048 エデウス
「聖女……」
その意味は知っている。治癒魔法に長けた女性を指す言葉だ。その昔、魔王を討伐した勇者パーティに所属していた治癒魔法使いの女性の尊称であることも知っている。
察するに、数的劣勢であるはずの腐蝕銀鎖の者たちを治癒魔法で支えているのが、その聖女なのだろう。
兵の質で腐蝕銀鎖の者たちに劣っているとは思えない。我らはバラモス伯爵の正規軍であり、スラムのゴロツキとはわけが違う。
たしかにスラムの中でも二つ名持ちは警戒すべき対象だが、それでも全体的な質ではバラモス伯爵軍の圧勝だろう。
質で凌駕し、数的優位のはずなのに、我が軍は負けている。
そう。認めよう。我が軍は負けているのだ。
楽勝であったはずの戦場をものの見事にひっくり返された。それを為した者、それが、連中が聖女と呼ぶ存在だとすれば?
たしかに、考えてみれば最初からおかしいのだ。
獅子心臓からの報告では、腐蝕銀鎖は多数の負傷者を抱え、それらを治療する術もなく、このまま自滅していくとあった。そんないつもの報告があったのが、つい昨日のできごとだ。
それが、なぜこんなことになっているのか?
その聖女と呼ばれる存在が、腐蝕銀鎖の負傷者を治してしまったとしたら?
「これは……」
突飛な発想だが、あながち間違っているとも思えなかった。そう考えれば、すべての辻褄が合うのだ。
その聖女とやらが、本物のバケモノになるという事実に目を瞑りさえすれば。
こちらはすでに教会のほぼすべての治癒魔法使いを動員している。
その数、実に十七人。
たしかに、その中には未熟な者はいる。だが、名の知れた治癒魔法使いも参戦しているのも確かだ。
我が軍は、確実に平均的な質は腐蝕銀鎖の兵を凌駕している。そして、数的優位なのも確認済み。普通に考えれば、怪我人の数は腐蝕銀鎖の方が多いはず。それを治し続ける。しかも、そんな状態にもかかわらず、こちらの十七人の治癒魔法使いを魔力で圧倒している。
報告が事実であれば、こちらの名の知れた治癒魔法使いさえも使えない魔法も駆使しているらしい。
しかも、私の知っている情報がすべて正しければ、その聖女とやらは、多数の腐蝕銀鎖の負傷兵を治し、紅の雫、獅子心臓、そして我が軍、ずっと戦い続きだというのに、現在も治癒魔法を使える状態にあるらしい。付与魔法のオマケ付きで。いったいどんな魔力をしているのだ。
もう、わけがわからない。
その時、伝令兵が慌てた様子で走ってきた。その顔にはありありと恐怖の表情が浮かんでいる。
「ほ、報告! 腐蝕銀鎖の一団がこちらに向かって急進中! 狙いはここです!」
「なんだと⁉」
「それは本当か⁉」
「まさか……!」
「…………」
騒ぐ参謀たちとは対照的に、私はその凶報を無言のまま聞いていた。
早い。あまりにも早すぎる凶報。おそらく、我が軍の兵力は想像以上に削られていたのだろう。腐蝕銀鎖の突破を許してしまうほどに。
戦略的な予備部隊など、とっくに使い尽くしている。ここの防衛人数は最小限しかいない。
これは、敗死だな。
「閣下! お早く街の中へ!」
参謀の一人が叫ぶ。
将軍である私が、部下を置いて街の中へ逃げ出す。それは決定的な、そして屈辱的な敗北を意味していた。
それは我が身可愛さで部下を切り捨てる行為。仮にも将軍にまでなった者の行為ではない。
「私に敗軍の将として無様をさらせというのか?」
「閣下! 此度の腐蝕銀鎖の動き、怪しい点が多すぎます! それを伯爵様に直接ご報告できるのは閣下だけです! どうか、どうか部下たちの死を無駄にしないでください!」
「閣下! 総員撤退命令を! お早く!」
「できる限りの兵を残します! ですから!」
今まで私を支え、苦楽を共にしてきた参謀たちが、私に詰め寄るように叫ぶ。
もう本当にこれしか道がないのだと思った。
そして、私に託された彼らの思い。それを踏みにじることはできなかった。
「総員、撤退だ……」
私が悔しさのあまり呟くように言うと、参謀たちはそれでいいのだとばかりに頷いて応えてくれた。
そして、彼らは弾かれたように機敏に動き出す。
「ありったけの伝令をかき集めろ!」
「総員撤退! 総員撤退! なんとしても街の中に帰るのだ!」
「閣下もお急ぎください!」
「閣下、後を託させていただきます! 総員抜刀だ! 少しでも時間を稼ぐ!」
「皆、今まで、ありがとう……!」
自然と、私は頭を下げて、参謀たちに礼を言っていた。
貴族である私が目下の者たちに頭を下げる。普通ならありえない行為だ。だが、今までの感謝を伝えるにはこれしかなかった。
おそらく彼らはここで私を逃がすために死ぬつもりだとわかったからだ。
参謀たちは虚を突かれたように一瞬体を固まらせると、すぐに笑顔を浮かべる。
「野心家の閣下のお守りは大変でしたが、楽しかったですよ」
「その物言いは不敬すぎるだろう? しかし、楽しかったのは事実です」
「では、閣下お早くお逃げください。おさらばです!」
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