第32話 狂った黒竜に相対する者達
見えない、聞こえない、感知も出来ない。
だから、何だ。
その程度、全てを奪ったリンドバルドへ挑まぬ理由に成り得る訳が無い。
一度だけ。ジゼルを殺される前に見た巨躯。
レーヴェンが『怖いもの』と戦う所作。
数多の竜を屠った経験則。
キーゼルはそれらを培い、不可視の狂った黒竜に挑む。
竜族達は彼女らを遮るように防護陣を形成する。その間を縫って──
キーゼルがリンドバルドに突っ込んでいた。
「キーゼル様! 後退を!」
カルミアが叫んだ。彼女の警告で、キーゼルは漆黒の大剣を構えたまま後方へ飛ぶ。その動きは俊敏ではあったが──どこか盲目的で、的を得ていない。
ドンッ!
黒竜の左前肢が地面を殴りつけた。衝撃波がキーゼルの肌を揺らす。
「……ッ!?」
彼は予想以上の衝撃に反射的に横へ跳んだ。だが全身を鳴らす警鐘は肉体への警告に至らない。──見えない。
「‥‥‥っ」
腰から取り出した銃を撃つもこちらへの軌道を変えただけで掠りもしない。
リンドバルドの咆哮の揺れが鼓膜を刺し、草原がざわつく。だがキーゼルの視界はプリムラたちの位置関係だけ分かる暗闇の中にいるようで、敵影を捉えきれない。
(……ああ。また、『これ』か)
前世の記憶が疼く。壊された『プリムラ』。ジゼルを拷問され、焼き殺された。
陵辱され、焼かれた無数の残像。
──『プリムラ』が最も恐れ慄いた『リンドバルド』という存在は、キーゼルの中に忌避と恐怖の鎖となって絡みつき、視認することすら拒んでいる。
「チッ……!」
彼は舌打ちし、左右を睨む。そこに見えるのは荒れ狂う景色と風だけで、巨竜の位置は不明瞭だ。
「右斜め前──!」
カルミアが指示を飛ばす。
「一歩下がりなさいキーゼルっ! 」
ルビアが援護に回りながら警告する。
「剣を引け!そして叩き付けろ!!」
竜族もキーゼルの異変に気付き声を掛けた。
現状、リンドバルドの動きに対応できるのは、あの黒髪の人間だけという皮肉。
二人の声でようやく方向を定め、キーゼルは斬撃を放つ。
だが刃は虚空を裂いた。金属音もなく、命中の感触もない。黒竜はすでにそこにはいなかった。
「お前がプリムラの間男か!?今度はどうやって甚振ってやろう!!」
(ダメだ……視えない)
リンドバルドに関して、五感の全てが機能しない。
額から汗が滴る。それでもキーゼルは疾走し続ける。大剣の重量が腕に重くのしかかるが、今ここで怯めば、プリムラを守れない。
「何度も…死なせるかよ‥‥‥!!」
「ふはは……! お前たちなど……我が愛しい番に比べれば蟻以下よ!!」
リンドバルドが炎を吐き出す刹那。
竜が炎を吐き出すタンギングの音が微かに聞こえた。
見えぬ筈の左目に、その狂った黒竜の背面と。
キーゼル自身が視えた。
「‥‥‥!?」
理屈は分からない。だが、大剣を盾に炎を辛うじて回避は出来た。
先ほどの奇妙な現象は、ゆらりと陽炎のように揺れ、消えてしまった。
次の瞬間──
「──おぉおおおおッ!!!」
カルミアの叫びと共に短剣が閃き、リンドバルドの腕に深々と短剣を突き刺した。
短剣の柄に彫り込まれた毒の牙が狂った黒竜の血管に侵入する。
「……ん? ……ははっ!!」
突然リンドバルドが哄笑した。鋭い爪をカルミアの胴に食い込ませ、吊り上げる。
「母上……よく来た!!」
黒竜の瞳孔が垂直に割れ、狂喜の光を放つ。
「神は……我に試練を下したのだ!! 運命の番は母と同化した!!
……母という『禁忌』を犯すことで……力を奪い、呪いを加える……最高の罰であり褒賞だ!!」
番の喪失によって最小限の力しか持てぬ、人化した母を見てリンドバルドは笑う。
プリムラを庇いながらルビアは呻いた。
「……罰せられるのは…お前だ……リンドバルド……!」
リンドバルドはカルミアの服を引き裂き、胸の竜紋に爪を這わせた。
「私が罰せられる!?神龍ですら私を許した!!それに比べ貴様はどうだ!?
運命の番と出会い、男の元に向かった淫売がっ!!貴様の所為で我が父がどれ程悲しみに暮れたと思っている!!
その罪を私が浄化してやろう!!神龍が定めた運命の番である私が!!」
「やめろ、この外道!!母様から離れろ!!」
ルビアが悲鳴に近い声を張り上げた。
「私は…私は……!!」
カルミアが呻いた。
『殿下、また泥だらけになって。全く、今回も豊作でございますね』
『カルミア、王太子教育も執務も終わらせたから、勘弁しておくれ。
…先々代竜王の一件。もう我々には後が無い』
『――ええ、存じております』
『私の代で竜族ら民を飢えさせたくはないからね。空の国を豊かにしたいのだよ。出来る事なら、ラトビルの作物を地上にも伝えたいね。
地上の民が飢える事の無い、守護者としてこういったものも必要だと思うんだ。
…そろそろ木房苺のシロップが出来ている頃かな?一緒にお茶の時間にしよう――』
王子だった頃から、あの人は――
「貴様の父…竜王のお怒りが重要だと……貴様が言うのか!?」
カルミアの声が荒れ狂う風の中でも鋭く響く。
リンドバルドの爪が深々と彼女の腹部に食い込み、鮮血が滴る。それでも彼女は歯を食いしばり、紅玉のような目を見開いた。
「竜王と私の間に男女の愛はなかった!だが王への敬愛はあった!
彼は凡夫と罵られても常に民の幸福を願い、自らの感情を押し殺して国の礎となられた方だ!我々にとって、素晴らしき王だった!!」
喉から血の匂いが滲む。それでもカルミアは泣きながら叫び続ける。
「その竜王に!お前が何をした!?
前世の『プリムラ』を弄び!抵抗する彼女を甚振り!
挙句の果てにジゼルを…あの人の子まで巻き込み焼き殺した!
お前が傷つけたのは彼女たちだけではない……竜王の心もだ!」
リンドバルドの目に初めて曇りが浮かぶ。
「……何を言って……」
「忘れたか!?前世でお前が番解消を言い渡された時の態度を!
竜王が止める腕を切り落とし、致命傷を与えたのはお前だ!
その結果狂ったケダモノを縛るために竜王は!
同族に惨たらしく殺され貴様を縛る呪いと化した!!
己の欲望のために家族を壊したのは誰だ!」
カルミアの身体が震える。怒りと悔恨と……それでも守るべきものを思う母としての本能。
「母が番に囚われるなど恥だと?よく言えたものだ!
己の歪んだ欲に狂い!
運命の番という言葉を免罪符に!幾度も幾度も!
純粋な魂を貪ってきたお前が!!我が子すら間男と呼び食った下衆が!!」
リンドバルドの顔面が歪む。
「母上……どうやらお前は本当に狂っているな……。
――さあ、私の愛を受け入れてください」
嘲弄の笑みが崩れた。
「グッ!?」
突然、竜の瞳孔が細くなる。カルミアが竜の爪に挟まれたまま、袖口から更にもう一本の刃を抜き出し——
ザシュッ!
黒竜の厚い胸板へ深々と突き刺した。
「おのれ……!?」
硬い鱗に阻まれ、肉にほんの少し刃先が刺さっただけとはいえ、『番』の行動にリンドバルドが声を震わせる。
「キーゼル! これなら『見える』だろう!!」
カルミアが吠える。竜の爪が震え、締め付けが緩む。
「私の死に意味を持たせて!私の背中を貫き…この狂竜の心臓と……私の魂ごと刺し貫け!!」
「また間男に縋るか!!プリムラぁ!!!」
黒竜の咆哮が低く響く。巨体が痙攣し始めていた。猛毒が急速に血管を巡り、筋肉を麻痺させているのだ。
「母上……! 貴様……!!」
リンドバルドの咆哮が歪む。視覚を封じられたキーゼルにとって、その震えは位置特定の唯一の手掛かりだった。
「――ッ!」
(これしか、無いのか?)
刃を携えたキーゼルが疾走する。母が不自然に宙に浮かぶ位置関係の光景の中――
「…掴まえたで」
その尻尾を、プリムラはガシッと掴んだ。
+++
「ルビアお姉ちゃん。うち、怒った。あの竜投げるから、管理人さんを助けられる?」
「プリムラ、貴女は戦場に居ては…」
「約束したんよ。友達、護るって。五百年前に、あの真っ黒い竜にそう言った。
あとな‥‥‥」
プリムラは、ゆっくりと瞳を開いた。
リンドバルドの炎を回避するキーゼルを彼女は見ていた。
「…!!」
「あそこで、うちの『運命の番』が戦っとんよ。でもな、見えんで困っとる。
うちが『怖いもの』を見る目にならんと。『怖いもの』で不安になる番を支えんといかんの」
「あなたは――」
プリムラの左右違う色の瞳。翡翠色の瞳に竜紋が輝いていた。
ルビアはもう片方の色を見て、呟いた。
「レーヴェン…?」
紅と翡翠色のオッドアイは、レーヴェンの色だった。
「神様にお願いしたんよ。お友達と同じ色にしてって」
+++
「――アンタやね。うちの友達に酷いことしたん。うちのお姉ちゃんのお顔、怪我させたん。お父ちゃんを苦しめてるん。
管理人さんがあんたの所為で、どんだけ苦しんでると思ってん。
いい加減にして!!この馬鹿!!
よくもゼーちゃんを、『プリムラ』を吹き飛ばしたね!!??」
プリムラの行動に、キーゼルは咄嗟に叫んだ。
「『ジゼル』!!!!!」
プリムラの前腕が隆起し、リンドバルドを投げ飛ばした。
「うちの友達、虐めんで!!」
彼女の腕が隆起するや否や竜の巨体が宙を舞った。
刹那、黒竜の腕を両断する影。
バーンベルクの護衛が放った一閃がカルミアを捕縛していた腕ごと切り落とす。
カルミアを抱え、着地すると護衛は駆け寄ったルビアへ彼女を預けた。
黒竜が地に叩きつけられる轟音が平原を揺るがす。
リンドバルドの身体が当たったのか、彼女の胸元から竜紋が覗き輝いていた。
そして。
「なっ何故!?何故貴様は竜紋を……二つ持っている‥‥‥!?」
「…ゼーちゃん、見える?悪い竜さん」
プリムラの閉じたままの瞳は、開いていた。
キーゼルの左目の眼帯がハラリと落ちた。
かつて、大切な友人の色だった琥珀色の瞳は、キーゼルの左目に。
同じく、大切な友達の色だった翡翠色の瞳は、プリムラの右目に。
それぞれの片目に、同じ竜紋が刻まれていた。




