第9話 プリムラの逃亡
耳を疑った。
その晩のこと。
一度も使ったことの無い夫婦の寝室から漏れる甘い喘ぎ声。
側室たちとここでの戯れに参加させられた事はあったが、直接的な交わりは無かった。
強制された時は…ルビアが助けてくれた。
「リンドバルド様ぁ……もっとぉ……」
義妹ミレットの媚びた声が壁越しに響く。わざと扉を開け放たれており、プリムラが通路を通りかかる時間を狙ったかのようだった。
優しく、甘く、溶け合うような逢瀬。
プリムラの翡翠色の瞳が絶望で染まる。大理石の床に崩れ落ちる音さえ、彼らは陶酔に変えてしまうのだろう。
せめて、夫婦として信頼関係を築ければ良かった。
おはようございます、おやすみなさい。…これだけ言える関係性だけでも良かった。
それだけで、良かった。家族になってくれるだけで。
どうして?
運命の番を拒絶し、嘲笑の対象にする。この背徳行為こそがリンドバルドの魂を潤すのだろう。
私が絶望することで、彼の幼少期のトラウマが癒されていくのだろう。
私が――
そして、愛を囁き合う声が部屋の中から聞こえる。
部屋の扉は半開きだった。
義妹ミレットの嬌声が廊下に響き渡る。リンドバルドの低い嗤い声も交じる。
「ああ……素晴らしい……。野暮ったいプリムラとは大違いだ」
その言葉が刃となってプリムラの胸を切り裂く。
大理石の床にへたり込んだ彼女の頬を涙が伝う。
(ここまで私を辱めるつもりなの?)
プリムラの足は鉛のように重かった。大理石の廊下を這うように進みながら、耳の奥にはなおも義妹の嬌声とリンドバルドの嘲笑が反響していた。
「あの小汚い『番』とは全く違う」
その一言が心臓を抉る。運命の番として娶りながら、公衆の面前で他の女を侍らせる夫。
そして今度は義妹との行為に勤しみ、そして――
(聞きたくない……!)
思わず手を耳に当てるが、頭にこびりついた音は容赦なく彼女の鼓膜を侵食する。
彼の吐息混じりの声が残酷な宣告となった。
「受け止めろ……ミレット……!」
子種が注がれる瞬間を想像しプリムラの全身が粟立った。
背筋を駆け上る氷のような恐怖。
運命の番として選ばれていながらこの扱い――それは彼女にとって最期の自尊心さえ粉々にする暴挙だった。
踵を返すのが精一杯だった。涙で視界が滲む廊下を足早に駆け抜ける。途中で使用人達とすれ違ったが誰も止める者はいない。むしろ憐れむような眼差しを向ける者すらいる。だがそれすらも悪意に感じられた。
「……もう、嫌…逃げたい、何処か誰も知らない場所へ――」
涙が頬を濡らしても拭う気力もない。ただ体が重い。これまでリンドバルドの冷遇に耐えてきたが今回ばかりは限界だった。
義妹を慈しむような行為を重ねる姿を見せられながら、自分はどんな扱いを受け続けるのだろう?
「これが……運命の番……?」
運命の番という言葉が滑稽に思える。
そんな運命は要らない。
ただ、誰にも邪魔されずに、静かに暮らしたい。
気付けば、プリムラはふらふらと王城の外へ出た。
「お姉さん!」
小さな影が駆け寄ってきた。ジゼルの柔らかな手がプリムラの震える手を包む。
「どうしたの?大丈夫?」
プリムラは答えられずにただ首を振った。呼吸すら苦しい。
でも、ジゼルの温もりが少しだけ息を軽くした。
「逃げたい」
自分の頭一つ以上背の低いジゼルに縋りついて、涙を流し、そう零した。
「遠くに行きたい。知らない景色を見たい」
「…うん。いいよ、一緒に見よう?」
ジゼルは羽の生えた腕で彼女をしっかりと抱きしめると決意に満ちた声で宣言した。
「ぼくに乗って!」
ジゼルの体が眩い光に包まれた。
羽毛が広がり、翼が浮かび上がる。
肌が白く輝き爪先が尖る。
最後に尾羽が伸びると一人の少年は美しい白いふわふわした竜の姿に変わり果てた。
『乗って、お姉さん』
くぐもった声が届く。プリムラは躊躇うことなく背に乗りこんだ。
柔らかな羽毛の感触と暖かな体温が不安を紛らわせてくれる。
竜の喉が低く唸り、大地が震えた。
翼が大きく開き強風が巻き起こる。
「行くよーっ!!」
一気に跳躍。
天空城の基盤を蹴り抜き空中へ浮かび上がった。
月明かりに照らされた山々が眼下に広がる。
プリムラは風圧に負けないようにしっかりとジゼルを掴んだ。
風の匂い。自由の香り。
(本当に逃げられるなんて……)
希望と不安が混ざる感情。心臓の鼓動が加速する。
「プリムラ!ルビアお姉ちゃんの伝言だよ!!」
ジゼルが叫ぶように思念波を送る。
『北の方角の森林に安全な隠れ家を用意しています』
プリムラの目に新たな涙が溢れる。孤独ではなかった。
(……ルビアお姉さま、ありがとう)
+++
夜闇に包まれた北方の森――
プリムラとジゼルは大きな湖畔に降り立った。
「着いたよ、お姉さん」
ジゼルが人間の姿に戻り大きく背伸びする。
湖面に映る月が美しい。
地上の草原はどこまでも広がり、竜族の王国の影一つなかった。あの窒息しそうな悪意と嘘が渦巻く天空の城は、もう彼女にとって夢だったのかと思うほど遠かった。
「遠くへ……本当に遠くへ来てしまった」
かすれた声が自分の唇から零れる。ジゼルは小さな翼をぱたぱたと動かしながら、金色の瞳で振り返った。
「お姉さん……大丈夫?お腹空いた?」
彼の言葉は未熟だが温かい。水晶宮殿では決して味わえなかった柔らかな感触が胸を満たした。
「ねえジゼル……私たち、どこまで来たの?」
「お姉さんが、お腹いっぱいになったらいい所!」
彼は無邪気に笑う。その笑顔は水晶宮殿で見た偽りの華やかさよりずっと眩しい。
「ここだよ!おいしい果物の木があるの!」
岸辺に立つ巨木からは甘酸っぱい香りが漂い、熟れた黄色い実が鈴なりになっている。
洋紅檸檬だ。ここにも成っているのね。
「食べる?」
「ええ……ありがとう」
私は恐る恐る口に運ぶ。
カラカラになった心が、『美味しい』と感じた。
この果実は素朴だが体の芯から活力を与えてくれる。
此処には自分を攻撃する夫も人間の番だと蔑む竜族の目も無い。
ただ、無垢なジゼルの温かな眼差しがあった。彼は私の幸せを素直に祈ってくれる。
「ルビアがね、近くに温泉って温かい水があるって言ってた。少し休んだら行ってみよう?」
「うん…楽しみだわ、ジゼル」




