ている」
「それって、書庫の隣にある小部屋でしょ? あの、物置代わりの」
「十分事足りている」
「食事っていうのは、楽しむものでしょう。特に最近そう思うわよ」
「不自由を感じない」
「そんなこと言ってると、ミアのメニューは食べさせてあげないんだから! ねっ?」
「……ええと」
唐突に同意を求められても困ります、母様。
あと、ラクラウ氏の眉間のしわがどんどん深くなっている気がするのですが……。
「心配しなくても大丈夫だよ、ミア。ディドは、不機嫌なのではなくて単に弱り果ててきているだけだからね」
「アリストル……、わかっているなら止めろ」
「すまないね、メリアが楽しそうなものだからつい」
年齢不詳の美形エリートたちの会話にしては、どんどんレベルが下がっているように感じる。
そもそも、そんな存在が年単位での引きこもりというのも、ある意味資源の無駄な気がするのだが。
(長命種だから、時間感覚が麻痺してくるのかな)
好きな研究のために引きこもれるというのは、素直にうらやましい話だが。
それよりも、ここまで砕けた会話が続くということは、ラクラウ氏は両親とかなり親しい間柄らしい。
もしかしたら、ナルスと同じく長期休暇中のアレコレを色々押し付けられて大変な人なのではないだろうか。
そんな人物がここにいて大丈夫だろうか。
ナルスの場合は、一時間程度だけ抜け出していると聞いたが。
(ところで、兄様がまた静かなんだけど、何してるんだろ)
そうして少々思考を飛ばしていたら、目の前に湯気の立つカップが差し出される。
離れた場所では、アイルが茶器を扱っていた。
普段ならこのように温度の高い飲み物は、素因子の属性バランスに影響を考えて控えられているので、珍しいことだ。
いつも通りの木のカップを受け取り、差し出してきたトールの様子を窺う。
……本当に大丈夫なのだろうか。
あまりに不安げに見えたか、トールが少しばかり眉を下げて微笑んでくれる。
「ディドがいるからね。この程度は問題ない」
「私はアリストルよりも強く、火属性に反発する。この部屋に入るため調整はしたが、これもその一環だろう」
「はあ、そうなんで……、っ?!」
二人の発言に、頷きかけたミアは大きく目を見開いた。
この部屋に施された素因子属性の調整は、サイアニアスに存在しないはずの「完全無属性」というミアの体質に合わせたものだ。
それを承知してここにいるという、それはつまり――。
「彼にはすべてを話したよ。だからこそ、ここにいる」
「すべてって、本当に全部ですか?」
「そう、すべてだ」
驚くミアを安心させるように、トールは静かに頷いた。
「なにより、君のために必要なことを彼に依頼しようと考えている。
さて――君が行った『四種並列の同時展開』について、今から分析を始めようか」
思っていたより、本題に入るまで時間かかってます
ラクラウ氏は、ナルスより積極性が足りない…
(あれを積極性と言っていいのかは不明)




