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054 タンゴ

 もう、どれほどの時間が経ったのだろう……。


 かつて毒虫として名を馳せていた俺は、今は惨めな地下牢生活を送っていた。


 太陽の光も届かないジメジメとした場所。この地下牢に入れられて何日経ったのかもわからない。まるで本当に虫になった気分がした。


 もう半年ほどは経っただろうか? それとも、まだ十日ほどしか経っていないかもしれない。時間感覚のマヒするようなこんなところでは、心がゆっくりと腐っていくような心地がした。


 二つ名持ちになって、獅子心臓から好待遇でスカウトを受けて、ようやく人になれた気がしたのにな。そんな生活も一年ちょっとで終わり。


 今はなぜだか楽しい記憶ではなく、毒虫を食べてまで生き延びた幼少期の苦しい記憶ばかりが蘇った。


 その時、地下牢がぼんやりと明るくなる。たぶん、蝋燭の明かりだ。飯の時間なのだろう。


 腐蝕銀鎖の飯は、想像よりもずっとよかったことを思い出す。黒パンと薄味のスープだけだが、毒虫に比べればなんだって御馳走だ。


 壁に背中を預け、そのままいつものように飯が運ばれてくるのを待っていると、予想外の光景が飛び込んできた。


 女の子だ。金髪の女の子が、無表情な顔で鉄格子の向こうからこちらを見ていた。


 そういえば、少し前に腐蝕銀鎖の総長を名乗る同い年くらいの女の子が面会に来たが……。今度は誰だ?


 金髪の女の子は腐蝕銀鎖にとって大事な人物なのか、メイドもいるし護衛が二人も付いていた。毒を持っていない今の俺には過剰な戦力だな。


 俺はもう刃向かう気も脱走する気力すらなかった。嫌味を言う気にもなれなかった。もうすべてがどうでもいい。このまま腐るように俺は死んでいくのだろう。


「キミが毒虫?」


 ぼんやりと金髪の少女を見ていると、小さな声でそう問いかけてきた。


「あぁ……」


 べつに答えるつもりなんてなかったし、そんな義理もないのに、なぜだか俺はその瞬間を待ちわびていたような心地がして、そう答えていた。


 久しぶりに喉を震わせた感覚がある。そういえば、人と話すのは腐蝕銀鎖の総長以来か。


 もしかしたら、俺は人との会話に、人の温もりに飢えていたのかもしれない。


「ちょっと内緒の話があるんだ。だから、少し離れてて」

「いけません、ジゼル様!」

「そうです!」

「ないとは思いますが、もし何かあったら、オラたちは死んでも詫びきれねえ!」


 この金髪の少女は、ジゼルという名前らしい。記憶を探ってみるが、ヒットする情報はなかった。ますます何の用かわからない。


 不思議な気持ちでぼんやりと少女を見ていると、いつの間にか護衛を言いくるめたのか、少女が一人で立っていた。


 そして、少女はそっと呟くように問いかけてくる。


「キミも逃げてきたの?」


 逃げてきた?


「そうだな……」


 思えば、俺の人生は逃げてばかりだった。


 俺はこれでも壁の中の、ハインドスクエアの住人だった。裕福ではなかったが、それなりの生活をしていたと思う。


 それが変わったのは、幼い頃に両親が死んでからだ。


 頼るべき親族も知らず、俺は突然独りぼっちになった。


 ハインドスクエアに子どもを雇ってくれるところなんてない。お金が尽きてからは、腹が減れば盗みを働いて、飢えをしのいでいた。


 当然、屋台の店主には追い駆けられるが、俺は逃げた。


 最初は良心の呵責があった。だが、そんな心もだんだん摩耗していった。


 ものを盗んでは逃げる。それが俺の日常になった。


 だが、そんな生活も長くは進まない。俺はついに捕まり、東スラムに捨てられた。


 東スラムは、いつもどこかで暴動が起きているような危険な場所だった。そんなところに子どもが独りだけ。そんなの逃げるしかない。


 逃げて逃げて逃げて、なんとか生き残るだけの日々。


 その結果、比較的平穏な南スラムに流れ着いたが、スラムの流儀がわからない俺は、同じような子どもたちのグループにも入ることを拒否された。


 孤独だった。泥水を啜り、スラムの連中すら食べない毒虫くらいしか食べられるものがなかった。


 もちろん、ひどい味だし、何度も胃がひっくり返りそうになった。やっとの思いで飲み込んでからも腹痛、下痢で動けなくなった。


 でも、俺は生きるために食べ続けた。


 そんなことを続けていたら、だんだん毒で苦しむことが少なくなってきた。たぶん、毒に体が慣れたのだろう。


 そこからだろうか。毒を使い始めたのは。


 毒が自分の武器になるとわかってからは、積極的に自分の体に毒を取り込んだ。それは決して楽なものじゃなかった。でも、俺にはこれしかないのだという強迫観念で毒に打ち勝ち続けた。


 もちろん、最初からすべてが上手くいったわけじゃない。


 腐蝕銀鎖が壊滅してからは、南スラムも物騒になった。必然的に戦闘になることがある。


 最初は粉々に磨り潰した毒虫の粉を相手に投げつけるだけだった。躱されたら逃げる。上手くいけば大人も倒すこともできた。でも、毒は有限だ。基本的に逃げるのは変わらずだった。


 そこからどんどん改良を加えて、今の戦術に落ち着いた。


 だんだん逃げる回数も減っていった。そして、気が付けば俺は強者の一角として認識され始めていた。

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