031
日差しの差し込む角度が低くなり始めると、そろそろカーテンの付け替えにかかろうかとヘイアースの家長が腰を上げた。
部屋数が多いので、実際に使う部屋だけゆっくりと手をかけていくのだということで、使用頻度の高い順で一日に二部屋ずつくらいののんびりペースだ。
初日は食堂とサロン。二日目が書斎ときて、なぜかその次にミアの寝室で順番が回ってくる。
トールたちの部屋は翌日にするからと言われれば、一日二日のことで無理に断る理由もなくミアの私室にかかるカーテンが青から暖かい黄色へと掛け替えられる。
ちなみに、当然のようにピンク推しだったメリアとの攻防戦は回避できず、一通り消耗済みだ。
ラグマットとベッドカバーも厚手のものに交換してひと段落ついた頃、
「ミア。今日この後、君の予定はどうなっているのかな」
「ええと、午前の復習をしようかとは思ってるけど……」
「それじゃあ、後で私の研究室においで。見せたいものがあるからね」
「は、い?」
トールの誘いに、ミアは頷きつつも首を傾げた。
研究室ということは、何か魔道具の試作品でも作ったのだろうとは思うが。
今までもそういうものを幾つか見せてもらったことはある。ミアが毎回、魔道具見学を喜ぶためであり、元の世界の知識から改善点を見つけ出すこともあるからだ。しかし、それは書斎だったりサロンだったりと場所を研究室に限定したものではなかったのだが。
何か持ち出せないようなものを作ったのだろうか。大きさ、それとも機能でか。
軽く部屋の片づけを終えた後、一応勉強道具を抱えて研究室を覗いたミアをトールはいつもの穏やかな笑みで出迎える。
「父様、見せたいものってなぁに?」
「ひとまず、そこへかけなさい」
示された椅子へそそくさと腰を下ろすと、ミアは期待に満ちた瞳で父を見上げた。
「まだ、本当に試作というほどの段階でもないのだがね」
そう言いながらミアの前へ、一冊の薄い横長冊子を置く。
薄い朽葉色の表紙は皮を極薄くなめしたもののようで、触れた指先にきめの細かいさらりとした感触が伝わった。無地の表に首を捻りながら裏返してみるが、そちらにも何もない。ただの皮表紙だ。
「父様、これは?」
ミアの問いにニコリと笑うと、トールは表紙をめくる。現れたのはやはり無地の紙……いやこれは魔法紙か。
もう一度問いかけの意味で顔を上げじっとトールを見つめれば、告げられた言葉に軽く驚いた。
「君にこれを試してもらおうと思って」
「私が試す?」
「この間のことをメリアから聞いて、作ってみようかと考えたのだよ。君が、魔法紙に埋もれて目覚めた朝の話をね」
「あれは……!」
からかうように目を細められ、ミアの頬に血が上る。
「さすがのメリアも驚いたということだったから、私も見に行けば良かったかな」
「父様! からかうのも……!」
「はは、すまない。可愛くてつい」
「……に、兄様みたいなことは止めてください!」
真っ赤になってしまったミアの髪を宥めるように撫でる。こうされると、なにやら術でもかけられているかのようにおとなしくなってしまう自分が不思議だ。
「しかし、発想の元がそれだというのも本当なのだよ。どうやら君は、私たちとは違う視点で『召喚』を使ったのだなと思ってね」
「違う視点?」
「そうだよ」
熱くなってしまった頬を押さえながらも、ミアは訝しげにトールを見上げた。
視点と言われても……同じ呪文ではないか。何が違うというのか。
「あの夜、君は魔法紙を使って何をしようとしていたの?」
「何って……前に読んだものを呼び出して……」
「何の目的で?」
「ええと、どうしても読みたくなったものがあって、その部分だけ呼び出せないかなぁって思って……」
もごもごと口ごもる。
ただの紙のように見えるが、魔道具であるからには魔法紙はそれなりに価値のあるものだ。しかし、強度も耐久性も普通の紙より多少マシな程度なのだ。引けば破れるし握れば皺になる。踏みつければ汚れもし、水に濡らせばふやけて使い物にならなくなる。
自分の純粋な楽しみで使っていたなどと、高い紙に落書きしていたところを知られたような後ろめたさがある。
「ああ、勘違いしないで欲しい。それが悪いなどとは欠片も思っていない。どうせ魔法紙など、どこまで行っても道具なのだよ。有効活用するならばそれが自然だろう」
「……はい」
いつも通りの笑顔は含みもなく、本当にそう思っているらしくてミアは軽く安堵の息を吐く。
「私が言いたかったのは、君の場合はそうして純粋に読むために『召喚』を使ったが、私たち司書は、今まで調査目的で『召喚』を使うことに意識を囚われていたような気がしてね」
「ええと……それは、そんなに違うことなんですか?」
「実現手段が同じなのに、着地点が全く違うというのは多少以上の意味があると思うよ。少なくとも私はそう感じた」
もっとも、と悪戯っぽく付け加える。
「そんなに取り立てて騒ぐほど、大仰な話でもないとも思うけれどね」
「それはそうでしょうけど」
「うん。けれど、新しい着目点というのは考えを発展させていくのが楽しくなってしまう。私の悪い癖かもしれないね」
クスクスと本当に楽しそうに笑うので、ミアもそれに釣られる。
「悪い癖っていうけど、父様は改める気ないんでしょ?」
「そうだね」
「そういうところは、兄様と似てます」
「……そうなのかい?」
「兄様は、あの性格は自分でもわかってるけれど直す気はない、って言ってました」
「おやおや……」
そこでついに我慢できずに二人で吹き出してしまう。
「そんなところで似た性質を発揮しなくても良いと思うんだが」
「あ、性格じゃなくて性質って」
「そこを性格と言いたくなかった私の気持ちを汲んでほしい、かもしれないね」
「じゃあ、そういうことにしておきます」
まいったな、とわざとらしく顔をしかめるので、収まりかけていた笑いの種がまた降りてくる。
ひとしきり笑い、落ち着いたところでミアは目の前の冊子を手に取った。
「父様たちが調査目的で使うことと、私が……ええと、娯楽のために使ったことと、その違いでこの冊子なの?」
「そうだよ。……考えてごらん」
そう言いながら、トールはどこからか新しい魔法紙を一枚取り出す。
「調査のためなら基本的にこの一枚で十分だ。あるいは法陣を呼ぶにしても、何かの一覧を作るにしてもね。この一枚に、次々と新たな証明を抜き出していけば良い。もしくは、複数枚の魔法紙を用意すればことは足りる。
けれど、文章を楽しむというのは一頁で済むことではないだろう?」
「……そうだね」
「文章を楽しむということは、そこに意識を没頭させていく行為だ。そのためにいちいち頁を呼び出しては解除し、それを繰り返すなど行為に気を取られて書物を楽しむどころではない」
「はい」
そうだ。あの夜も、最初は一枚ずつ頁を呼び出しては読み進めていたのだが、そのうち面倒になり、魔法紙をあるだけかき集めて読みたかった箇所をまずそれぞれに呼び出すことに集中した。その後で、ゆっくり抜き出した箇所をまとめて楽しんだのだ。
「私たちはそのようなことを考えもしなかった。目の前、あるいは足を向ければ読みたいものがすぐそこにある。特に、中央図書院では新たに発行された書籍以外は、ある程度そこに揃っているのだからね。
君のように、読みたいものが読みたくても手元にないという状況にならなければ、気付かないことだろう」
何の含みもないというのはわかっているが、静かな指摘はやはりミアに、もうひとつの後ろめたさを感じさせた。
読みたくても手元にない書籍。
それは、元の世界の文章を指している。
埋もれるほどあった本が今はそばにない。書斎に行けば書籍そのものには触れることができた。文字の修得もかなり進んで、今では大分楽に色々な本を読むこともできる。
けれど、大好きだった物語も噛みしめるように読み返した文章も、そこにはないのだ。
安定して『召喚』を成功させることができるようになって、ミアが一番初めに思ったことは、
(記憶から呼び出すということは、これがあればあの文章をもう一度読めるかもしれない……!)
ということだった。
それから少しずつ魔法紙に呼び出し、量をためては読み返した。別に本一冊を丸々読めなくても良かった。そこに親しんだ物語の断片があるというだけで嬉しかったのだ。
しかしそれは、同時にヘイアース家の人たちへのささやかな裏切りのような気もしてしまった。
これだけ親身になってこの世界で生きていけるように助力してくれている人たちがいるのに、後ろを振り返って過去に浸り、懐かしがっているような……目の前の必要な事柄から背を向けているようなそんな、心苦しさを。
けれど、トールは首を振る。
「私たちも君も、こう話し合ったはずだ。私たちは君からルーツを奪いたくないと。そして君は、私たちが君を否定したわけでもないということをわかっている、とね。それは今でも同じだ。
君が君の中に積み上げたものはそのままある。君は、新たなものをその上へ積み上げれば良い。その土台にあるものを君自身が愛しく思うことは何も間違っていない。君は、それを否定しなくても良いのだよ」
「………はい」
「これは、君がこの世界に馴染もうとして精いっぱい努力しているから、私たちも素直にそのことを肯定できるのだよ。もし君が、元の世界のことだけを見つめてこちらへ目もくれなければ、また少し話は違っていただろうけれどね。
君が前へ進もうとしているなら、積み上げたものは全て君の糧だ。そこはむしろ、君自身が否定してはいけないよ」
ゆるく抱き込まれ、額を額に寄せられる。
すぐそばから覗き込む青褐の瞳はどこまでも穏やかで、ありのままを受け入れるとの言葉に影すらなく、ミアは泣き出しそうな瞳のまま幾度も瞬きを繰り返して唇の端をゆるく持ち上げた。
「父様……ありがと」
「――わかればよろしい」
「はい、先生」
わざと、いつも使わない呼び名で呼びかけると、トールは目を丸くして破顔した。
「その呼び方もなかなか新鮮で楽しいね。……さて、話を戻そうか」
ミアは一度だけぐすと小さく鼻を鳴らし、ゆっくり頷く。
「どこまで話をしたか……。そう、君のように大量の文章を一度に読むには、一枚ずつでは非効率だろうと考えたのだったね」
「それで、バラバラだった紙をこんな風に冊子に?」
「そうだよ。どうして今まで考えなかったのかと、我ながら不思議に思うね。作成した一覧を綴ることはあっても、未使用の魔法紙を束ねようとはあまり考えなかった。おそらく、束ねてもバラさなければならないという思考があったのだと思うけれど」
「一枚ずつ使うことが、前提だったから?」
「ああ。私が君の前で使用したのも、そういう形態だったろう?」
「……そうだったね」
そう言われれば、書斎でも実験場でもトールの使い方は、魔法紙がバラバラであることが前提だっただろう。
模擬戦などは特にそうだ。あれは一枚一枚が個別に働くことで、それぞれ関連しながらも独立した砲台として機能していた。
「魔法紙を束にしてどのように効率良く機能するかなど、君が試しに使ってみて感想を聞かせてもらえると嬉しいね。もしかすると、こういうものから君の新式の法術も糸口が見つかるかもしれないのだし」
「うまくいくかな」
「危険度が低いのなら、新しいことはなんでもやってみるべきだと私は思うよ。研究とはそういうものだ。とはいえ――メリアのような新しい法術の実験については、なんでもとは言い難いかな」
最後に内緒話をするように声を潜められ、ミアは目を丸くして吹き出した。
「それ、母様に言える?」
「言うのを控えているから、今こうして話をしたのだよ」
片眼を瞑るトールはいつになく軽妙で、ミアは再び軽やかな笑い声を立てた。
「さて。ところで、君がどこでそれだけの書物に関しての記憶をため込んだのか、私に聞かせてくれると嬉しいのだけれどね」
「――ああ、それなら大学時代の文芸サークルかな」
「まず、そのダイガクとは? 文芸、サークル?」
「それはね……」
笑い転げた軽い心緒のまま、その日ミアはトールの求めに応じて自分が通った大学や、元の世界の教育システムについて日暮れまで語り続けていた。
手の中の薄い冊子が機能したのは、その翌夜からであったという。
喋りつかれて寝落ちた模様です。
前に話し合った、というのは8話のこと。




