029
はしゃぎ過ぎた兄様のターン。
「さて、ここでひとつ問題」
ミアは忙しなく浅い呼吸のまま、のんびりと一歩先を行くアイルの背中を胡乱気に見上げる。
「というか、どうしてそんなに不審物を見る目で兄を見るんだい?」
「…………」
返事をするには足を止めなければならない。
ミアは肩どころか全身で大きく息を繰り返し、腰に下げた水筒から水を一口飲んでようやく声を出せる状況を整える。
「しねっ、じゃない、にいさま、私が、喋れない、というのは、見てわからない? はぁ……わからないなら、眼球取り出して洗った方が良いと思います高濃度酒精を用意しますかそれとも木酢液を?」
「ミアは裏山に来ると、面白いくらい口が悪くなるよなあ」
「その状況に導いてるのは、兄様自身です」
「妹と精神的距離を感じる……」
一気に低い棒読みで返すと、わざとらしくため息を吐かれた。
ここは、屋敷裏に聳える険しい山の中。間違ってもハイキングコースとは呼べない、そんな切り立った山道を二人で歩いている。信じられないが、ここは定番の山歩きコースだったりする。
訂正。
信じられないが、ここは定番の鍛錬コースだったりする。だから、こんな道とも呼べない険しい山道を、六歳児に踏破させようとするんじゃないと言うのに!
兄曰く、それでもこの道はまだ緩やかな方らしく、もっとすごいところになると自分で崖を登り岩壁を砕いて穴開けて……って、それは既に道ではない。断じて道ではない、ただの障壁を自分で通路開拓しているだけだ。土木工事か何かと間違っていないか。
ところで、家族皆が裏山としか呼ばないので、ミアは未だにこの山の名称を知らない。
(地図見たら載ってないかな?)
これだけ立派な山なのだから地図に載るくらいはしているだろう。
家を離れて後に「裏山で大変な目にあった」と言っても誰にも通じないに決まっている。それは別としても、せめて客観的情報が欲しい。
はぁ、と息を吐きミアは手近な岩に凭れた。腰を下ろしてしまうと立ち上がるのが億劫になるのは、ここ数か月の経験からよくわかっている。
汗をぬぐい、口の中を軽く潤す程度にもう少しだけ水を含んで、父謹製皮水筒の蓋を閉める。父が作ったということは当然この水筒も魔道具だ。子供が腰に下げられる大きさではあるが、内部に刻まれた法陣のおかげで魔力供給なしでも並の家族が一か月は生活できる程度に水を供給できる優れものだ。オーバースペックを体現している、実にトールの作品らしい。
ふと、水筒とそれを持っていた手をじっと見比べる。
ゆっくり持ち上げて陽にかざす。
折り重なった針葉樹から漏れ零れる秋の日差しを、記憶にあるよりずっと小さな手が受け止めている。
短くて頼りないくらい細い指。面積の狭い掌。血管が透けて見えるほど薄い皮膚の、つやつやとしてすべらかな手の甲。
(六歳児の身体だって、見た目でも頭でもわかってるつもりなんだけどなぁ……)
これは独り立ちした手ではなく、明らかに庇護を必要とするか弱さだ。
自我は成人のまま幼い器という現実は、覚悟していたものとはまた異なる齟齬をミアに与えていた。主に、自分の限界を計り間違えやすいという点においてだ。
屋内で机にかじりついている間は、家具や道具の大きさで思い知ることはあっても身体能力についてはあまり意識せずに済む。ところが、こうして外に出てアイルに連れ歩かれていると、途端に自分が今幼い子供の身体なのだという事実を嫌でも認識させられる。
己の現状を正確に知ることが、咄嗟の判断を左右する。
このことは、それぞれ違う角度ながらも家族の全員が口にすることだった。
偉大な先達たる父は、書字法術の修得と実践において。
法術師の母は、魔力と術の発動規模を把握する必要について。
そして現役冒険者の兄は、今までの経験を語るに際してと――修練時にその身をもって。
厳しい山道は確かに幼い身では余る部分もある。これは酷いと思わされる状況もしばしばだ。
それでも、ミアはやめると言ったことはない。
体力的に厳しいものはあるが、実は命の危険に晒されたことは一度もない。山中で危険な獣に遭遇したこともあるが、影を確認するやいなや全てアイルによって即座に排除されている。本当に体力が尽きた時にはミアを抱えて戻ることもある。
両親も兄も、それが厳しかろうとミアにとって必要と判断したものを差し控えることは決してない。
つまりは、今のミアにはこれ《・・》が必要なのだ。
一人前の顔をするには、その力はまだ遠く及ばないのだと自覚するために。
「……兄様は」
「なに?」
「ちょっと捻くれてる?」
アイルは片眉を上げ、面白そうな光を瞳にたたえて唇の端を持ち上げた。
偽悪的なことを口にしたりミアをからかって面白がったりするが、それでも彼は本当の意味で害悪となることはもたらさない。
ただちょっとギリギリ限界の設定でミアの消耗を強いるだけで、それを自分の楽しみと結びつけてしまうだけだ。「だけ」というには少々性質が悪いけれど。
今も、このやりとりを楽しもうとする気配がひしひしと伝わってくる。
「捻くれてることについては否定しないよ。世間の荒波に揉まれまくったからねえ」
「多分捻くれた原因はそこじゃないと思う」
「そうかな?」
「元からの性格でしょ?」
「それって、芯から性格がよろしくないということだよね」
「そうね」
「えっ、そこは否定してくれるところじゃないのかな?」
「否定してもらえると思ってたんだ……」
素で呆れた声を上げると、これが噂に聞くツンデレか、などとふざけたことを口走る。
そのような事実はないぞ……あれ、ちょっと待て。ツンデレという概念がこの世界にもあるのか? どこのなに発祥だ?!
別のことに気を取られて、会話のキャッチボールが止まる。
眉を寄せて考え込んだミアに目を留めたか、小さく零れた笑い声の穏やかさにミアの毒気も抜けた。
呼吸もとっくに整っている。言葉遊びもほどほどにしようか。
「それで、兄様。質問ってなんですか?」
「どうしてそんなに俺のことを不審物を見るような目で――」
「その前ですっ」
全てを言い終わらないうちに、言葉尻に被せて一言を叩き込む。アイルは一瞬物言いたげな視線でこちらを見たが、するりと顎をひとつ撫でる間に諦めたらしい。
ミアへ向ける視線の色がわずかに変わる。なんとなく釣られるように、ミアも軽く居住まいを正した。
「それでは改めて、ここで問題。
今日歩いているこの道、途中でいくつか結界を通り抜けたのは気付いたかなあ?」
「……ああ、あれは気のせいじゃなかったの」
確かに、歩いている途中で幾度か違和感を感じていた。何かにひっかかるようだったりピリッとした小さな痛みを感じたり、足を踏み入れるのにささやかな抵抗があったり。種類はいくつかあったが、あれは気のせいではなかったのか。
アイルとの鍛錬は早くても一日おきとなっているから、もしかすると今日予定していたルートへ昨日のうちに結界具でも仕掛けていたのかもしれない。
こういうところは、山の中でただミアをからかって遊んでいるように見えても、ちゃんと訓練の一環として捉えているのだなぁと思う。
「お、魔力認知はちゃんと働いてて何より。じゃあいくつあった?」
「えええ……」
まさかそんな罠が。
歩くのに必死で数までは数えていなかった。そんな余裕もなかったんですが!
それでも、満足に岩道を歩くことすらできなかった以前よりは進歩したということなのだろう。少しばかり楽しげなアイルを見ているとそれはわかる。多少は称賛も含んではいるのだろう。気に障ることには変わりないけれど!
なんとか見返してやりたい。ミアは懸命に記憶を引っ張り出し指を折る。
「…………、四つ?」
「惜しいなあ。正解は五つ」
「くっ!」
あとひとつどこで見落としたんだろうと、もう一度指を折りなおしているとアイルが答え合わせをしてくれた。
山道の入り口から記憶を辿りつつ、ひとつひとつ設置場所を挙げていく。
「――で、その九十九折の入り口と出口でひとつずつ」
「それだーっ!」
思わず素で叫んで頭を抱えた。
今の体力では一番厳しい場所の出口側というと、一番注意力が散漫になるあたりだ。目の付け所は、さすがというべきか性悪というべきか。
いや、褒めたくないからここは性悪としておく!
だから兄様! 本気で悔しがっているのを見てそんなに楽しそうに笑うから、相手が気を悪くするんです! ソースは今の私だ!!
「前よりも周りのことが見えてきてるのは確かだし、認知の精度も上がってるから今日はよしとするかなあ。お仕置きは軽めにしとくよ」
「よしとするのに、やっぱりペナルティあるの?!」
うわあ、と我ながら情けない声が上がる。
響きの頼りなさにか、アイルはクツクツと喉を鳴らし頷く。
「そりゃあね。でも、今日のは本当に軽いから」
「というと?」
あっ、満面の笑みって嫌な予感。
笑みを湛え、のほほんと語尾を伸ばすアイルにミアが青ざめた。
「俺の全力疾走に付き合ってくれればいいよー」
「それは嫌あぁぁぁ……っ!」
「大丈夫、いつも通りちゃんと抱きかかえて運ぶから」
「全然大丈夫じゃないからーーー!!」
想像してみてほしい。
道とは呼べない岩場を、ギリギリの隙間を縫うようにしてひた走る成人男性の迫力を。
鋭角に突き上がった岩を蹴り、密集する木立ちをすり抜け、崖を落ちるように滑り降りるその姿を。
その腕に抱えて運ばれる子供の目線体験は、絶叫マシンをはるかに凌ぐ恐怖だ。あれを経験済みの今なら、四次元コースターだろうが最大傾斜だろうが逆立ちして乗れと言われても平気でやれるぞ!
体力馬鹿、いや不肖の兄は、首を振りつつ後ずさるミアへにっこり微笑んで歩み寄る。
だから全力でお断り……拒否しているだろう抱えるな、うわあああ、もうその口にハバネロ突っ込んでやりたいわ!!
「よし、じゃあ昼飯食べに帰ろうか」
否応なく抱え上げられたミアの頭上で、上機嫌な兄が絶望的な宣告を放つ。
(今日のお昼ごはん、食べたかったなぁ……)
ミアは身体にかかる加速負荷を感じながら、自分の口に入ることない根菜のキッシュを幻視していた。
「――それで。ミアの状況について、説明はしてもらえるのよね?」
「ええと、俺が機嫌良すぎて、ちょっと……羽目を外した?」
「……ミアから『粉塵爆発』という話を聞いたの。実験がしたいのだけど」
「……謹んで協力いたします」
その日ヘイアース家の食卓は、昼と夜とでささやかな顔ぶれの変化があったという。




