037
くらっと眩暈を感じて、たたらを踏む。
踏み込んだつま先が硬いものを踏みしめて、つんのめりそうなところを踏みとどまった。
「あ……っぶないなあ、もう」
ぼやいて見下ろし――軽く目を瞠る。
「石畳、じゃない。コンクリ?」
近代的な素材に驚き、顔を上げた。
ひどく見慣れた景色と、見慣れた目線を自覚し言葉に詰まる。
「……なんで、うち《・・》の玄関なの、ココ」
ぐるり視線を巡らせる。
作り付けの靴箱以外にあるのは靴だけ、という殺風景な玄関だが、そこは一歩中へ入るだけで来客皆が絶句するような場所だった。
「仕方ないよね。置き場所がないんだから」
誰に聞かせるでもない言い訳を口にして、雅が苦笑する。
まあ、その反応も仕方ないかとは自分でも思うのだ。なにしろ、部屋に納まりきらない本棚が廊下の片側にずらずらと並んでいるのだから。
通行するためのスペースを確保しつつ、大きな荷物を持ち込む時のため下部へ隠しキャスターを取り付けてある特注品は、通行と出入り口の邪魔にならないようにだけ気を配られて、あとは我が物顔である。
というより、これと同じものが中身入りで部屋の中に何本もあるのだが。
少々現実感の薄い体感と置かれているありえない状況に、これは夢だと理性は即断した。
目を覚ませば困惑も終わるだろうが、もう少しだけ文明社会とこの堆積した本の気配を楽しみたい。どうせ夢だと開き直った雅は靴を脱ぎ、家に上がる。2LDKの間取りは単身者が普通に住むには広いが、雅の蔵書数に比べると少々物足りなくなる。ここにあるのは、元々の自分の本だけではない。このマンションと同時に両親から継いだ書籍が大半なのだ。
間取りを聞いただけで「そんな広いところに一人で?」と多少の下心を見せる相手には、自宅の写真を見せるだけで黙ってくれた。たまに妙に恨めしそうな目をする相手もいたが、正直知ったことではない。
いいじゃないか、自分で管理しているんだから。
短い廊下をまっすぐ抜けリビングへ入ると、当然のようにここにもずらずらと本棚が並んでいる。キッチンスペースはさすがに自重していたが、本棚の隙を縫うように必要な機能だけを持つ家具が設置され、本棚のためのような空間の隅へ電子ピアノが置かれていた。異彩を放つそれへ愛しげな視線を向けただけで、雅はリビングを出る。
書庫と寝室どちらへ行こうかと少し考え、書庫へ向かうことにする。一定の余裕を持つヘイアース家の書斎も好きだが、雅の家のように狭い中へ乱立する書棚の圧迫感も個人的に捨てがたい。本を乱立させて寝ることならいつでもできるが、この感覚はあの屋敷では味わえないものだ。
軽い足取りで扉へ歩み寄り、ためらいもなく一気に扉を開く。
「……え?」
そこにあったのは、思い描く見慣れた光景ではなかった。
いや、見慣れていると言えば見慣れているが、広さも窓にかかるカーテンも雅の書庫のものではない。どちらかというと、雅の両親の書斎だ。しかしそもそも、雅の両親の書斎にサイアニアス語の本はないはずだ。
「夢だからいいのかな。それにしても、父さん母さんの部屋にあの本ってなんかミスマッチ」
ざっと眺めたところで、日本語とサイアニアス共用語が2対1というところか。
こういうのって、夢診断だとどうなんだろ?
小首を傾げながら部屋を見渡した雅の視線がある箇所で止まる。訝しげに歩み寄った雅は、これはどういうことだろうと更に眉を寄せる。
「……あんなところに液晶テレビってなんなの…」
結構な大画面テレビが、窓の近く、本棚の死角に隠されるように置かれている。
ご丁寧に、正面の位置へ丸いスツールも配置されている。傍まで近付いたものの、これに座ったらどうなるだろうと逡巡している間に、テレビがぷつんと音を立てた。
思わず身構えた雅は、画面に映る砂嵐を目にして呆気にとられる。
「なんか、懐かしいなぁ。デジタル放送になってからは、アレもうないよね」
このまま砂嵐が映るだけなら部屋を出ようと考えて――かすかに聞こえる音に耳を澄ませた。
――このおひめさまスカートは、わたしが着るのっ。みーちゃんはお外で遊ぶから、ふわふわした服じゃきっとじゃまだもの
――みーちゃん、いいの?
――べつに、どっちでもいいよ
「…………っ?!」
いやに懐かしい、記憶をこじ開ける声だ。
画面は薄い砂嵐のまま、子供の声だけが移り変わる。
――鞘野さんもったいないわ。伴奏だけじゃなくて、合唱の方も練習に入ってみない?
――雅ちゃんは伴奏が好きなんだもんね。雅ちゃんの伴奏にわたしが合わせるの好きなの。
――…そうね、伴奏好きよ。先生、他の伴奏者いないし、歌の練習に入るのは難しいですよ
――それはそうなんだけど……
テレビの中の時間が雅を追いかけてくる。
中学、高校と速度を上げる。
――雅ちゃん、打ち合わせにいなかった間に色々決まっちゃったわ。文化祭ステージは、ミュージカルみたいなことをするんだって!
――ミュージカル? 本格的だね。
――そんなことないよぉ。でも、わたし歌の専門だからって舞台に上がらなきゃダメって言われちゃったの。専門ってただの部活なのにね。
――ホントにそうだよね
――……雅ちゃん、ピアノは舞台の袖になるけど、いつもみたいに伴奏してくれる? いいよね、決まりっ
――……相変わらず、人の話を聞かないよねぇ
達観にまみれていた高校時代を通り過ぎて大学へ……、待ってやめて、それ以上進まないで……っ
少しずつ青ざめていた雅は、あることに思い当たって短く息を呑んだ。
これをどうすればいい、どうすればこの声止まるの!
せめて電源だけでも切ろうとした雅は、砂嵐に紛れる別の音にぎくりと足を止めた。
少しずつ強くなる雨音。
窓を鳴らす暴風。
――「非常に強力な大型低気圧は、ゆっくりとした速度で日本列島を北上し……」
――『雅、ちょっと予定が遅くなったけど、明日にはそっちに行けるから』
やめて、思い出させないで……
――わたしじゃない……! わたしのせいなんかじゃない! わたしは……!
――「海沿いの国道が今回の雨で――」
「悪趣味なことはやめてよ!!」
こらえきれずに叫ぶ。血の気が失せて蒼白に近い。
本当にテレビから出ている音かも判別できない状況だが、精神的に追い詰められそうになっている雅に、その判断をつけることはできない。
それでも雅は、電源を切ろうと夢中でテレビへ駆け寄ろうとした。
その時、ふわりと風が揺れた。
いや、風はない。ないのにカーテンが揺れて細く月明かりが射し込んだ。
、不意を打たれたように、雅の足が止まる。
定まらない気配が背後に現れ、雅の肩越しに袖がふわりと舞った。
「――案ずることはない。新式法術で其方の枷が軋んだまでだ。このような形で影響が出るとは思わなんだが」
「……枷? え、ていうか誰」
混乱して振り返ろうとする雅は、背後から緩く腕を回されて固まる。
現実味のない光景で、錦を纏う腕と低く柔らかい声だけが妙に生々しい。
いくら夢とはいえ、素性のわからない男に接近されて雅は途方に暮れた。
「えっ、だからなんで、誰っ?!」
「そう慌てるでない。すぐに其方の目も覚めよう。ただ――目覚めてすぐは覚悟するのだぞ」
含むように笑った青年は、雅を振り向かせることなくその気配を急速に薄れさせている。
「くくっ、これはあくまでも夢だ。細かくは気にせぬことだ」
溶けるように気配が消えようとしている。最後の残滓だけでも捕まえようと強引に後ろを振り返れば、風に膨らんだカーテンが外の景色を垣間見せた。
窓の外には、サイアニアスの紫月が薄雲を纏ったまま悠然と宙に浮かんでいる。
その紫に目を細め、雅は自分の意識もふわり解けるのを感じた。
「月、か……」
小さく呟き、雅はすうっと深い眠りへと落ちる。
静穏な世界へ沈む直前に、雅はこちらへ来た日に見た満月のことをなんとなく思い返していた。




