第12話 ジゼルの死
私は洞窟内の温泉池で休息を取っていた。熱めの湯に浸かる羽毛のジゼルがぴちゃぴちゃと水面を叩くたびに、白い泡が立ち昇る。
「ほらほら!あっちに虹色の石があるよ!」
「まあ……綺麗ね」
ジゼルが差し出す瑠璃色の小石を受け取りながら微笑む私の脳裏を、不吉な影がよぎった。
水晶宮殿での屈辱。
リンドバルドの侮蔑に満ちた眼差し。
そのすべてが突如として遠い過去のように思える安穏がここにあった。
しかし次の瞬間――
何かが壊れる音がした。
ドォオンッ
洞窟入り口を覆う巨大な黒竜が現れた。
刻まれた竜紋がその存在をハッキリと示した。
私の『運命の番』、リンドバルドだと。
リンドバルドが洞窟奥へと迫る様は、冥府から這い出る悪鬼そのものであった。私の全身が凍りつく。竜紋が脈打ち、逃れられない引力と恐怖が交錯する。
「プリムラ……私だ」
竜の巨体から響く低音が洞窟を震わせた。ジゼルが羽根を逆立てる。
「来るな!お前なんか怖くないぞ!」
幼い竜が威嚇する姿は余計に危険を招いた。リンドバルドの赤い瞳孔が細まる。
「ふん。そなたのような羽虫が庇う資格なし。私の妻は水晶宮殿に戻るべきなのだ」
「僕の友達だ!友達は守るものだろ!」
「愚かな」
巨大な尾が一薙ぎされ、温泉池の岩壁が崩れ落ちた。飛沫と熱気の中でジゼルが私の背後に飛び込む。
「危ない!」
私をジゼルが庇い、崩れた岩や熱気から守る。
リンドバルドが鼻先を近づけた。
「天上の城には銀糸を編んだドレス、星屑の首飾り、竜紅玉の耳飾り、ありとあらゆる財が待つ。ああ、お前には私の種も授けてやろう。
貴様だけに許される贅沢だ。なぜ拒む?」
「いや…帰りたくない……!!私はそんなものいらない!!」
「何だと……?」
リンドバルドの鱗が逆立った。岩盤を震わせる怒号が洞窟内に反響する。
「贅沢な暮らしに憧れておらぬというのか?私の愛を要らぬと!?」
私は唇を噛み締めた。逃げ出したあの夜から気づいていた。
自分が求めているのは宝石でも権威でもない。ただ『普通』の愛情だ。
「私は……あなたが嫌いです」
震える声で絞り出す。
「リンドバルド様……あなた様など必要ありません!」
ゴォオオッ
リンドバルドの全身が灼熱の炎で赤黒く染まった。巨大な尾が湯面を叩き、熱水が瀑布のように降り注ぐ。ジゼルが庇うも私のドレスが裂け肌を打つ。
「ジゼル!?大丈夫!?ジゼル!?」
「他の男の名を呼ぶな!!‥‥‥その程度で私を拒絶だと?」
竜の牙が剥き出しになり、周囲の大気が灼熱で歪む。
「ならば……貴様に近づく羽虫を屠ればよかろう!」
ズドンッ
岩壁が崩れジゼルの目の前に迫る瓦礫。小さき竜は私を庇う形で押し倒した。
「退け小僧!」
黒竜の瞳孔が怒りで膨れ上がる。人間ならば心臓を潰す力で尾が振り下ろされる――刹那。
「だめぇぇっ!!」
私は震える膝を鼓舞し立ち塞がった。両手を広げジゼルを庇う。
リンドバルドの動きが停止した。その胸に渦巻くのは底知れぬ嫉妬。
「私の……番が……他の男を庇うだと?」
声は平静を取り戻したかに見えたが瞳は狂気で濁っていた。
「面白い。貴様のその純粋さ……壊れる瞬間をぜひ見てみたい」
尾が静かに引き戻された。代わりに黒竜の口元が歪む。
「ギャッ」
「ジゼル!!」
炎の爪がジゼルを絡めとり私から引き離す、彼の羽毛をジリジリと焦がした。
「ジゼルと言ったな?この小竜。貴様の代わりに拷問してやろう」
私の翡翠色の瞳が限界まで見開かれる。
黒竜の爪が幼竜の身体を幾度となく引き裂き、片翼をブチブチと千切った。
「やめて……!ジゼルに手を出さないで!」
「ならば城へ戻れ」
「ダメだよプリムラっ、僕は大丈夫だから、逃げて!!」
「嫌よ!」
竜の吐息が洞窟全体を震撼させる。熱風が私の亜麻色の髪を逆立たせる。
「貴様の哀れな拒絶など見飽きた。このような間男がいるから私の愛が届かぬのだ」
リンドバルドの視線は既にジゼルへ注がれている。地面に力任せに叩きつけられ、白い羽毛がひしゃげ、震える小さな体躯は恐怖で動けない。
黒竜の口元が熱気で歪み、殺意が圧縮される。
「やめてえええ!!!」
「プリムラ……幸せになってね……」
私の絶叫と同時に黒竜の口から炎が噴出した。洞窟内の温度が急上昇し岩盤が溶解する。
「ジゼルぅぅっ!!」
彼女の手が虚空を掴むも間に合わない。優しい幼竜の輪郭が炎に呑まれた――
私の足元で灰が舞い上がった。ジゼルの姿はなく、代わりに一枚の真っ白い色の羽根が落ちてくる。竜紋が酷く疼いた。
「嗚呼……プリムラ。私はお前の愛を感じる。私の愛を知ってほしい。
永遠に愛そう!!共に行こう!!」
私の足元にリンドバルドの炎が迸る。
「私の愛を受け入れて!君が傷つくたびに私は満たさせる!!
嗚呼プリムラ!!私が狂ってしまうじゃないか!!
君無しじゃ私は生きていけない!!君だってそうだろう!?
私を失って寂しい思いをするんだ!!私のいない世界なんて退屈だろう!?プリムラ!!!」
リンドバルドは荒れ狂う感情のまま私にそう言った。
だけど、リンドバルドの歪んだ愛情は私の心を砕くばかり。
ああ、無垢な愛をくれた子がいた。
ジゼル。
あなたが息苦しいあの天空城で私に息の仕方を教えてくれた。
あなたがラトビルの素敵な場所を沢山教えてくれたから、牢獄ではなくなった。
あなたの笑顔に救われた。
なのに。
私がリンドバルドの番だから、あなたは――
プツンと。
プリムラの『何か』が切れた。
+++
先代国王がかつて番の隠れ家として張った堅牢な結界が破壊された。
――あそこにプリムラとジゼルは避難していた。
(愛に狂った運命の番は…こうも恐ろしい力を発揮するとは)
「ルビア様!」
兵士の叫びに顔を上げると、洞窟の入り口には硝煙と血の臭いが充満していた。ルビアの背中に氷柱が突き刺さる様な感覚が襲う。
ゴオオ……
熔岩のごとき熱波が頬を撫でる。岩盤が溶けたのか洞窟は半壊状態。黒竜の姿は見えない
胸の内で何かが千切れそうになる。
「プリムラは……?」
ルビアの眼前に広がる地獄絵図は言葉を超えていた。
黒竜――彼女の弟の残した爪痕は岩盤を溶解させ、硫黄と腐敗臭に満ちた空間を生み出していた。半壊した洞窟内には巨大な焦げ跡が走り、壁面には黒竜の尾が引き裂いたと思しき爪痕が無数に刻まれている。
そして――
引き千切られた純白の翼が、地面に残骸のように打ち捨てられていた。
羽毛は灼熱の炎に焦がされ炭化し、わずかに残った部分だけが雪のような白さを留めていた。
「ジゼル‥‥‥?」
その隣には――ジゼルの亡骸を形成していたであろう灰塵の小さな山。風が吹けばすぐに拡散してしまう脆さで積み重なっていた。
「……嘘……」
ルビアは呆然と呟いた。手袋越しでも感じる羽根の冷たさと灰の軽さが現実を突きつける。彼女は踵を返し、炎と煙でまだ燻る洞窟内部へ進む勇気も出せず立ち尽くしていた。
「プリムラ!!」
洞窟の入口から数百メートル先――そこにプリムラがいた。だがそれは以前の彼女ではなかった。傷ついた足で彷徨い続けるその姿は幽鬼のようだった。
亜麻色の髪は煤と炎の熱で灼かれパサつき、服は焼け焦げ破れて肌が露出している。翡翠色の瞳は空を捉えず、焦点の合っていない視線が左右に泳ぐ。口元がかすかに動いていた。
「ジゼル……どこ?」
誰も聞いていないのに繰り返される言葉。まるで幻影の中にしか存在しない何かを探すように。
「どこにいるの……?一緒に……遠くに行こうって……約束したのに……」
ルビアの足元から力が抜けそうになった。
ついさっきまで笑顔を見せたジゼルの無垢な声が耳鳴りのように甦る。
守れなかった。
ジゼルの無垢な笑顔も
プリムラの心も。
ミレットの、命を賭けた献身も。
――三人のいずれも、守れなかった。
+++
「プリムラ!!しっかりしなさい!!」
駆け寄り肩を揺するが反応がない。その体温は異様に低い。冷や汗で濡れた肌と焦点を失った瞳が精神の崩壊を物語っていた。
「プリムラ!!わたしよ!!ルビアよ!!分かるでしょう!?」
虚ろな瞳が一瞬だけこちらを向けた。
けれどその中にあるのは憎しみでも混乱でもない――完全な空洞だった。まるで魂そのものが引き抜かれた抜け殻のように。
「ジゼル……」また呟く。
「どこ……?」
「……ッ!」
堪えきれずルビアの両手がプリムラの肩を強く掴んだ。彼女の胸に熱いものが込み上げる。
「ごめんなさい……ごめんなさい……っ!わたしが……わたしがもっと早く駆けつけていれば……」
ポロポロと涙が溢れ落ちた。
それは自責の念であり、ミレットの全てを賭けた姉の解放を成し遂げられなかった不甲斐なさが混じっていた。
ふらりとプリムラは未だ燃え盛る炎へと向かう。
「危ない!」
それを、物陰から現れたリンドバルドが制止しようと阻む。
だが――
「‥‥‥?」
リンドバルドにぶつかっても、プリムラは何の感情も抱かない。
まるで透明な何かに阻まれたように左右に動く。
『通れない』と認識したのか、プリムラはルビアのいる方へと戻っていった。
「姉さん‥‥‥」
愚かな弟は悲壮な様相で告げる。
「プリムラは…私が見えていないのです。私が吐いた炎すらも」
リンドバルドの瞳孔は常軌を逸していた。番同士を繋ぐ竜紋が機能していない――彼の胸元にはかつて輝きを放っていた紋章が今は灰色にくすんでいる。
「なぜだ?なぜ拒絶される?」
「見てわからないの?あの子を……私の大切な家族を殺したのはお前だ!」
ルビアが指さす先で小さな真っ白い色の羽根が地面に散っていた。
「殺した?殺した……?」
リンドバルドの膝が折れる。自我が崩壊していく様が痛々しいほど明らかだった。
「違う……愛していた……守りたかっただけなのに……」
「貴方のその歪んだ執着が……ジゼルを奪い、プリムラの心を殺したのよ!!」
「私は‥‥‥彼女の幸せを………」
ガッ
ルビアの拳が彼の頬を捉えた。肉と骨が擦れる鈍い音。
「近づくなこの怪物!!」
魂の底から叫ぶ姉の怒りは純粋な憎悪を超えていた。
間違えた。
何もかも、間違えた。
――プリムラもジゼルも、守れなかった。
――ミレットの死を賭した想いに答えられなかった。
激情のまま動いたルビアの視界はぐるりと回り、――失神した。
頭部に受けた損傷を碌に治療しないまま、長距離の飛行。
肉体も精神も限界を超えていた。
リンドバルドは殴られたまま硬直した。
(愛を育む契約を破壊し尽くした……私こそが罪人?)
竜紋が物理的に痛むわけではない。胸の中心を抉る喪失感そのものが罰なのか?
「…番様の治療を。」
竜騎士団長はルビアに代わって指示を飛ばす。
リンドバルド王子は番の肉親を最悪な形で死に至らしめた。
神龍様の沙汰を待たねばならない。
プリムラと昏倒したルビアを連れ、彼らはラトビルに戻った。




