023
「……朝だ……」
ミアはベッドの上に起き上がりながら、ぼんやり窓の外を眺めていた。
あれだけ色々なことが起きてもいつもと変わらず朝が始まるのだなあ、とよくわからない感慨に満たされながら布団から抜け出る。
昨日は夕食にスープだけをもらって部屋へ戻ったため、既に身体が空腹を訴えている。なにしろ、昨日は食事どころではなかった。書字法術を初めて使ったこともそうだし、あの《・・》模擬戦を目の当たりにしたこともそうだ。
とりあえず問いたい。
あれのどこが「模擬戦」なんですかねぇぇ?!
昨日の段階では、殺すつもりもないし大した怪我もしてないじゃないか、というのが兄の主張で、母もそれに同意見だった。あなた方はちょっと色々考え直したほうが良いと思います……
父は……曖昧な笑みで目を逸らしていたので、その部分についてはミアと同じ考えなのだろう。それにしては手加減があまり上手くなかったようだが。いや、だから目を逸らしたのかもしれない。あまり追求するような視線でなければ良かったのだが、ミアにはまるで自信がない。
さて。
勢いで返事をしてしまったが、実際のところどう転んでもミアはトールの弟子となる。なにしろ、書字法術の術者は世界でもミアを入れて八名。そのうち、現在少しでも自由の利く存在が長期休暇中のトールだけだという。
「他の職員は皆、業務で忙しいだろうからね」
とは、模擬戦後のトールの発言だが……その忙しさには長期休暇中の誰かさん分の負担がかかってるなんてことは?
「……父様。あの、そのお休みの時間で私の指導をしても大丈夫、なの?」
訊きますよ一応! 中央の院に睨まれたくない小心者ですからね!
なまじの国家権力より立場が上の存在を敵に回すなど、そんな恐ろしいことは考えたくもない。
そんなミアの心境に関わりなく、トールはいつも通りの穏やかな笑顔だ。
「特に問題はない。休みの間に娘の指導をする程度のことで問題など起きないよ。
それに私のこの長期休暇は、二十年間の無休期間と引換に得たものだからね。どうせ、この休暇中も何かと手を貸すことになっているのだから文句など出ようはずがない」
いくら長命種とはいえ二十年無休って……。
ブラック企業も真っ青、どころか並のブラックが真っ白に見えてくるレベルだ。超過勤務についてはどうなっているのだろう。
これで腹を立てないトールというのは凄い。凄いというよりむしろ仕事中毒なのだろうか。
そんなことを考えていたミアは、なにげなくトールを見上げてその動きを止めた。
「もっとも――私の不在ごときで業務を滞らせるような、ぬるい《・・・》職員はいないはずだから心配ないよ」
「………」
いつも通りの穏やかな笑顔と言ったな、あれは嘘だ。
(目が、目が笑ってない!! 父様、実は結構怒ってた!!)
どれだけ時間感覚が人間と異なるとはいえ、二十年も休みなしというのはさすがに竜人の夫婦でも頭にくるものがあったのだろう。
いや、もしかしたら休みがなかったという事実よりも、休みを取ることのできなかった環境の方に腹を立てているのかもしれない。
声の温度から察するにきっとそういうことなのだ。
温厚を絵に描いたようなトールでさえこうだ。穴だらけになった実験場の後片付けでこの場に居ないメリアに同じ話題を振ったら、……いやそんな怖いネタは止めようじゃないか。
わずかながら血の気の引いたミアに気付いたか、トールは些か苦笑い気味ながらも目元を和ませる。
「いずれにしても、君の指導は業務と言っても過言ではないからね。君が気に病むことはなにもない」
「業務?」
「君は書字法術を修得しただろう?」
「はい」
「書字法術の術者はほとんどの例外なく中央図書院へ勤めることになるのだから、後進の指導は立派な業務の一環だね」
「……あっ」
――程度を問わず何らかの書字法術が扱える者は中央図書院で働いている
そういえば、そんな話もあったような。
(えっ、つまり自動的に進路確定……?)
「ミアが近いうちに私と同じ職場で働くことになるというのは、考えるだけでも嬉しいね。
今の職員たちにも、新人に情けないところは見せられないぞと、せいぜい激励しておくべきかな」
「近いうちですか?!」
「ああ、すまない。私の感覚では君が成人するまではあっという間だろう、ということだよ」
「……その進路は確定?」
「他に選択肢があると、いや、他の選択肢は難しいと思うよ」
「…………」
言い直した、途中で言い直したぞ。いや、実に有無を言わせない感じがひしひし伝わってきますね!
いつもと変わらない穏やかな微笑みながら、それはそれは嬉しそうな声音である。
人材不足を嘆いていたから、ミアのようにこの先何が出来るようになるかわからない生まれたて|(?)の術者でも身柄の確保は必至ということなのだろうか。
父様と同じ職場が嫌というわけではないですが、政治権力からなるべく遠ざかっていようという決意は無駄ですか……
(この先、穏やかな生活を送りたいというのは贅沢な望みになっちゃうのかな……)
ファミアーシュ・リスタ・ヘイアース、六歳にして学問文化の総本山へ終身雇用が確定した瞬間であった。
そんな衝撃の昨日一日を思い出しながら朝食を済ませる。
朝食が終わるといつもならメリアかアイルの指導が始まるのだが、この日は予定変更ということで全員書斎へ集まっていた。
「ミアの先々を考えると、少し予定を変えなければならないだろう」
「そうね。図書院行きが確定してしまったから、成人までわたしたちだけで指導する案は見直さなくちゃ……残念だわ」
「………」
せっかく可愛い時期を独占できると思っていたのに、とメリアが溜め息をつく。
この世界の成人は十七歳という話で、その年齢に達していなくても十分な技能と後見人がいれば独り立ちは可能と聞いている。
ミアとしては世話になりっぱなしというのも心苦しいし、成人を待たなくても独り立ちできるようになったらすぐに独立するつもりだったので、メリアが口にしたようなそんな予定は初耳だったのだが。
それはともかく、メリアがそう嘆くということは成人以前、いやもっと早期に彼らの手を離れる必要があるということか。
「どこか別のところでも勉強をする必要があるということ?」
「中央行くなら、そういうことになるねえ」
少々面倒そうな面持ちでアイルが同意する。
中央の院は、全てを含めて学問文化の総本山と呼ばれる。文官や研究者たちからすれば、どの施設に所属していようとそれだけでエリートと呼ばれることになるのだ。ヘイアース夫妻が院の中でどれだけの地位を占めているかはわからないが、希少な書字法術の術者|(予定)とはいえミア自身に外部での実績がなければさすがに厳しいスタートになるのだろう。
そのあたりの力関係は、当然といえば当然か。
「ということで、ミアには『共立中央教学院』に進学してもらう」
「それが無難でしょうね」
「……やっぱり中央の院なのは確かなんですね」
「試験に通りさえすれば大したことないって」
「ミアが合格しないはずがないでしょ」
「そんな暢気な……」
まだ詳しくは知らないが、たしかそれは中央院直轄の教育施設だったような気がするのだが。
当然のごとく世界最高峰の学舎であり、卒業できれば誰からも文句のつけようがない実績となる。その分、入学から卒業までの難易度は並大抵のものではないらしい。
(入試勉強とか試験とか、もう一回一通りを体験するってことかぁ)
大学入試のプレッシャーや課題に追われた学生時代を思い出し、遠い目のミアは今から既にお腹いっぱい胸いっぱいだ。
是非胃薬の用意をしておかなくては。あとは、どうにかストレス発散の方法を確保するしかないか。
「それで、いつ試験を受けに行くことになるわけ?」
勝手にポットを用意し適当に自分でお茶を飲み始めたアイルが問えば、メリアが思案げな面持ちを見せる。
「それなんだけど……普通は、十歳から受験の資格が与えられるのよね。今からだと四年後になるんだけどそれはどうかと思って」
「へえ、何か問題でも?」
「言ってしまえば、わたしたちの都合ね。三年くらいまでは復帰依頼を無視できるけど、それ以上はさすがに厳しいかも」
「………」
なかなか聞き逃せない単語が出てきたが、そこを尋ねると妙に話が逸れてしまいそうでどうにも追求しづらい。
しかし、そんなことを気にしないのが彼らの息子である。
呆れと苦笑のない混ざった声音は、珍しくミアの心境とシンクロしていた。
「それって、無視できるものなんだなあ」
「何言ってるの、今だってこっそり泣きつかれてるわよ。せいぜい良い機会だから頑張りなさい、で済ませてるけど」
「スパルタだねえ……」
「人のこと言えないでしょ」
「俺の代わりなんて探せばいるもんだよ」
己の事は平然と棚上げで、アイルはお茶請けに持ち込んだ瓜の浅漬けもどきをつつき始めた。
当然レシピ提供元はミアで、塩と小魚の干物からとった出汁をベースに多少の調味料で調整している。本当は昆布出汁が欲しいところだが贅沢もいえない。調味料の側で色々調整をして最近ようやく納得できる味になってきたところだ。
兄の顔を見ているとまんざらでもない様子に安心する。口に合うようで何よりだ。
アイルの反応に気を取られていたが、小さな含み笑いが聞こえて「あっ」と我に返る。目を細めたトールの視線に少しばかり身を竦めると、気にするなと言わんばかりに頭を撫でられた。
「話が逸れてしまったけれど、そういうことだからおそらく三年先が目処だろうね。九歳なら、推薦人の書類審査が上積みされる程度の話だ」
「その推薦人は、父様か母様が?」
「さすがにそれは難しいだろうから、知り合いに頼むつもりだよ」
「推薦を頼むとなると、……ナルスが無難かしら?」
「図書院関連は止めた方がいいだろうから、そうなるね」
「じゃあ、今日明日には連絡を取ってこっちへ顔を出してもらうようにするわ」
メリアが少々不本意な顔をしている。
推薦人の話は納得だが、三年後の話で今から連絡を取る必要があるのはなぜだろう。
「推薦人の書類には、推薦対象者の学習経歴も必要になるからね。今から顔を合わせておいて損はない」
「なるほど。わかりました」
実力もなく教学院へ潜り込もうとする不届き者への対策なのだろうと認識する。その気になれば偽装も可能だが、そこは実地試験でメッキがはがれるというところか。身元を偽ることはできるが、そうまでして推薦しても問題が起きれば推薦人の信用に傷が付く。推薦状を偽ることに、院から問題人物という烙印が押されることと引き換えるほどの利点はあまりない。身元を偽ってでも捻じ込みたいほどの素質があればまた話は変わるだろうが。
両親が入学試験のために必要な段取りを話し合うのを聞きながら、ミアはそういえば家族以外と知り合うことになるのは初めてだな、と気付く。
たまに街へ買い物に出ることはあるが両親か兄についていく形だから、今までこの家でミア個人が家族以外と直接顔を合わせる機会などなかった。
(もしかしなくても、過保護にされてた?)
などと大変に今更なことを考えながら、ミアは両親がこの家に呼ぶほど信頼している人物とはどんな人間なのだろうかと期待し始めるのであった。
「……あれっ、終身?」
「私とメリアですら、辞めさせてもらえそうにないからね」
(どれだけブラックな環境なんだろう……)
1.他の職員を優先で休ませていた
2.休もうと思ったら他では処理できない案件が発生
このサイクルで、気が付いたら無休が続いていたとのことです。
氏がご立腹なのは2について。




