第56話 エンカウント
第56話 エンカウント
引き続き秋の深まる森の中を
紬は、籠を背負い石垣の外側を歩いていた。
もちろん、遠くまで行くつもりはない。
アルブレーヴがついてきてくれたからだ。
石垣からそう離れない範囲で。
「この辺りなら、大丈夫かな」
紬は周囲を見回した。
石垣の中と同じ森。
木々もある、草も生えている、鳥の声も聞こえる。
なのに。
「……やっぱり、空気が違う」
立ち止まる。
石垣の中にいるときは、もっと空気が軽い。
深く息を吸っても、どこか柔らかい感じがする、でも外は。
ほんの少しだけ、重いく感じる。
「なんでだろう?」
紬には、その理由が分からない。
ただ、昨日から感じていた、石垣の内側と外側。
同じ森なのに、何かが違う紬が、考えながら歩いていると。
ガサッ。
「……ん?」
木の根元が揺れた、次の瞬間。
何かが飛び出してきた。
「わっ!」
小さな影が、紬の足元を横切っていく。
細い尻尾。
「……ネズミ?」
普通のネズミに見えた。
けれど。
紬は目を細める。
その身体の周りに。
薄い黒いモヤがまとわりついていた。
「……?」
紬が《知識と生存》を開く。
ページが淡く光った。
【名称】不明
【分類】動物
【状態】不明
【属性】不明
「……分からない」
ネズミは一度だけ振り返った。
黒いモヤが、ふわりと揺れる。
そして。
森の奥へ走り去っていった。
「……なんだったんだろう」
紬はしばらく、その方向を見つめていた、アルブレーヴも追いかけることはしない。
ただ、静かに森の奥を見ていた。
「アルブレーヴも知らないのかな?」
返事はないが、白い鹿の耳が、ほんの少し動いた。
紬はそれ以上追わなかった。
知らないものを追いかける。
それは、この森で何度も危険な目に遭ってきた紬にとって、やってはいけないことだった。
「戻ってきたら、本で調べてみよう」
そう呟いて、また歩き始める。
しばらくすると。
今度は木の上から鳥が飛び立った。
くちばしには、木の実。
「あ」
鳥は近くの枝に止まり、木の実を足で押さえながらつついている。
さらに少し先。
今度は小さな動物が、何かをくわえて走っていった。
「みんな、食べ物を探してるんだ」
紬は足を止めた。
昨日、アルブレーヴから見せてもらった光景を思い出す。
外は危険。
でも、外には食べ物がある。
だから動物たちは、危険を承知で森へ出てくる。
「……みんな、ちゃんと生きてるんだな」
そう思うと、少しだけ胸が温かくなった。
森は怖い、けれど。
ここで暮らしているのは、怖いものばかりじゃない。
鳥もいるし、小さな動物もいる、木の実もある。
きっと、ここにもここなりの生活がある。
「……」
紬はまた歩き出した。
石垣から、それほど遠くない。
それでも。
少しずつ、知らない景色が増えていく。
そして。
「……え?」
紬の足が止まった。
目の前に、大きな木がある。
「これ……」
幹に何かが残っていた。
近づいて確認する、そして。
紬は顔を上げた。
「……爪痕?」
木の幹に。
何本もの大きな傷が刻まれている。
縦に。
深く。
そして何より。
「……高っ」
地面から、およそ三メートル。
紬が手を伸ばしても、もちろん届かない。
「だいたい三メートルかな……」
紬はその傷を見上げた、これをつけた生き物は、いったいどれくらい大きいのだろう。
「……私より、ずっと大きいよね」
ルーチェが飛び上がる。
爪痕の近くまで行き、首を傾げた。
「ギョ……」
いつもの声とは少し違う。
アルブレーヴも、その木の前で立ち止まっていた。
白い鹿の耳が。
ぴくり。
また、ぴくり。
そして。
森の奥を見る。
「……アルブレーヴ?」
返事はない。
紬も、森の奥へ目を向けた。
静かだ。
鳥の声もする。
風も吹いている。
なのに。
なんとなく。
そこには近づかないほうがいい気がした。
「……戻ろうか」
紬は小さく呟いた。
アルブレーヴも反対しない。
ルーチェも木から戻ってくる。
紬は踵を返した。
そのとき。
――。
「……?」
アルブレーヴが、突然顔を上げた。
ルーチェも。
キョロ。
キョロ。
「どうしたの?」
二匹とも、森の奥を見ている。
アルブレーヴが鼻を動かした。
「ふん……」
もう一度。
「ふんす……ふんす……」
「え?」
紬が振り返る。
アルブレーヴが紬の背中に鼻先を当てた。
「ちょっ……」
ぐい。
「え?」
さらに。
ぐいぐい。
「アルブレーヴ?」
紬を石垣の方向へ押していく。
「ちょっと待って、どうしたの?」
「ギョッ!」
ルーチェまで紬の前を飛び回り始めた。
「え、え?」
いつもと違う。
明らかに。
二匹とも、急いでいる。
「……戻るの?」
アルブレーヴが、さらに紬を押す。
「分かった!」
紬は籠を抱え直した。
そして。
走った。
その瞬間。
森の奥から。
「GAAAAOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOO――――ッ!!」
空気が震えた。
「――――っ!?」
紬は目を丸くした。
考えるより先に。
足が動いていた。
「逃げるっ!」
走る。
走る。
走る。
風が顔に当たる。
木々が左右へ流れていく。
「は、速……!」
自分でも驚くほど速い。
籠を抱えたまま、必死に走る。
ルーチェも紬の前を飛ぶ。
「ギョェェェー!」
「分かってる! 急いでる!」
後ろを振り返る余裕なんてない。
ただ。
石垣。
石垣だけを目指す。
「あった!」
見えた。
石垣が。
紬は勢いを止めず、そのまま――
跳んだ。
「えいっ!」
石垣を一気に飛び越える。
着地。
少しよろめいた。
「……はぁ……はぁ……」
息が上がる。
でも。
戻ってこられた。
紬は胸を押さえながら振り返った。
「……アルブレーヴ?」
いない。
「……あれ?」
さっきまで後ろにいたはずなのに。
「アルブレーヴ?」
もう一度呼ぶ。
返事はない。
「ルーチェ……アルブレーヴ、大丈夫かな?」
「ギョェー!」
ルーチェは、どこか心配なさそうに鳴いた。
「……そっか」
紬は少しだけホッとした、アルブレーヴなら大丈夫。
そう思いたい、けれど。
視線は、石垣の外へ向いたままだった。
「……」
森の奥。
さっきの咆哮。
あれは。
何だったんだろう。
紬がじっと見つめていると。
突然。
ドガァァァァン!!
「えっ!?」
大きな音が森の奥から響いた。
木々の向こう。
砂煙が一気に舞い上がる。
「なに……!?」
紬は思わず石垣の外へ向かって一歩踏み出した。
「アルブレーヴ……!」
その瞬間。
ぐいっ。
「え?」
襟元が引っ張られた。
「ルーチェ?」
ルーチェが紬の服の襟をくちばしで咥えている。
「……行っちゃ駄目ってこと?」
「ギョ……」
紬は足を止めた。
砂煙を見る。
森の奥を見る。
心配だった。
怖かった。
それでも。
今は、行けない。
「……分かった」
紬はゆっくりと後ろへ下がった。
それでも視線だけは、森の奥から離れない。
舞い上がった砂煙は。
なかなか消えなかった。




