034
メリアを急かすようにしながら公園を抜け、数ブロック進んだところでミアは足を止めた。
広場を前にした白い石作りの建物は、いかにも神殿に似つかわしい荘厳な雰囲気を醸し出していた。両開きの飴色の扉は軽く開かれたままで、ミアは弾むような足取りで近付いてそこからそっと中を覗き込む。
突きあたりの左壁一面にパイプが配された景色は、記憶のものと似通っていて思わず「懐かしいな」と呟いていた。
「こんな風景が向こうにもあったの?」
真後ろからの囁きに驚いて振り返ると、微笑んだメリアがミアと目線を合わせるように屈みこんでいる。
「……うん。パイプオルガン置いてる教会は、見たことあるよ」
「きょうかい?」
「ええと、神殿よりも小さい……聖堂?」
「ああ、わかったわ。聖堂にまでオルガン置いてるなんて、すごいわね」
「あんなに立派なパイプオルガンのあるきょうか……聖堂はそんなにないよ。ほとんど、小さいリードオルガンだと思う」
「オルガンも色々種類があるの?」
「うーん、そこは話をすると長くなるから帰ってからでもいい?」
「もちろんよ」
音楽の妨げにならないよう声を潜めて会話を交わしていた二人だが、近付く靴音に口を閉ざして顔を上げる。
「そのようなところにおられずとも、どうぞ中へ」
白い神官服を着た若い男性が扉を開き、聖職者らしい穏やかな微笑みで中へと誘ってくる。思わずメリアと顔を見合わせた後、ミアはおずおずと神殿内へと一歩足を踏み入れた。
サイアニアスに来てからこのような公共の施設というのは初めてで、どうするべきか判断に悩む。それでも、オルガンの魅力は抗えないものがあった。
石床の上で靴音が響く。
ミアは旋律を消してしまわないよう、祭壇前の長い通路をゆっくり歩を進めていく。
半分を越えたところで立ち止まると、少し遅れてついてきたメリアにそっと声をかけられた。
「もっと近付いても大丈夫よ」
「……ううん、この距離でいいの」
ゆるく首を振り、じっと演奏に耳を傾ける。
練習中なのだろう、音が不自然に跳ねると奏者はもう一度同じ旋律を繰り返す。最後のフレーズを奏で終わり、奏者の指先が鍵盤から離れる。パイプオルガン独特の柔らかく余韻を残した音色がすうっと空気に溶けるように消えて、ようやくミアは詰めていた息を細く吐き出した。
幾度か深呼吸を繰り返してようやく、ミアは夢から覚めたように瞬きを繰り返す。はっと後ろを振り返ると、斜め後ろの座席に腰を下ろしたメリアが微笑ましげにこちらを見つめていた。
「ま、待たせてごめんなさい」
「いいえ、別に構わないわよ。でも、ミアがこんなに音楽好きだったなんて知らなかったわ」
「自分でもちょっとビックリしてる」
「まあ」
ミアの返答に目を瞠ったメリアがクスクス笑い始めた。
しかし、自分でも本当に驚いた。ここまで周囲が目に入らないとは……。
おそらくは、しばらく音楽と関わりのない生活だったせいで刺激に強く反応したのだろう。
元々、人に教えるほどの腕前ではないが、仕事が休みの日に好きな曲を電子ピアノで演奏する程度には音楽に馴染んだ生活をしていた。こちらへ持ち込んだ書籍の中にも楽譜集が一冊含まれている。高校時代も合唱部で伴奏をしていたのだが……いや、これ以上はやめよう。
こちらへ来てから楽器に触れることもなく、また読み書き、一般常識と書字法術を修得することに必死で、音楽にまで意識が向いていなかったのだ。
……違う、そうではない。
無意識に楽譜集を手に取ることも控えていたのは、もしかすると音楽に触れることを半ば諦めていたのかもしれない。
こちらには指に馴染んだ鍵盤楽器がないかもしれないとか、まだまだ音楽に意識を向ける余裕はないと自分に言い聞かせて。
「こんなに喜ぶなら、もっと早く連れてきてあげればよかったわね」
「うちでは皆、音楽のことを何も言わないから、一般家庭ではあまり楽器に馴染みがないのかと思って……」
「確かに、一般家庭では馴染みがないわねぇ」
ミアの曖昧な推測に、メリアが同意する。
「大体、楽器演奏というのは特殊な技能になるから、お祭りの時に劇団が演奏しているか、こういう神殿でオルガン演奏を聴くくらいしか機会がないんじゃないかしら。もちろん、歌くらいは歌うけどそれも雑歌と呼ばれる囃し歌や子守歌、冠婚葬祭で歌われるお決まりの曲が多いわよ。本格的な歌唱は専門の歌い手や合唱隊、吟遊詩人にお任せ状態ね」
「やはりそうなんですね……」
そういう文化なら、音楽が生活から縁遠いのもわかる気がする。
もう一度パイプオルガンへ目を向けて、ほぅとため息をつき――ふと天井を見上げる。
「……うわ、すごい」
壁の上部から天井にかけて装飾や天井絵が施されている。さすが神殿、というべきだろうか。
白い石壁にレリーフが浮かび上がり、また鮮やかに描かれた絵画は壮麗という他ない。明かり取りの窓に目をやれば、こちらも美麗なステンドグラスで飾られている。
よく見てみると、どうも全て一連のテーマで描かれたもののようだ。
「母様、ここには何が描いてあるの?」
「属性神の神殿に描かれるのは、基本的に創世神話がモチーフのことが多いわ。ここも例に漏れずそういうことよ」
「月と、太陽と……属性神」
思い出すように呟くと、メリアはなぜか困ったように頷いた。
「ミア。遅くなるから、そろそろ帰らない?」
「あっ、ごめんなさい」
「いいのよ。続きは帰って話しましょ」
「はぁい」
微笑みつつもそわそわと気もそぞろな風情に首を傾げたミアは、神殿の奥からやや急いだ靴音が近付くことに気付いた。同時に、メリアがすっくと立ち上がる。
「さっ、ミア帰りましょうか」
「あ、うん」
メリアの声にやや慌てたような声が聞こえて、
「お待ちください、メリアーシュさま!」
「母様、あの人たち……」
「さあ行くわよ~?」
「えっ」
「どうかお待ちくだ――」
有無を言わせぬ笑顔でミアの手を取ったメリアが、直ちに転移法術を発動させる。
魔力に包まれた次の瞬間には庭先に戻っていた。神官服を着た年配の女性が慌ててこちらへ来ようとしていたようだが、あれは良かったのだろうか?
「母様、さっきの人は?」
「……とりあえず、少し休んでから話をしましょ?」
「……はい」
さっきから有無を言わせぬ笑顔のままなのだが、神殿というのはメリアにとって鬼門なのだろうか?
またオルガンを聴きに行きたいけど難しいかなぁ、と眉を下げたミアは「ひとまずお茶!」と力強く宣言したメリアの後を追ってサロンへと向かった。
*****
――昔、世界で月ただひとつが天空に浮かぶ影であった。
数えきれないほどの日々、月は天と海の道を行き、創造神から与えられた灯りを手に世界を照らしていた。
ある日、取り落した灯りから太陽が生まれた。
太陽は月の妹となり伴侶となり、火、水、風、地と四人の子を生み、子らはまた人の子を生んだ。
二人は睦まじく天と海の道を行くが、添う二人が眩しすぎるために四人の子らの目が眩み、世界と人の子らに災厄が起きた。
それを嘆いた兄妹は再生のため新たな子を世界に与え、住処を分けて世界を照らすこととし、竜を使いに立てて朝と夕にだけ短い挨拶を交わす。
短い逢瀬に欠けてゆく心は兄妹の嘆きを呼び、妹は天で大地を焼きこがし涙を流す。兄は海にうち沈み冥府の戸を閉め忘れる。
子の叫びに兄妹は幾度も悲嘆し、子らに手を差し伸べるが、それでも二人はまたいつか添う夢を見ている……
「――そうか、神殿に寄ったのか」
サロンでミアの話を聞いたトールも、また曖昧な笑みを浮かべる。
「もしかして、神殿って二人の鬼門?」
「きもん、とは?」
「ええと……あまり近寄りたくない場所というか、トラブルの元というか……」
「なるほど。おおよそはそのようなところかな」
トールの苦笑に、ミアは小さく項垂れた。
「あまり行きたくない場所へ連れて行っちゃったのね。……母様、ごめんなさい」
「だから、気にしないの。場所が良くないんじゃなくて、あそこの神殿長が苦手なだけだから」
「最後に慌ててたおばあさ……女性?」
「ふふっ、別に言いなおさなくても良いわよ」
なんとなくその単語はダメな気がするのですよ。いや別に、母様の年齢がどうというわけではなく!
そのつもりはないだろう笑顔のメリアに、思わず胸の奥で言い訳めいた言葉を唱える。
違います、そんなこと思ったことは一度もありませんから!
「ああ……神殿長がいたのか。逃げ出せたかい?」
「間一髪ね」
「それはよかった」
いつものように睦まじく微笑む夫婦だが、いつもと違うのは交わす声に多分の疲労が含まれていることだろうか。
「そんなに、嫌な人なんですか?」
「嫌なのではなくて、困った人なのだよ。私たちは只人だというのにね」
「勝手に崇め奉られるのは勘弁してほしいわ」
は? この二人を崇め奉る?
唖然としたミアは、しばらく考えた末に恐る恐る伺いを立ててみる。
「……どうしてそんなことに」
「創世神話、知ってるでしょ?」
「はい」
「その中に、太陽と月の使者として竜が出てくるでしょう?」
「出てきますね」
「彼女は、竜人であるわたしたちをそれと重ねてるのよ」
ため息とともに零れた声は苦さを含んでいた。
「あの神話に出てくる竜は、神であって人ではないわ。どれだけ法術の技量が高くても、わたしたちはあくまでも人なのよ。神と重ねられた上に、あまつさえ崇められるなんて迷惑以外の何物でもないわ」
「それをさりげなく指摘しようとしても聞く耳持たないうえに、きつく言えば怒りを買ったと自裁しようとする。これでは神殿が苦手になるのも道理だろう?」
二人の言葉に思わず絶句する。
あの老婦人は一見、穏やかで優しそうに見えたのだが、実際は悪人ではないけれど思い込みの激しい聖職者だったようだ。ありがたくないことに、そういうパターンはよく聞く。
「……それは、大変だね」
心からの言葉に共感を感じ取ったか、夫婦が揃ってしみじみと頷いた。
「あれさえなければ、今のカレントに文句はないのにね」
「もう少し経てばまた状況は変わるはずだろうから、それまで待つしかないかもしれないね……」
思わず同調して頷き、……トールの発言を脳内反芻して冷や汗をかく。
(それって、寿命待ちってこと、だよね……)
これは、その通りだと頷いても良いのだろうか。あるいは、それはちょっとどうだろうかと窘めた方が良いのか……
いや、発言はよそう。
トールたちがここまで言うということは、相当苦々しい思いをしているのだろうから。
予想外の話に眉を寄せたミアの面持ちをどう解釈したのか。やや狼狽えた様子で、メリアが顔を覗き込んでくる。
「心配しなくても、また連れて行ってあげるわ」
「でも――」
「大丈夫よ、神殿にも協力者はいるから。神殿長のいない日に行けばいいんですもの」
ああ。あれだけオルガンの音色に夢中になっていたから、もう神殿へ行けないのかとガッカリしたように見えたのだろうか。そういうわけではないのだが。
しかし、あのオルガンに触れてみたいという欲求を燻らせていたミアはその魅力的な誘いを断ることもできずに、どんな表情を浮かべれば良いのかわからないといったあやふやな感情のまま頷くことしかできなかった。
前回に続いて街の人との交流でした
……交流?




