第57話 空を飛ぶ豚
第57話 空を飛ぶ豚
森の奥から響いた、あの大きな音。
ドカン――という衝撃音のあと、しばらくの間、木々の向こうには砂埃が舞っていた。
「……」
紬は石垣の内側から、じっと森を見ていた。
砂埃は少しずつ薄くなっていく。
けれど、何が起きたのかは分からない。
「アルブレーヴ……大丈夫かな」
さっきまで一緒にいた白い鹿。
突然いなくなってしまった。
心配ではある。
でも、ルーチェに襟を引っ張られてまで止められたのだから、今は待つしかない。
「……戻ってきてくれるといいんだけど」
そう呟いたときだった。
森の奥から。
何かを引きずるような音が聞こえてきた。
ズル……。
ズル……。
「……ん?」
紬は耳を澄ませる。
ズル……ズル……。
音が少しずつ近づいてくる。
「何の音?」
ルーチェも石垣の上から森を見ている。
「ギョ?」
木々の隙間から、白いものが見えた。
「あ……」
白い体。
二本の角。
「アルブレーヴ!」
無事だった。
紬はホッとした。
けれど。
「…………」
アルブレーヴの角に。
何かが引っかかっている。
黒い。
大きい。
そして。
明らかに生き物だった。
「…………え?」
ズル……。
ズル……。
アルブレーヴが引きずってきたものが、地面の上を擦れる。
「……イノシシ?」
普通のイノシシより、ずっと大きい。
全身を覆う毛は黒く、体つきも太い。
アルブレーヴはそんな巨大なイノシシを角に引っかけたまま、何事もなかったように歩いてくる。
「……」
紬はしばらく言葉が出なかった。
アルブレーヴは石垣の前まで来ると、鼻を鳴らした。
「ふんす」
「……」
「ふんす。ふんす」
「……アルブレーヴ?」
白い鹿は、少し得意げに胸を張った。
「……これ、持ってきたの?」
「ふんす」
「……そうなんだ」
紬は巨大なイノシシを見る。
そして、アルブレーヴを見る。
「……大きいね」
「ふんす」
まるで、
どうだ。
と言っているようだった。
すると。
「ギョ!」
ルーチェが飛び降りた。
「え?」
そのままイノシシのお腹辺りに着地する。
そして。
ガシッ。
爪で毛を掴んだ。
「……まさか」
「ギョ!」
バサッ!
大きな翼が広がる。
バサバサバサッ!
「えっ」
イノシシの身体が。
地面から離れた。
「ええっ!?」
ルーチェは必死に羽ばたいている。
イノシシが、宙に浮いている。
しかも。
「……一メートルくらい?」
地面から一メートルほど浮いたまま、少しずつ前へ進んでいく。
「ルーチェ、すご……」
バサバサバサッ!
そのまま石垣へ近づく。
そして。
バサバサバサッ!
石垣を越えた。
「……」
紬は空を見上げる。
白い鹿が持ってきた黒いイノシシ。
そして、それを爪で掴んで運ぶ虹色の大きな鳥。
しばらく見ていると。
「……空に浮かぶ豚」
ぽつり。
「ギョ?」
「いや、なんでもない」
ルーチェはそのまま紬の前までやってくると、
ドサッ。
イノシシを地面に下ろした。
「……ルーチェ」
「ギョ!」
「ほんと、力持ちだね」
「ギョ!」
嬉しそうに翼を広げる。
「アルブレーヴも」
「ふんす」
「二人とも、すごいなぁ……」
紬は改めて、目の前のイノシシを見た。
近くで見ると、本当に大きい。
太い脚。
大きな鼻。
鋭そうな牙。
「……これ、魔獣だよね」
紬は《知識と生存》を開いた。
ページが淡く光る。
【名称】スタンプボア
【分類】魔獣
【状態】良好
【食性】雑食
【攻撃方法】大きな鼻による突進・打撃
【食用】可
【魔素】中
【食味】良好
【備考】魔素量が多い個体ほど、肉の味が良くなる傾向があります。
「……食べられるんだ」
紬は少し驚いた。
魔獣。
昨日までは、その言葉だけで怖かった。
実際に森の外には、黒いモヤをまとった生き物もいた。
そして昨日聞いた、あの咆哮。
それなのに。
今は、その魔獣が一頭。
自分の目の前に横たわっている。
「……」
紬は少しだけ戸惑った。
「魔獣を……食べるのか」
目の前のスタンプボアを見る。
すると。
「ふんす」
アルブレーヴが鼻を鳴らした。
「ギョ!」
ルーチェも鳴く。
「……」
二匹を見る。
「……せっかく持ってきてくれたんだよね」
アルブレーヴの耳が動いた。
「じゃあ……」
紬は少し考えてから、頷いた。
「使おう」
その言葉に、ルーチェが翼を広げる。
「ギョ!」
「でも……」
紬はスタンプボアの脚を見る。
四本の脚。
大きな身体。
そこで、ふと昨日のことを思い出した。
「……あ」
あの木。
地面から三メートル近い高さに残されていた、巨大な爪痕。
紬は目の前のスタンプボアを見る。
「この子も四本足だけど……」
足元を確認する。
爪の大きさ。
身体の高さ。
そして、昨日見た爪痕。
「……やっぱり違う」
紬は森の奥へ目を向けた。
「昨日の爪痕は、この子じゃないんだ」
つまり。
この森には、スタンプボアとは別に。
あんな高い場所へ爪痕を残せる何かがいる。
「……」
少しだけ背中が寒くなった。
「考えるのは、あとにしよう」
紬は家へ向かった。
そして、すぐに戻ってくる。
手には石刃。
それから、黒曜石の刃。
「よし」
道具を確認する。
スタンプボアを見る。
「……これを、解体する」
言ってみたものの。
「…………」
大きい。
ものすごく大きい。
「私……これ、全部一人で運べるのかな」
紬が考えていると。
「ギョ!」
ルーチェが再びスタンプボアを掴んだ。
「え?」
バサッ。
バサバサッ。
「ちょっと待って」
そのまま飛び始める。
「沢まで運んでくれるの?」
「ギョ!」
「……ありがとう」
ルーチェはスタンプボアを持ったまま、森の中を進んでいく。
バサ。
バサ。
バサ。
最初は順調だった。
けれど。
少し進むと。
バサ……。
バサ……。
「……ルーチェ?」
明らかに羽ばたきが弱くなってきた。
「大丈夫?」
「ギョ……」
スタンプボアが少しずつ下がる。
「わっ」
紬が慌てて手を添えようとした、そのとき。
白い影が横から現れた。
アルブレーヴだった。
角をスタンプボアの身体に引っかける。
ぐいっ。
持ち上げた。
「……」
そのまま歩き出す。
「アルブレーヴ、ありがとう」
「ふんす」
ルーチェはその横を飛ぶ。
「……交代制なんだ」
紬は思わず笑った。
しばらくすると。
またルーチェがスタンプボアを掴む。
「ギョ!」
バサバサバサッ!
「今度は大丈夫?」
「ギョ!」
どうやら大丈夫らしい。
その後も。
ルーチェ。
アルブレーヴ。
そしてまたルーチェ。
二匹は交代しながら、巨大なスタンプボアを沢まで運んでいった。
やがて。
さらさら。
水の流れる音が聞こえてきた。
「着いた……」
紬は沢の前で足を止めた。
ルーチェがスタンプボアを下ろす。
アルブレーヴも横に立つ。
紬は二匹を見る。
それから。
石刃を見る。
黒曜石の刃を見る。
そして。
目の前の巨大なスタンプボアを見る。
「…………」
紬は黙った。
「…………」
ルーチェも黙った。
「…………」
アルブレーヴも黙っている。
沢の水だけが、さらさらと流れている。
「……さて」
紬は石刃を握った。
「どうしようか……」




