傷ついた若き王子の来訪
「……ここが、噂のハーブ園『プチ・ルテティア』か」
深い夕闇がカルミア村を包み込み始めた頃、門の前に一人の若い旅人が佇んでいた。
深いフードを目深に被り、旅用のマントを全身に纏っているが、その隙間から覗く肌は異常なまでに青白く、額には嫌な冷や汗がびっしりと滲んでいる。彼はまるで自身の体を引きずるように、フラフラとした足取りで門をくぐり抜けてきた。
「あら、お客様かしら? あいにく本日の営業時間は……」
テラスの片付けをしていたクロエが声をかけようとしたが、その旅人は突然糸が切れたようにバランスを崩し、その場で崩れ落ちそうになった。
すかさず、近くに控えていたルークが素早い身のこなしで駆け寄り、その細い体をしっかりと支え上げた。
「おい、しっかりしろ……! こいつ、ただの疲れじゃねぇぞ。全身から尋常じゃない『呪詛の魔力』が噴き出している……!」
ルークの鋭い声に、私は手を止めて振り返った。
フードがふわりと剥がれ落ち、露わになったその少年の素顔を見た瞬間、私の胸の奥がギュッと締め付けられるような強い痛みに襲われた。
銀色の美しい癖毛に、透き通るような緑色の瞳。
十五、六歳ほどに見えるその少年は、苦痛のあまり顔を歪めながらも、どこか気高い気品を纏っていた。
そして何より——その面影は、前世のフランス宮殿で私が命をかけて守り、そして残酷な運命の中で引き裂かれてしまった愛息、ルイ=ジョゼフの姿と驚くほど重なっていたのだ。
「……おやめなさい、ルーク。乱暴にしてはなりませんわ」
私はすぐに彼のそばに歩み寄り、少年の冷え切った両手をそっと包み込んだ。
触れた瞬間、ズシリと重い冷気が私の指先を通じて全身を駆け抜けた。それは、隣国との権力闘争の果てに陰謀で仕掛けられた、人間の精神と肉体を内側から蝕む悪質な呪いの魔力だった。
「わ、私は……助けを……最後の望みをかけて、ここへ……」
少年はかすれた声でそう呟くと、そのまま意識を失い、私の腕の中に倒れ込んだ。
「……王族の人間か」
ハーブ園の奥にある静かな個室のベッドに少年を寝かせたあと、ルークは腕を組みながら低く呟いた。
「身につけている下着の刺繍や、その魔力の質からして間違いない。隣国の第一王子……アルフレッドだな。政治的な暗殺未遂に遭い、呪いをかけられて王宮から逃げ出してきたってところか」
「アルフレッド王子……」
私はベッドの傍らに椅子を引き寄せ、少年の額に浮き出た黒い呪いの痣を指先でそっと撫でた。
肉体を焼き尽くすような呪いと、孤独の中で誰も信じられなくなった恐怖心が、この若き王子の心をズタズタに引き裂いている。
「マリー、下手に深入りしないほうがいいかもしれないぜ。隣国の政治闘争に巻き込まれたら、この村ごと面倒なことになる」
ルークの忠告はもっともだった。
けれど、目の前で苦しんでいる子供を前にして、前世で我が子を失った母親としての記憶を持つ私が、見過ごすことなどできるはずがなかった。
「ルーク。私はね、前世で母でしたの」
静かに、しかし揺るぎない決意を込めて私は言った。
「我が子を守れず、手のひらから零れ落ちていく絶望を味わった。だからこそ、今目の前で助けを求めている子供を見捨てて、何の王妃だ、何の人生だと言えますの?」
私のその強い瞳を見た瞬間、ルークはそれ以上何も言わず、ただ小さく息を吐いて頷いた。
「……分かったよ。お前のやりたいようにやれ。外の警戒は俺が完璧に固めておく」
それからの数時間、私は『プチ・ルテティア』の持てるすべての技術と魔力を結集させ、王子の治療にあたった。
呪いに侵された肉体と精神を癒やすには、ただ薬を飲ませるだけでは不十分だ。
私は蒸留器をフル稼働させ、極上の『月光草』と『ネロリ』、そして神経を鎮める『ラベンダー精油』を黄金比率でブレンドした巨大なアロマトレイを用意した。
「クロエ、窓を少し開けて。お部屋全体を、深い癒やしの芳香で満たしますのよ」
「はい、マリー様!」
部屋の中に、天上の庭園を思わせる、どこか懐かしく温かい香気がふわりと満ちていく。
それは、人間の嗅覚と脳の深部に直接働きかけ、呪いによって引き起こされた恐怖の幻覚やトラウマを優しく包み込み、強制的に深い休息へと誘う「香りのゆりかご」だった。
さらに私は、温めたミルクティーに『カモミール』と『野生タイム』の濃縮エキスを数滴垂らし、少年の乾いた唇にそっと含ませた。
「お眠りなさい、アルフレッド。もう何も恐れる必要はありませんのよ」
母が我が子を寝かしつけるように、私は彼の銀色の髪を優しく、ゆっくりと撫で続けた。
奇跡は、夜が最も深まった頃に起きた。
少年の額に浮かび上がっていた黒い呪いの痣が、ハーブの芳香と私の込めた魔力に反応し、スッと霧のように薄れていったのだ。
あれほど苦しそうに荒れていた呼吸が、規則正しく、穏やかなものへと変わっていく。
翌日の昼下がり。
「……ここは……?」
ベッドの上で、アルフレッド王子がゆっくりと緑色の瞳を開いた。
彼は身構えるように起き上がろうとしたが、全身を駆け巡っていたあの重苦しい呪いの痛みが嘘のように消え去っていることに気づき、自分の両手を信じられないものを見るように見つめた。
「気がつきましたか、王子様」
窓辺の席で優雅に紅茶を傾けていた私が声をかけると、王子はハッとしてこちらを向いた。
「きみは……昨日の……」
「カルミア村のハーブ園『プチ・ルテティア』の主、マリアージュと申します。……お体のお加減はいかがかしら?」
アルフレッドはしばらく言葉を失っていたが、やがて自分の胸元に手を当て、震える声で呟いた。
「……ぼくの体から、呪いが……消えている? あんなに全身が焼けるように痛くて、毎晩悪夢にうなされていたのに……嘘だろ……?」
「嘘ではありませんわ。あなたの体力を奪っていた呪詛は、我が特製ハーブの芳香浴で完全に浄化いたしましたわよ」
私が微笑みながらカップを置くと、アルフレッドは急に瞳を潤ませ、堪えきれなくなったように両手で顔を覆った。
王宮という冷酷な権力闘争の中で誰にも心を開けず、暗殺の恐怖に怯えながらたった一人で逃げ出してきた十五歳の少年。その張り詰めていた糸がプツリと切れ、彼は子供のように声を上げて泣きじゃくった。
私は立ち上がり、彼のベッドに歩み寄ると、まるで本当の母親のようにその背中を優しく、温かく包み込むように抱きしめた。
「よく頑張りましたね、アルフレッド。もう大丈夫ですわ。ここでは誰もあなたを傷つけません。あなたはただ、安心して休めばいいのです」
少年の嗚咽が、静かな部屋にこだました。
彼は私のドレスの袖をきゅっと掴み、まるで縋りつくように、私の温もりに身を委ねて泣き続けた。
その様子をドアの隙間からそっと見守っていたルークは、大きく息を吐き出すと、フッと珍しく穏やかな笑みを浮かべた。
「……まったく。お前は本当に、どこまで人を救いちぎる気だか」
窓の外では、カルミア村の優しい風がハーブ園の葉を揺らし、心地よい香りをどこまでも運んでいく。
傷ついた若き王子を救い出した『プチ・ルテティア』は、今日も最高の愛と美しさに包まれながら、穏やかな奇跡の時間を紡ぎ続けているのだった。




