第88話 立冬
第88話 立冬
森に、冬が訪れていた。
木々は葉を落とし、枝を広げたまま、静かに空を仰いでいる。
夏の間、深い緑に覆われていた森も、秋には黄色や赤に色づき、今ではその多くが地面へと帰っていた。
木の根元には、乾いた葉が幾重にも重なっている。
その上には、薄く雪が積もっていた。
白い雪は、草の先や倒れた枝の上にも降り積もり、森の景色を少しずつ塗り替えていく。
風が吹くと、枝に残った雪がさらさらと舞い落ちた。
ひらり。
白い欠片が空を漂い、地面へと消えていく。
森は静かだった。
けれど、眠っているわけではない。
冬を越すために、それぞれの命が、それぞれの場所で過ごしていた。
木のウロの奥では、小さな動物が丸くなって眠っている。
枯れ葉を集めた寝床に身体を埋め、冷たい風が入り込まないよう、奥の方へと身を寄せていた。
小さな胸が、ゆっくりと上下する。
すやすや。
穏やかな寝息だけが、静かな空間に響いていた。
別の木の根元では、土の中へ潜り込んだ動物たちが長い眠りについている。
地上がどれほど冷え込んでも、土の中にはわずかな暖かさが残っていた。
落ち葉の下。
木の根の隙間。
土の奥。
冬眠する動物たちは、春が来るまで、そこで静かに時を過ごす。
森のあちらこちらに、そんな小さな命の寝床があった。
冬は、すべての命にとって厳しい季節だ。
食べ物は少なくなり、冷たい風は体温を奪っていく。
だからこそ、眠ることを選ぶものもいる。
今は動かず、力を蓄え、暖かい季節が戻るのを待つ。
森の中では、そうした営みが、毎年繰り返されていた。
けれど、すべての動物が眠っているわけではない。
雪が薄く広がる野原では、小さな影が二つ、元気よく走り回っていた。
ラタとカーバンクルだ。
白い子ネズミと、小さな白いリス。
二匹は雪の上を、追いかけたり、追いかけられたりしながら駆け回っている。
ちょこちょこ。
ぴょんっ。
ラタが雪を踏みしめて走れば、カーバンクルは軽やかに跳ねて、その後を追いかける。
反対にカーバンクルが急に向きを変えると、ラタも慌てて進む方向を変えた。
小さな足跡が、白い雪の上に次々と刻まれていく。
まっすぐ進んだと思えば、くるりと曲がる。
少し離れたところまで走っていったかと思えば、また戻ってくる。
まるで、雪の上に絵を描いているようだった。
カーバンクルの額にある赤い宝石が、冬の淡い光を受けてきらりと輝く。
ラタはそれを気にする様子もなく、目の前を走るカーバンクルを追いかけていた。
やがて、二匹は雪の上でぴたりと止まった。
顔を見合わせる。
そして、次の瞬間。
また駆け出した。
ふわりと舞い上がった雪が、小さな身体の後ろに散っていく。
寒さなど気にしていないような、楽しげな姿だった。
冬の森にも、遊びの時間はある。
雪は冷たく、風は厳しい。
それでも、雪が積もったからこそ生まれる楽しみもあるのだろう。
二匹の足跡は、やがて風に吹かれた雪によって、少しずつ薄くなっていった。
その近くに立つ木の枝から、小さな鳴き声が聞こえてきた。
ピィ、ピィ。
枝の上には、十羽のシロエナガが並んでいた。
ふっくらとした白い身体を、いつもより大きく膨らませている。
羽毛の中に身体をしまい込むようにして、十羽がぴったりと寄り添っていた。
ピィ、ピィ。
小さな声を交わしながら、枝の上で身を寄せ合う。
一羽が少し動くと、隣の一羽も身体を揺らした。
けれど、離れることはない。
みんなで並んでいれば、少しは暖かいのかもしれない。
丸く膨らんだ身体が十個。
白い羽毛が重なり合い、枝の上に小さな白い塊ができていた。
ときおり、風が吹き抜ける。
細い枝が揺れ、シロエナガたちは一斉に身体を低くした。
風が通り過ぎると、また元のように身体を膨らませる。
ピィ、ピィ。
小さな鳴き声が、冬の森に響いた。
葉を落とした木々の間では、その声がいつもより遠くまで届くようだった。
夏には葉の陰に隠れていた小さな姿も、今はよく見える。
冬の森は、寂しい景色に見えることもある。
けれど、よく目を凝らせば、そこにはたくさんの命があった。
眠るもの。
走り回るもの。
寄り添って暖を取るもの。
それぞれが、冬という季節を生きている。
風が吹く。
雪が舞う。
そして、森は少しずつ、深い冬の色に染まっていった。
森の奥。
紬の暮らす家の外にも、冷たい風が吹き抜けていた。
石垣の外に広がる木々は、すっかり葉を落としている。
枝先には、もう色づいた葉の姿はほとんどない。
風が吹き抜けるたび、細い枝が揺れ、かすかな音を立てた。
ざわざわというよりも、さらさらと。
葉を失った枝同士が触れ合い、冬の空気の中に小さな音を残していく。
地面には、落ち葉と雪。
秋の名残と、冬の訪れが重なり合っていた。
そんな景色の中で、一際目を引くものがあった。
森に立つ、大きな木。
その枝には、まだ葉が残っていた。
オレンジ色。
黄色。
冷たい風に揺れるたび、残された葉がひらひらと動く。
周囲の木々がすっかり葉を落としているからこそ、その色はよく目立っていた。
冬の白と、枝の灰色。
その中に残る、暖かな色。
まるで、秋がまだそこにいるかのようだった。
風が吹く。
葉が揺れる。
それでも、すぐには落ちない。
大木は静かに枝を広げ、残された葉を冬の空の下に留めていた。
やがて落ちるのか。
それとも、もうしばらく、この景色を彩ってくれるのか。
それは、まだ分からない。
ただ、その大木だけが、冬の森の中に秋の色を残していた。
冷たい風が、石垣の外を通り過ぎていく。
その風がどれほど冷たくても、家の中には、別の時間が流れていた。
ぱち、ぱち。
薪が小さな音を立てて燃えている。
揺れる炎が、石壁を柔らかな色に染めていた。
紬は火のそばに座り、のんびりと暖を取っていた。
身体には、モコモコの毛糸で編んだセーターを着ている。
自分で紡いだ毛糸で作ったものだ。
少し大きめだけれど、ゆったりとしていて、暖かい。
火のそばにいると、身体の芯までじんわりと温まっていく。
紬は両手を火の方へ向け、指先を温めた。
外では冷たい風が吹いている。
きっと、森の中はかなり寒いだろう。
けれど、今は無理に外へ出る必要もない。
家があり、火があり、暖かい服がある。
少し前までは、こんなふうに落ち着いて過ごせる日が来るなんて、思ってもいなかった。
紬は炎を見つめながら、ふう、と小さく息を吐いた。
火が揺れる。
薪が爆ぜる。
それだけのことが、なんだか心地よかった。
ふと、隣が気になって顔を向ける。
そこには、アルブレーヴがいた。
大きな身体を火のそばに寄せ、静かに暖を取っている。
長い毛並みが、炎の光を受けて柔らかく照らされていた。
アルブレーヴは目を細め、じっと火の暖かさを味わっているようだった。
そして、その背中の上には――。
ルーチェがいた。
ごろり。
身体を横に倒し、羽を少し広げて寝転がっている。
どうやら、アルブレーヴの背中を寝床にしているらしい。
ごろごろ。
羽を動かし、気持ちよさそうに身体を伸ばす。
アルブレーヴは気にしていない様子で、動くこともなく火のそばに座っていた。
ルーチェにとっては、暖かい火と、ふかふかした背中の両方を楽しめる、なかなか良い場所なのだろう。
紬はその様子をしばらく眺めていた。
「……ルーチェ、そこがいいの?」
声をかけると、ルーチェは顔だけをこちらへ向けた。
「ギョ」
短く鳴く。
それから、またごろりと寝返りを打った。
どうやら、動くつもりはないらしい。
「そっか。暖かいもんね」
紬は小さく笑った。
アルブレーヴも、特に気にする様子はない。
むしろ、ルーチェが背中に乗っていることなど、いつものことだと言わんばかりに、ゆったりと火のそばに座っていた。
ぱち、ぱち。
火の音が響く。
外では、風が森を吹き抜けている。
葉を落とした木々は、冷たい空気の中で静かに枝を揺らしていた。
けれど、この家の中は暖かい。
紬は火のそばで身体を休め、アルブレーヴは暖を取り、その背中ではルーチェが気持ちよさそうにごろごろしている。
特別なことは、何もない。
ただ、暖かい場所で、仲間たちと一緒に過ごす。
そんな時間が、今の紬には心地よかった。
窓の外では、冬の森が静かに広がっている。
大木には、まだオレンジ色と黄色の葉が残っていた。
風が吹くたび、その葉が小さく揺れる。
秋の名残を残したまま、森は冬を迎えていた。
そして、家の中では、火が静かに燃え続けている。
森の冬は、まだ始まったばかりだった。




